一章 憑き物おとし

うららかな昼下がりの帝都は人がごった返して賑わしい。
赤煉瓦の東京駅の構内を抜けて八重洲の出口をくぐれば、帝都の高い空は澄み切って薄青に染まり、馬の肥ゆる季節の情緒を感じさせる。その空も、昔に比べれば随分と狭くなったと思う。空は高々と延びる建物に浸食されているようだ。御手杵は山高帽を落とさぬように押さえながら、秋風に目を細めて空を見上げた。もう百年近く昔に消えた大江戸八百八町の面影は、いまやこの空にさえ見あたらない。江城ごうじょうも今や菊花の御所である。
ひっきりなしに汽車の音がする赤煉瓦の東京駅を背にして、御手杵は腕を組む。
「どうしようかなあ」
本多の子爵に頼み込まれて足を伸ばしたものの、期待していた蜻蛉切に会えなかったこともあって、御手杵は気持ちを持て余していた。
このまま淀橋の邸宅に帰る気分にもなれず、銀座でもぶらりとしようかと、そちらに足を向けたときだった。
「そこもと、もしや御手杵の槍か!」
青年の声が御手杵を呼び止める。
「誰だあ?」
振り返って、御手杵は己の目を疑った。少し離れた場所で御手杵に声を掛け、あまつさえ手を振っていたのは、目が眩むほど美しい男の二人連れだったからである。
人間離れした、妖しいほどの美しさ。周りのモダンガールを初めとした女性たち──だけでなく時には男も──は、二人を遠巻きに眺めて、ぽおっとした熱視線を向けていた。
一人は当世流行りの山高帽子に青いシャツ、赤いネクタイに白いスラックス姿でフロックコートをひっかけたモダンボーイの色男は銀色の髪をした恐ろしく美麗で線の細い美青年。もう一人は明治に立ち帰るような、カンカン帽に紺紬の着流しに二重回しを纏って鯔背にたたずむ、これまた一目一生光彩奪目、人か天女か妖か、とばかりの目映く麗しい色男。
それが二人連れ立っているので、衆目を釘付けることこの上ない。
「ほ、本当に誰だよ」
心当たりを思い出せずに戸惑う御手杵に、二重回しの色男が笑った。
「はっはっは、覚えておらんか? 江城で会うていたではないか。三日月宗近だ。近頃では天下五剣だなんて言われているなあ」
そう言われて見れば、三日月を瞳に囲う男の憑喪神などこの世に一振しかいないに決まっていた。少し考えればわかったじゃないか、と御手杵は内心で膝を打った。
「あ、あんたかあ。散切り頭になっちまってわかんなかったぜ」
御手杵は気不味さに後頭部を掻くが、三日月は気にした様子はつゆとも見せず、大らかに頭を叩いて見せた。
齢千年を越えた太刀のこの寛容さは御手杵の無礼など気にもしていない。
「どうだ、文明開化の音がするだろう?」
愉快そうににこにこと笑う三日月宗近に次いで、モボ姿の男が口を開く。
「俺とは初めてか? しばらく伊達に伝わった鶴丸国永という。君は松平の御手杵だろう? 友と参勤交代を見物しにいったときに見かけたぞ。驚きの大鞘だったな」
「おお……、あんた、あの鶴丸国永かよ。ああ、まあ鞘は重かったよ」
御手杵は呆気にとられて二振を見た。
鶴丸国永は仙台藩から時の帝に献上されたと風の噂で聞いた上に、三日月宗近と言えば、徳川宗家秘蔵と名高い、天下三名槍と並び称される天下五剣一の美刀の名である。
「あんたら勝手に出てきていいのかよお」
と、さすがの御手杵も、一言もの申したくなったとしても誰も責めはしないだろう。
「もはや刀などどうこう言われぬ世の中ではないか。太刀よりも種子島やら大筒やらが持て囃される。おれたちのような無用の長物は気楽なものよ」
と朗らかに笑いとばす三日月に、御手杵は底知れない気分になった。
「うへえ。あんたらが無用の長物だってンなら俺ぁどうなるんだよ」
「ははは、時代は変わるもんだな。刀の時代も槍の時代も終わっていく。ついこの間まで、武者が手に手に刀で戦をしていたような気がするが。驚きだな」
鶴丸国永がけらけらと笑う。
そこでようやく思い出したのだが、二振ともが遙か平安に打たれた太刀であった。御手杵の打たれた時より、何百年も前に打たれた刀である。それ故の達観かもしれなかった。
三日月宗近がふと寂しげに呟いた。
「先ほど、堀川物やら来派の太刀やらが売り立てられておったところに通りすがった。人には見えて居らなんだが、一振、ものつきの小太刀があったのだ。良い家に行ければよいが……」
「このご時世だ。どうしようもないさ。人も刀も移ろっていく。その小太刀がどうなるかはそいつの運次第だろうぜ」
鶴丸が慰めるように声を掛けた。御手杵は肩をすくめる。
「刀はまだいいじゃねえか。槍なんて江戸でもほとんど出番がなかった」
拗ねる振りの御手杵に、三日月宗近がくすりと笑い、はっと思案顔になる。
鶴丸国永が案じれば、柳眉を寄せてつぶやいた。憂い顔も傾国だ、などと呑気をしていた御手杵は、三日月宗近の言葉にふいを突かれた。
「槍……槍といえば、天下三名槍の何れかが、売り立てられるという噂を聞いたが、本当か?」
三日月宗近の言葉に御手杵はびくりとした。
「え」
「その様子では知らなんだか。ではおれが聞き違えておるやもな」
御手杵は、それに返事をせず、いやな音をして軋んだ胸の音に耳を傾けた。
