ある暮れ、江戸にて

 ごめんください、と男は江戸八百八町の末、小さな長屋の板戸に声をかける。
「傘屋ですよー」
 板戸の向こうから返事がない。音もなく、傘屋は困った。
 長屋町にはもう既に橙に染まり、漸く涼しくなる夕暮れの気配が忍び寄っていた。蝉の声に紛れ、夕涼みに出ている大工や遊び盛りの子どもの声が聞こえる。
 この浪人から張り替え傘をもらって代金を渡してしまえば、傘屋もさっさと夕涼みに混ざれるというのに。
──夕涼みにでも行ったかねえ。
 この長屋にここしばらく住み着いている男は、丁寧な手つきで傘を張る。しかしながら時折、納期を破るのが困りものの素浪人だった。
 脱藩浪士で顔が割れては困るのか、いつも布を深く被っている。しかし、六尺を越える身丈や、布の影から覗く顔立ちは随分な男ぶりの青年であった。
傘屋はもう一度板戸を叩く。
「田中さま」
 今一度声を掛けて、いなければ帰ろうとした時だった。背後から囁くような声が掛かる。
「おい。その部屋にいるやつ──」
 かすれた声に弾かれるように振り返れば、それはたそがれ時の影から滑り出てきたような男だった。光の加減で濃緋のようにも鮮赤にも見える大きな目をじとりと傘屋に向け、だらりと下げた手の中に刀が収まっている。
「ひ」
──人斬りだ!
 何の気配も無く現れたように見える男に、傘屋は思わず腰を抜かしてしゃがみ込んだ。思わず頭を抱えた傘屋に舌打ちして傘屋の腕を引く。
「別に取って食うわけじゃねえだろうが」
 乱雑ながら腕を引かれて立たされる。そのまま転がした風呂敷に包まれた傘まで拾い上げられて押しつけられる。
 土汚れまで払ってもらい、傘屋は慌ててそれを受け取った。
「あ、ありがとうございます」
 傘屋は慌てて頭を下げた。
 勝手に驚いてすっころんだ相手をわざわざ立たせ、傘まで拾い上げた青年になんて失礼をしてしまったのかと情けなくなる。
「申し訳ない、驚いてしまって」
 最近人斬りが多いという噂で過敏になってしまったようだった。
「あ? 別に……」
 青年──に見えたが、視線を避けるようにそっぽを向いている様子は少年を少し過ぎた若者にも見えた。切れ長の目がじとりと傘屋を睨む。
 思わず少し怯んだところに、ぽん、と肩を叩かれる。
「どうした肥前?」
「た、田中さま」
 心の臓がそろそろ悲鳴を上げそうになりながら見上げれば、見慣れたボロ布が視界に入り込んで肩の力が抜ける。若者が睨んでいたのはこの男らしい。
 いつものボロ布で表情は読めぬが、もう随分馴染みになった素浪人はいつも通り淡々としている。肥前と呼ばれた若者は切れ長の大きな目を鋭く尖らせて田中を睨む。
「テメエ、ひとの文を捨ててんじゃねえ」
「ああ」
「傘の納品、今日ですけど」
「あ」
 田中は肥前青年の身が竦むような恫喝をまるで柳に風と受け流し、傘屋の催促にびくりと肩を竦めて頬を掻く。怒鳴りつけようとしていた肥前青年は塩を掛けられた青菜のようにしおれて、心底呆れた顔で田中を見上げる。
「まだ傘張りしてんのかお前」
「う、すまん、すぐ持ってくる」
 ボロ布を翻しながら田中が部屋に駆け込む。
「てめっ」
「肥前、そっちもってくれ」
 傘を山のように両手に抱えてきた田中に呼ばれ、肥前は顔いっぱいに渋い柿でも食ったかのような表情を浮かべて傘を受け取る。手に持ったままの黒い刀を傘の下の支えにして深々とため息を吐く。
「おい、これ一人で持ってくのか」
 独り言のようながら、どうやら肥前青年は傘屋に聞いているらしい。
──なんて良い青年なのだろう。人斬りと間違えて本当に申し訳なかった。
 傘屋はいっそ感動しながら長屋通りの手前に荷車を持ってきていると伝える。
「どっちだよ」
 相変わらずのボロ布のまま──とはいえ傘屋はこの浪人が布を剥いだ姿をみたことはない──部屋から出てきた田中が傘を半分、もう半分を肥前青年が抱えている。傘屋に持たせるつもりは全くないようで、肥前青年が小さな顎で促す。
「す、すみません」
 恐縮しながら傘屋は荷車に案内する。
 ついでにそこで田中に前回売れた分の対価を渡す。
「ん? 色が付いてるな」
「この前、きれいな手蹟の文が張ってあったでしょう。あれ親方が気に入ったらしくて。またお願いしますよ」
「……捨てるんじゃなかったか」
「ああ! テメエ!」
 肥前がボロ布ごと田中の胸ぐらを掴む。この様子、もしかしたら文の差出人はこの若者だったのだろうか。
 傘屋もこの男の考えがなんとなく分かるようになるまでしばらくかかり、今とてとんと分からぬ時もある。
 この若者も随分苦労しているのだろう。
 傘屋の懐に忍ばせていた紙に包んだ饅頭を取り出してなにやら田中を怒鳴っている肥前青年に差し出す。
「よかったらどうぞ。江戸一番の饅頭です」
「……あ?」
「親切にしてくださったンで」
 肥前青年は怪訝そうな顔を崩さぬまま傘屋の差し出した饅頭を手に取る。
「あ、それ美味いところの──」
 田中が伸ばそうとした手を肥前青年が弾き、饅頭をふところにそそくさと仕舞う。もごもごと口を動かしたように見えるのはきっと礼を言ってくれたのだろう。口に合うと良いのだが。
「次は来月の晦に来ますからね」
 よくよく日付を忘れる浪人に釘を刺し、傘屋は荷車を引く。
 暮れ泥む江戸の町は、火事でもないのに深い紅に染まっている。

 

 

 傘を持って襲いかかってきた男を切り殺す。
 ぽろり、と懐からまだぬくもりの残る饅頭が転げ落ちた。
 大業物の刃を黒い鞘に納め、饅頭を拾い上げる。土埃に塗れ男に踏まれ、もう食べれたものではない。
「──美味かったよ」
 饅頭はもう動かぬ、ねじ曲げられて歪んでよどんだ人の亡骸の上に備えられた。

 

ある夕、江戸にて 了