二章 槍の奉公

翌日、御手杵は再び洋装に身を包んで本多の屋敷を訪なっていた。

昨日の今日で、松平家も本多家も驚いたようだったが、少しばかり無理を言って訪れた。
「蜻蛉切に本当にもう憑喪神が憑いていないのか、我らの方法で確かめたい」
そう告げると、本多の家の奥方は頷いた。今日は、子爵は帝国議員としての仕事で出払い、広い家には奥方と数人のご家来衆がいるばかりで、しんと静まりかえっていた。
奥方は御手杵に茶を出しながら、暇を埋めるようにぽつりと語った。
「わたくしの実家にも、村正の刀がございました。わたくしや兄弟が幼少のみぎりには、よう面倒をみてもらったものでございます。わたくしが長じるにつれ、姿が見えなくなりましたが、あの頃の恩は忘れておりませぬ。ですから、蜻蛉切の槍が村正の作ときき、本当にうれしかったのです。お会いしてみたかった」
御手杵は、改めて奥方をみた。凜とした瞳とかち合って、懐かしさを覚える。武家の女らしい芯の強さが見えた。
「そりゃ、その村正の刀の恩返しだろうさ」
「恩返しですか」
「そうさ、ものに心が目覚めて憑喪神。世話になった恩ってのは、犬猫にすらあるんだから、我らにだってある。その刀は、アンタの家にずいぶん世話になったんだなあ。だから子守だってするんだ。おれたちはものだから、できることは限られてるけどな」
俺なんか刺すことぐらいしかできねえし、などと嘯くと、奥方は鈴の張ったような瞳を丸くして、うれしげにはにかんでみせた。物慣れない少女めいた笑顔に、御手杵はたじたじとなって頭を掻く。
「ほんにお武家の魂を持っていらっしゃるのですね」
奥方の、不思議と寂しく聞こえた声音がやけにはっきりと耳に残った。

 