十何年か前に借金のカタに浚われた日本号が、筑前の黒田に戻ったという話は聞いたばかりであるし、即座に又売り立てられることは無いだろう。
自分も、そのような話は聞いていない。そんな報せがあるなら、前橋松平の家の物たちの耳に入らないはずがない。
ならば残る一つは知れている。
御手杵は、なにもかもすとんと腑に落ちて、顔をしかめた。
「──売り立ては蜻蛉切だ。そうか……だからだ」
確信を持って言い切った御手杵に、鶴丸は怪訝そうに眉を寄せた。
「蜻蛉切──戦国無双の本多平八郎忠勝の愛槍か。しかし、あれはもの憑きの槍だと聞いたぜ。赤毛の隆々とした大男の姿に口寄せられてるそうじゃないか。売れないだろう?」
鶴丸国永が怪訝そうに首を傾げる。
この時代、古い物の売り買いに人々は慎重であったと伝えられる。
刀や槍、古いものを一つ買って、人間みたいなものが洩れなく憑いてくるというのは、どう考えても気味が悪かったのだろう。人に見えているものつきが売られたという記録はない。御手杵や、目の前の二振のように、只人にも見える刀は、生半に売り立てたところで、買い手などつかないのが常だったのだろう。
しかし、御手杵は首を振った。
「蜻蛉切は覚悟してる。だから、俺が呼んでも、子爵が呼んでもいっさい出て来やしなかったんだ。憑き物落としのものは、良く売れるからなあ──」
「蜻蛉切に会いに行ったのか?」
「ああ、ちょうど今朝がたに。子爵に呼ばれたからな。結局出てこなかったが」
矛盾しているようだが、憑喪神が憑いていた刀は良く売れたらしい。万人の目に見える姿で顕れているものつきの槍や刀には買い手はつかないが、かつて憑いていたとされるものは、むしろ名に箔が付いてよく売れたと、当時のコレクターの手記に書かれている。
蜻蛉切はそれを狙っていたのだろう、と御手杵は納得した。猪突猛進に見えて、存外頭の回る槍であった。そこもかつての主譲りなのだろうか。
黙りこくった、奥の間にひっそりと安置されていた沈黙の槍の姿が御手杵の脳裏によぎる。御手杵が呼べば、きっとすぐに、いつものようにあの若い槍が姿を顕すだろうと、本当は御手杵は高を括って、呑気していたのだ。
しん、とした沈黙など想像していなかった。
「死んだ振りなんて、さすがは狸に過ぎた槍だぜ」
「御手杵、もしやお主怒っているのか?」
三日月宗近が、興味深そうな瞳で御手杵をのぞき込んだ。
「ん、怒る?」
御手杵は思いも寄らない言葉に首を傾げた。
「なんでそんな人間みたいなこと思うんだよ。俺は槍だっての」
真顔で曰う御手杵に、目の前の二振の宝刀は顔を見合わせた。

ちょっとの沈黙を破って、鶴丸がくるりと御手杵に声をかけた。
「ああそうだ御手杵の槍よ。俺たちは今から、トーキー映画とやらを見に行くんだが、君もどうだい」
「とおきい」
鸚鵡返しに繰り返した御手杵に、鶴丸が意外そうに首をかしげる。
「知らないか?」
「いや、ああ、思い出した弁士が居なくてもしゃべる活動写真のことだな?」
「しかり。このころは凄いなあ。絵が動いて喋るのだと鶴丸が言うのだ。弁士もおらぬらしい。どうしても一度見とうてな、お家に無理を言うて鶴丸に案内してもらっておるのだ」
三日月宗近がわくわくとした調子で語る。長らく外に出れなんだ故、世事には疎いのだ、と自分ではにかんでいた。美しい顔を興奮に赤らめている様子は、世の絵描き連中が伏して拝んで描きたがるだろう麗しさで、御手杵は少々気圧された。鶴丸国永は御手杵と三日月宗近の双方を見て、含み笑った。
「どうだ、御手杵の槍よ」
「まあ、どうせ暇してたしなあ、行くよ」
「よし決まりだ!銀座松竹か、テアトルか、浅草か。とりあえず行こうじゃないか」
鶴丸国永が手を打って歩き出す。
結局は帝都座で、数週間前に封切られた日活トーキーと相成った。
有りがたう──が幾度も繰り返される映画である。東京へ売られていく幼なじみの娘をはじめに、様々な人を乗せながら、曲がりくねった伊豆の田舎道をバスが行く。顔立ちの涼やかな主人公の運転手を中心に、のりあう人の悲哀がユーモラスに描かれていた。
御手杵は絵が動いて、そのなかの俳優自信が喋ることに驚きながらも、身売りされていく哀れな娘から目が離せなかった。そして、去って往く人を見送り続ける運転手にも。
鶴丸国永も三日月宗近も、けらけらと笑いながら、時折ふっと瞳を細めてまじめに見入っていた。御手杵よりも長い間人の営みを見続けた刀たち。人より生まれて人に使われ、人の手に流されて、時に人より長くいきるもの。
売られて往く娘だろうか。見送る運転手だろうか。定められるまま、去っていく工夫の娘だろうか。
映画が終わった後、ただ御手杵に分かったのは、このトーキーの結末は我らには訪れないということだ。
我らは、どうしようもなくものだ。
御手杵も、そして蜻蛉切もそうだった。
映画の後、こじゃれた洋食屋でライス・カレーを食べ、一本の槍と二振の刀は「また今度」と言い合って、にぎわしい銀座の道を分かれていった。
華やかなる昭和モダンの初秋の風は、並木をじんわりと色づかせるだろうと思わせる冷たさだった、ある日である。