「さて。信康様、貞愛殿。今から掛川や智鯉鮒にお戻りになるのも危のうございます。明日には駿馬をお選びします故、今宵はゆるりと休まれよ」
”刀剣男士”たちは血まみれの白い装束の男をほとんど担ぐようにしてどこかへ去って行き──早く手入れをしなければ! と少年姿の”篭手切”と呼ばれていた少年が慌てていた──永見貞愛は兄と残される形になる。
いつの間にかあの刀をもった異形も、双子の兄弟の姿もない。
そこで口火を切ったのが、長柄の槍を持つ大柄な将であった。
「良いのか、忠勝、直政も」
兄が驚く。もしや、兄は今から掛川にとって返すつもりだったのだろうか。自分は流石にどこぞの旅籠で今晩を過ごすつもりであった。
「ははは、信康様は本当に大きくなられた」
と、槍を持つ男が磊落に笑い、怪しげに喉の奥でもう一人が笑う。
「今からお二人を追い返すと思われていたとは、心外デスね」
刀剣男士でありながら、徳川の将であるという二人が、貞愛たちをを和やかに迎え入れる。
「そうじゃ、忠勝。あの子は」
「秀康様は御手杵が城へお戻ししました故、ご安心召されよ」
と、忠勝が微笑む。
「狭苦しい陣屋ですが、まずは湯でも」
あっ、と思う間もなく人を払った湯殿が用意される。
贅沢に薪を使った湯殿に貞愛は感嘆した。陣屋にも関わらず、こうまで薪を使えるとは。
湯殿に感嘆した貞愛を察した聡い兄が笑う。
「はは、他の陣ではそうもいかぬよ。二人は松平──いや、徳川を支え続けた重臣中の重臣じゃ」
「井伊の赤鬼と、天下無双の本多平八郎は流石に智鯉鮒にも名が聞こえてきます。あの脱がしたがりが井伊の赤鬼とは……」
「はは、直政はああ見えて恐ろしく辣腕じゃ」
妙に手際よく装束をひん剥かれ、抵抗する間もなくこざっぱりとして手触りの良い湯帷子を宛がわれた。
(子どものように湯殿に放りこまれ「Huhuhu……着物は預かりマスよ!」と湯殿の外から声がした。何のことかと思えば着替えを用意してくれていたらしい)
この湯殿だけを見れば、進軍中の陣屋とはまるで思えぬ。まるで大名屋敷ほどの充実具合だ。
それなりの規模の神主たる自分でも怖じ気づきそうになる心づくしを、兄ははにかみながらも受け取っていた。
不思議な光景であった。
彼らの端々には、兄や自分に対する不思議な暖かい気遣いのようなものが確かにあった。
主君筋であるからというだけではない。彼ら自身が兄を慈しんでいた。
「まったく……、嫁に行った孫が帰ってきたじいさんばあさんみたいな騒ぎだ」
思わず小声で呟くと、くつくつと兄が笑う。聞こえてしまったとばつが悪く思いながら振り返れば、兄は穏やかに貞愛の鬢を撫でた。
「そうじゃなあ。……忠勝は儂にとっては傅役の一人というのもある。赤子の頃からほんに世話になった。幼い頃は忠勝の稽古から逃げ出しては野山に遊びに行ったものじゃ」
「兄上がですか」
「うむ。まじめに稽古をするようになったのは元服ちょっと前じゃな。呆れたか?」
「まさか!」
悪戯っぽく笑う兄の背を手ぬぐいで拭う。生きているのが不思議なほどの深い傷がその背には残っていた。
──兄上が生きていてくれて俺たちがどれだけ嬉しかったか!
