それは本当にいつもの戦力拡充の訓練任務のはずだった。
恐ろしく早い槍に突かれた、大砲とか駆逐艦とか装備させとおせ主~と主に泣き言を嘯きながら帰ってきて、肥前忠広が呆れながら手入れ部屋まで肩を貸した陸奥守吉行が、手入れから出てきたときには歪んでいた。
迎えに行った肥前忠広に、それは卑屈な笑みで口をゆがめた。
「わしは陸奥守吉行、ただの人斬りの刀じゃ。せっかくこがなところに来たがやけんど――わしは斬るばあしか出来んぜよ?」
青色警戒アラートがけたたましく本丸に響いている。”異物”を報せている。本丸に在るべきではないものが在る――排除せよと。
しかし、肥前忠広はそんな音など全く耳に入らなかった。
ただ、有り得べからざる、あってはならない、信じがたいその声だけがしんと鼓膜を打つ。
反射的に刀に手が伸びていた。
カチ、と珍しく鯉口を切る音が立ち、隣の南海太郎朝尊が咎める目を向ける。肥前の鯉口の音に目の前の打刀――陸奥守吉行であるはずで、そうであるはずのない刀剣男士が暗紅色の目を薄ら眇めて柄に手をかける。いつでも抜けるように。その姿勢は、北辰一刀流の形を為していない。それは、桃井流のものだ。坂本龍馬の知らぬはずのそれだった。
「――は?」
腹に飲み込む前の激情が口を突いて飛び出す。火打ち石で火薬庫に火花を散らしているような気がした。かち、かち、かち。一秒ごとに激情の火花が肥前の火薬庫を爆発させようとしている。そしてむしろそのときを待っているかのような奇妙な感覚だった。膨らみきった風船と化している。
「落ち着きたまえ、肥前くん」
南海太郎朝尊が肥前と陸奥守吉行であるわけもない刀剣男士の間に立つ。
そうして気付く。鏡写しのように、それと肥前忠広の構えは相似であった。
氷水をかけられたように、肥前の背筋の裏がキン、と冷えた。
近年、長期化する戦の中で敵方もただ数で押してくるばかりではなくなっているというのは肌の感覚のみならず、大侵寇や百鬼夜行、無論それ以前より特命調査などでも分かっていることだった。
先行調査員として政府で顕現した肥前もいくつかの事例を聞き知っている。例えば贋作とされた蜂須賀虎徹、真作の近藤勇の長曽祢虎徹。例えば昭和に発見されなかった山姥切国広、燃えなかった燭台切光忠、御手杵、現存する蛍丸etc.etc.――刀剣男士としての物語の改竄は、こちらの戦力を削ぎ、混乱させる。物語を改竄された刀剣男士が、こちらの味方であるとは限らない。
南海太郎朝尊が張り詰めた声で彼の由来を問う。
「――もう一度、君の名を。そして君の前の主は?」
陸奥守は刀から手を離さずに首を傾げる。
ふわり、と短いくせ毛が揺れる。その色は、常の涅色よりずっと深い、夜の色をしている。身長は変わらない。反りのある刀の鞘がある。明けの空の色では無く、乾いた血の色の目が怪訝そうに歪んだ。
「やき、陸奥守吉行ぜよ。おんしゃあは南海太郎朝尊じゃろ? ――そこの脇差は……」
「――肥前忠広」
「肥前の!?」
ぎょっとした顔で肥前へ駆け寄る刀に、肥前は身を引く。暗紅色の瞳が彼と同じような驚愕と喜びに染まる。耐えがたかった。
「しょうまっこと肥前のじゃ……。おおの、こがあに小もうなって、何があったがかえ、兄やん?」
「……」
肥前はそれに答えない。ぐっと顎を引いて彼を睨みあげた。
「問いに答えろ。お前の前の主は?」
「なんじゃあ、おまんも知っちゅうろう、岡田以蔵じゃ。脱藩した後、京都で龍馬がわしをあのひとに渡したがよ。その後はあのひとと――」
すうっ、とその目が昏くなる。側に来て初めて、その首にうっすらと浮かぶ己と同じ傷に気がついた。
その有様に、肥前は血の気が引くような気がした。目の前が暗くなって、足下が崩れていくような感覚野中で、怒鳴りつけたい気持ちもわき上がる。
違う。違う。
――それはおまえの物語ではない!
肥前は衝動的にその首に手を伸ばした。
びくりと避けようとして、肥前忠広だと知っている刀はそのまま肥前の好きにさせた。
「どうしたがよ?」
素直で、かつて見知っていた坂本家の宝刀の頃のままに見えた。
いつも飄々として、弱音を嘯くばかりで本当のところを見せぬ、陸奥守吉行よりもきっと、率直な刀だろう。
指先で首の傷をなぞる。肥前の傷と異なり、その傷はうっすらとしている。
もしかすると、この刀はあの夜に折れていないのかもしれなかった。そして、あの地で燃えてもいないのかもしれなかった。
だが――、それが何になるだろう。
だってそうだ。
これほどに、彼が歪まされて損なわれかけていることに、自分は悲しんでいる。
火薬庫に火が付く前に、悲しみが肥前を襲った。降りしきる悲しみが、怒りの炎を鎮め、残るのはひたひたと心を冷やす悲しみばかりだ。
「お前は――」
「肥前?」
首から腕を広げて、驚いて固まる刀を抱きしめた。
「お前はそうじゃない。そうじゃないだろ……」
「え、……あ……」
「だってまだ、これが残ってる」
ホルスターに残る銃に触れる。
そのS&Wは陸奥守吉行しかもち得ぬものだ。それに触れた瞬間、陸奥守の目が日の出のような光を帯びる。
入り口で取り乱しかけている主と抜刀した近侍とを宥めていた朝尊が声を上げる。
「――肥前くん! まだ、戻せる!」
「――この、銃は……」
「お前は――いっつも勝手をして、いっときもじっとしてなくて、俺に纏わり付いては、好きだ好きだとうるさくて……、畑当番で芋ばっかりつくりやがって、そのくせ格好付けたがりで、要領だけ良いべこのかあで」
――おれのだいじな、二つと無い、ひとふりで。
おまえが損なわれることが、おれは何より悲しい。
「――っ!?」
ぱち、ぱちと火花が爆ぜるように、陸奥守の瞳が燃える。暗い夜の――人の血の乾いた夜は、明けねばならない。暁を開く、その瞳。
釧路で、燃えてしまったことも、龍馬の死のその場で全てを見ていたことも――ぜんぶを思い出すのはきっと惨いことだろう。
しかし、それを含めた全てが、陸奥守吉行である。
歴史の修正力――なんて、呼び方はあるのだろうが。引き戻したのは肥前で、必死にそれに答えたのは陸奥守だった。
「しゃんしゃんせえ――陸奥守吉行!」
ガン、と思いっきり頭を打つける。
気を失う間際に見えた、痛みに涙を浮かべた朝ぼらけの瞳に肥前はにやりと口角を上げた。
終
2025/06/8 #ひぜむつ版真剣60分一本勝負 参加作
お題:好きな場所/ifの世界