人払いを頼んだ離座敷に、蜻蛉切を運び込んでもらってその前に座り込んだ。
じっと蜻蛉切の穂先を睨む。
「蜻蛉切、観念して出て来な。出てきたことは本多の家には言わねえから」
腕を組んで言い放てば蜻蛉切の穂先が震える。やはり居たか、と御手杵は深いため息を吐く。美しい彫り物のある穂先が、びくりと慄いたような気がしてさらに呆れた。三名槍に数えられる槍が、まるで叱られる前の小僧っ子ではないか。
「蜻蛉切」
少し意図して威圧感を込めて睨めば、一拍二拍置いて離座敷の空気が変わった。
観念したように、蜻蛉切の穂先から石突まで目に見えぬ力のようなものが溢れる。それは、段々と穂先の先に凝って、鮮血のように赤い滴が地面に滴った。蜻蛉切から溢れたものは畳に滴って、床にさざ波立つ。さざ波の向こう側に風の吹き頻く戦場の風景が見えた。滴った場所から蜻蛉切から溢れたものが人の形を象り、ふっと色付いて、目の前にいるのは、見慣れた人身すがたの蜻蛉切であった。完全に人に似せた姿ではなく、朧で背後の槍身が曖昧に透けた姿になったのは、人の手を借りぬ独力の限界であろう。
正座で顕れた蜻蛉切は、御手杵に向かって深々と頭を下げた。下げた顔の下で、これほど泣き出しそうな顔をされると、御手杵もこれ以上言いつのる気が失せる。そもそも、御手杵は怒っているとかそういうものではない。
「御手杵殿、再三のご無礼をお許しください」
「いいよ、別に怒るとかじゃねえからさ」
いい加減顔を上げるように言えば、おそるおそる蜻蛉切が顔を上げる。吸った血の分燃えるような赤い髪に、武人らしい太く意志の強そうな眉、その下の、人の理を離れた炉に融ける橙がかった金の瞳に、肉の厚い唇は引き結ばれている。隆々たる体躯は、遙か昔の本多平八郎忠勝の似姿か、槍を振るうにちょうど良い姿か。装束は時代を三百年はさかのぼった程の戦装束である。
「このような姿でもうしわけありませぬ」
「人の手を借りずにそんだけ立派に人に寄せられるんなら上等だろう。お前器用だなあ」
「いえ、自分などものの数には及びませぬ」
首を振る憑喪神の、槍らしいまっすぐな融通のなさに、御手杵は口元をゆるめた。これである。三百年前に初めて逢ったときと変わらぬ槍はまだ生きていた。人のような感情ではないにせよ、御手杵が今感じた感情はやはり安堵というべきなのだろう。
「そうだ。蜻蛉切、お前売り立てられる為に、姿を隠してるな?」
まずは気になったことを聞けば、蜻蛉切は息が詰まったように驚いた。その表情だけで状況証拠は十分だった。蜻蛉切もとっさに取り繕うこともできずにがっくりと肩を下げた。
「何故、分かってしまわれたのです」
「やっぱりなあ。そうじゃねえかって思ったんだ」
「聡いお方だ」
驚きが抜け切らぬ様子のまま賞賛され、御手杵は苦笑する。
「いや、本当は分かってなかったさ。半分は鎌をかけたんだ。本多はそこまで、危ないのか?」
「さて、自分はただの槍故そこまでは存じませぬ。しかし、万一の時にもの憑きの槍では買い手ががつきませんからな」
口が回るようになったものである。巧く本多の面子を立てる言い回しに御手杵は心中複雑になった。本当に万一の可能性で身を隠すわけがないので、窮状はきっと本当なのだろうが、蜻蛉切の言い方ではそれも怪しく思える。
「じゃあ鎧のやつはどうした?」
蜻蛉切と同様に、本多忠勝の鎧も伝来していたはずだと問うと、蜻蛉切は顔を上げて穏やかに笑った。
「あれとも話をしまして、あれもしばらく姿を見せておらぬはずです」
本当に、売り払われる為に準備をしていたらしい。御手杵の顔が曇り、それを隠すように俯いた。
「お前、それでいいのかよ」
思わず突っぱねたような声音になる。蜻蛉切はやはり穏やかに笑っていた。
「自分は本多に長く、ほかの家は知りませぬ。故に、寂しくないといえば嘘になりましょう。けれど、これで良いのです。これが、蜻蛉切にできる最後の奉公にございます」
しゃんと張った背筋に、どこか誇らしげな声音。思わず顔を上げれば、好奇心めいた輝きを宿した金橙の瞳が笑んでいた。
「本多に売られて、それでも本多に奉公するのか」
「無論。仕える家が変わろうと、我が身に受けた恩は忘れませぬ」
力強く言い張る槍に、翻意のかけらもなく、御手杵はため息を付いた。ものである以上、主は都度都度かわるというのに、いちいちそんな義理をたてるものがあるか。
日本号など、ころりころりと人の手をわたり、その都度その主に仕えているではないか。己を手放した家など忘れてしまえばいいのではないか。その方がお前も楽だろうに。
(まあ……あいつの場合は、こいつと違って自分の位に恃むところが多いからかもしれないけどさ)
それができないから、こうして阿呆のように気持ちのいい一本気の忠義ものなのだと、御手杵も分かっている。
自分を振り返ってみて、三百年前の結城の主のことも全く色あせずに覚えているのだから、蜻蛉切のことを馬鹿にはできないのかもしれない。
「お前本当馬鹿だぜ」
だが、どうしようもなく呆れ果てて悪態を吐く。蜻蛉切はゆったりと微笑んで反論はしなかった。なにもかも解っているような大人びた表情に苦虫を噛み潰したような気分になった。
むっすりと黙り込んだ御手杵に、蜻蛉切は畳に額をこすりつけるように頭を下げた。
「御手杵殿。どうぞ本多のものたちには、憑き物が落ちてただの槍になったとお伝えください。つきもの落ちの武具は高値で売れますから。このことはご内密にお願い申しあげる」
「……わかったよ。でもお前、今までずうっと本多に居たんだろう。あっさりと離れられるのかよ。お前そんなに薄情だったか?」
苛立ちを混ぜて揶揄すれば、蜻蛉切がはっと顔を上げた。その表情に自分の軽率な嫌みを悔いた。
「無体なことを仰る」
泣き出す寸前で歯を食いしばって堪えているような表情で、蜻蛉切は笑う。奥底にしまい込んでいた蜻蛉切の無念さを、不躾につついてしまったことに気が付いた。
「悪かった、言い過ぎたよ蜻蛉切」
「売らるるも、離れるも、槍である以上同じこと。世の中の流れには逆らえますまい」
「そうだな」
蜻蛉切は二三度頭を振り、表情を整えて御手杵を見据えた。
「だからこそ──だから、自分は、槍と生まれ、憑喪神つきものとして目覚め、ここまで長らえた意味は何かと、考えたいのです」
「何だあそれ」
「さて、自分はそれを試しに参るのです」
さては先ほどの嫌みの意趣返しかと思ったが、この槍に限ってそれはないだろうとも思う。
黙っていると、蜻蛉切が床に拳を付いた。
どんどん透けていく姿で、武人らしく頭を下げた。その後ろに、立ち葵の紋も鮮やかな陣幕が青空の下広がっているように見えて、目を疑う。
「ではそろそろ、この身が解けまする。結城の、そして前橋松平の御手杵の槍殿。またいつか、いずこかでお会いいたしましょう。またふたたび会い見えます時に、この本多平八糖忠勝の槍、蜻蛉切のついの奉公の首尾をご覧あれ」
「どういう意味だよ」
「今はまだ、自分にも分かりませぬ。蜻蛉切の馬鹿馬鹿しい我が儘です」
「ふうん、じゃあ達者でな。佳い人だと良いなあ」
「御手杵殿の武運長久をお祈り申し上げております。ずっと」
その言葉を最後に、蜻蛉切の人姿はふっと空気に解けて消えた。
元の通りに薄暗い離座敷に、すこし傾いた橙を帯びた西日が障子越しに射し込んでくる。
御手杵は蜻蛉切の柄を一撫でして、大きく伸び上がった。
「蜻蛉切、お前、たまに凄え好き勝手するよなあ」
恨めしげにつぶやいた声に、すこし蜻蛉切の穂先がおかしげに揺れた気がした。

その数日後、蜻蛉切が沼津の実業家に代われたという報を耳にすることになる。