深い傷の残る兄の背を丁寧に流しながら答えれば兄は照れくさそうに笑った。
「では、兄上の剣の腕はあの平八郎譲りってことですか」
「いや……」
兄はふと言い淀んだ。言いたくなければ言わなくてもいい、と慌てて続ければ、いつもの兄の顔で兄は貞愛の頭を撫でる。
「ありがとう。さあ交代じゃ。貞愛も大きゅうなったのう」
「兄上にそんなこと……!」
「何、兄弟水入らずじゃ。気にするな」
貞愛に背を向けさせ、信康の大きな手が貞愛の背を労う。背中越しに兄が話し始める。
「──儂の剣の師はな、榊原康政という。”あの方”の話では康政もまた刀剣男士という、歴史を守る刀の化生だそうだ」
榊原、という名前も、流石の貞愛にも音に聞こえた徳川家重臣の名である。かの太閤にして討ち取れば十万石と言わしめたと智鯉鮒にも噂が届いていた。
「今は長丸の側におると、ここに来るまでに聞いたが……」
「会いたくないのですか?」
肩越しに振り返ると、兄は困り顔で笑う。
「会いたいとは思うがな。……会ったらきっと怒られるであろうなあ」
そう呟いた兄は、まるで叱られるのを怯える子どものようだった。
兄がそのような顔をするのを、貞愛は始めてみた。貞愛の前ではいつでも頼れる兄で在り続けてくれていたからだ。きっと、他の弟の前でも、秀康の前でもそうだっただろう。
貞愛は胸をはずませて脳裏に双子の兄を浮かべた。
──兄上だって人の子なんだ。なあ、兄貴。しってたか?
どこぞの城の中、夢うつつの秀康が、そうなのか! 流石は兄上じゃのう! とよく分からない返事をしている気がする。
双子なので、おそらく実際にそうなのだろうな、と貞愛は密かに笑った。
湯浴みを終え、手触りの良い唐木綿の着物に袖を通した頃に直政が直々に迎えに来る。
陣屋とて小姓の一人や二人いるだろうに、わざわざ彼自身が呼びに来る。
見れば、具足は外しているとはいえ、戦装束の直政は手に刀を下げていた。
「何……」
「こちらをお持ちになって、こちらへ」
兄と己の刀をそっと手渡され、屋敷の陰に出ると草履と笠を差し出される。
よもや陰で兄を切るつもりでは、と貞愛が身を固くすると、直政がけらけらと笑う。
「Huhuhu、そんなに警戒しないでくだサイ。取って食ったりはしマセンよ」
「手間を掛けてすまないな、直政」
「イイエ、お気になさらず。直ぐにお休みになってもらいたいところデスけど、ちょっと困った事になってまして。ここは危ないので、ワタシの陣屋へ」
直政が肩を竦めて溜息を吐く。
「蜻蛉切が食い止めてマスけど、アレは腹芸が得意では無いデスからねえ……」
直政が先頭を、兄が殿を努めて歩き出す。勝手口を目指す途中で、なにやら言い争う声が聞こえた。
「静かに。ここを通らねば出れないのデス。見つかったら切られマスよ、たぶん」
声を低めた村正に、二人は慌てて息を殺す。戸板の向こうで、忠勝が誰かと話をしている。
「──だから、もう御手杵たちは本丸へ戻ったといっているだろう、大倶利伽羅」
大柄な忠勝の影に隠れ、低い声の主は分からない。しかし、後ろの兄がわずかに身を強張らせたのが分かった。
──やすまさ。
と声も無く兄が呟く。直政が苦い顔で兄と自分を背に庇い、そっと腰の物に手を掛ける。
戸板の影から勝手口に向かう。
「……分かっている。そんなことはどうでも良い」
「報告が遅れたことか?」
ゆっくりと移動すれば、戸板一枚の向こうで、色黒の武将がなにやら忠勝を問い詰めているのが見える。
「違う。…………先ほど秀忠が、昔武士をしていた”掛川の吾兵”に話を聞いてもらったと、……アンタ何か知ってるんじゃ無いのか」
思わず横目で兄を見れば、兄は苦笑いをして頭を掻く。
「掛川の吾兵……か。殿を守って吾兵は死んだ。……我等で荼毘に付したのだ、そうだろう」
忠勝が静かに榊原を窘めている。
「……ああ」
静かな頷きに、どきりとした。
低い声に落胆と諦念が混じっているのが貞愛にさえ感じられる。
ひゅ、と隣の兄が息を詰めた。
「伏見城から戻ったばかりだろう。……今日の所は休んではどうだ。明日からまた直ぐ評定だ。な?」
ぽんぽんと気安く忠勝が榊原の肩を叩く。その手を煩わしげに振り払う。
その手が一瞬で束に掛かる。
「馴れ合うつもりは無いが──理由は聞く」
「──大倶利伽羅ッ!」
脇をすり抜けられた忠勝の焦り声。兄と直政が目にも留まらぬ速さで抜刀する。
「貞愛、下がれッ!」
兄に身体を押されるのと殆ど同時にキンッと鋼のかち合う音が響き、ぱっと闇夜に火花が散る。
「huhuhu……せっかちさんは嫌われマスよ」
戸板を切り落とした一刀目を直政が流し、兄が一合二合切り結ぶ。すぐさま直政の刀が割って入って阻み、二つの刀が鍔競り合う。
兄は笠で榊原から顔を隠しながらも、貞愛の前に身をのり出している。
「…………なぜ」
貞愛と兄を見た榊原は眉根を寄せる。
その言葉に貞愛は咄嗟に笠を脱ぎ捨てて立ち上がった。
「──てっめえ! いきなり斬りかかって何様だこの野郎!」
ばっと顔を上げて兄の前に立って男を怒鳴る。
まだ抜き身の刀を下げた榊原が貞愛を見て更に眉間の皺を深くする。
「貞愛ッ!」
兄は慌てて貞愛の袖を引くが、ここで兄をこの男に見せてはならない。
まだこの時代に生きている自分ならまだしも。死んでいるはずの兄を歴史の通りにされてはたまらない。
──その可能性も、彼は伝えている。
榊原の目が思いの外幼く丸くなる。
「……結城宰相と、同じ顔……か」
「あのバカ兄貴と一緒にするんじゃねえよ! 俺の名は永見貞愛! あのバカの双子の弟だよ!」
怒鳴りながら名乗りを上げれば、榊原はふん、と鼻を鳴らす。
「永見、智鯉鮒のか」
「……此度は秀康様が”あちら側”へな。貞愛殿にはご助力をいただいたのだ。ご助力無くば、秀康様も……」
「そうデスよ。恩人なのデスから、切ってはいけマセン」
さりげなく忠勝と直政が兄の前に立ちふさがっている。
「…………、はあ」
男は深い溜息を吐いて刀を鞘に収める。
「分かった。もういい」
「分かってくれたか!」
忠勝が相好を崩す。直政もあからさまにほっとした顔で肩の強ばりを解く。
ああ、と頷いた彼の目が、貞愛を通り抜けてその向こうを見つめている。
咄嗟に止めようと手を伸ばしたが、人とは思えぬほどの身のこなしで榊原は貞愛の手をすり抜けた。
「……自分が仕込んだ剣筋くらい分かる」
するりと忠勝と直政の間もすり抜け、顔を伏せる兄の前に跪く。
俯いたままの兄の笠を榊原が払う。
観念したのか、兄は顔を上げる。
その顔が、驚きに染まっていくのが見えた。
「……生きておられたのですね」
──柔らかな声だった。
兄をまっすぐに見つめて、榊原は確信を持って兄の名を呼ぶ。
「信康様」
「……康政」
初めて兄の顔がくしゃりと歪む。いつでも笑みを絶やさぬ兄が見せる初めての弱さに、貞愛は言葉が出ない。
「康政、儂は……」
榊原は首を振った。
「……歴史は守られている。ならば俺に何も言うことは無い」
弾けるように直政が笑い声を立てた。
「大倶利伽羅は素直じゃないデスねえ。嬉しかったなら嬉しかったといえば良いのに」
「馴れ合うつもりは無い」
「またまたぁ」
おもしろがっているような顔の直政に突かれ、榊原がうっとうしそうに手を払う。
「……うるさいぞ」
「変わらないな、三人とも」
ははっ、と兄が笑えば榊原は気が抜けたような顔をする。
直政が榊原の手を引き、忠勝が穏やかに微笑んだ。
もう大丈夫だと、忠勝の陣屋に戻る。
「大倶利伽羅も聞いていくといい。今宵の小山の物語を」
しらん、と吐き捨てた男は、しかし去ることはなく夜を明かした。
ある夜、小山にて 完