四章 役目と奉公

けたたましいサイレンの音がついに聞こえて、屋敷はにわかに浮き足だった。そのころには御手杵はたいがい蔵にいて、蔵をでるのは力仕事にかり出されたときばかりになっている。空襲警報で逃げ出す家中を案じながら、蔵の中でまんじりとせずにほかの憑喪神と共に息を潜めていた。
アメリカ軍の大型爆撃機、超空の要塞と呼ばれるB-29は、昨夜と同じように夜の空を銀色に埋め尽くし、駿河湾を超えて魔術のように突如として現れた。
一九四五年、五月二十五日。夜十時過ぎ。
後に山の手大空襲と呼び習わされる、表参道まで燃え上がった第二次東京大空襲の夜である。

 

「さすがに俺らは避難できねえもんなあ」
と一人言つ。御手杵をはじめとした宝物は地面に埋めて守れと当主が言い残していたが、地面の下に埋めるのは忍びないと蔵にとどめられている。
家内の者たちは皆無事に避難できただろうか。庭の防空壕から声はしない。避難所へ逃げたのだろう。代わりに、遠雷のような轟きが近く遠くと聞こえてくる。どこかに赤い海に炎が燃え立っているのだろうか、と御手杵は目を伏せた。
闇夜に冴えて黒々と、恐ろしい戦闘機が隊列を組んでいる音が聞こえる。
「蔵に落ちねば良いが」
古い瀬戸物のつきものが腕を組んで不安げだ。
「屋根を通すのか?」
「まさか」
琵琶や琴が小さく悲鳴を上げつつささめきあう声が蔵に満ちた。
「落ち着けよ。喚いた所で外にでられるわけじゃあねえし。むしろ外にでたらでたで集中砲火だろう」
騒がしさに辟易して一喝すれば、ようやく混乱も収まる。
江戸の参勤交代では馬印であった御手杵は、気乗りしないながらもこの家のものたちに一目も二目も置かれていた。共にこの家の筆頭である式部正宗がふるえる若い憑喪神を宥めはじめた。
「御手杵様」
「ん?」
ようやく、九十九の年を経て憑喪神として目覚めたばかりの年若い太刀が御手杵をこっそりと呼んだ。
「本当に大丈夫ですよね。僕ら折れたりしないですよね。蔵に敵の爆弾が落ちたりしないですよね」
源清麿の太刀だったか、と御手杵は思いだす。まだ幼く、子供のような形で、淡い藤色をした目にいっぱい涙をためているのが哀れだった。抱き上げて袴の膝に乗せる。御手杵の結城絣の紺の袖に幼い太刀の涙が染みた。
「大丈夫さ。……もし爆弾が落ちても、俺たちの溶けた鋼は弾だか船だかになるっていうぜ。そうしたら、敵の腹に風穴開けて、恨みを晴らしてやろうじゃねえか」
何年か前に見送った同田貫正国の言葉を借りれば、幼い太刀は首を傾げた。
「僕の鋼がほかの物になったら僕の心はどこにいくの? 別の物になるの? それとも消えてしまうの? 消えるのは嫌だな……」
うつむいた花色の髪をかき混ぜる。
消えてしまうのだろうか。消えてなにも残らないのだろうか。御手杵には解らなかった。
「さあなあ。人は極楽浄土へ行くらしいけど、俺ら武器はどうなんだろうな」
「……御手杵様にも解らないことがあるんですね」
「うへえ、俺が解ってることなんて刺すことぐらいだぜ」
空惚けて見せれば、ようやく幼い太刀の表情がほころんだ。
「僕、まだもっと刀で居たいなあ。まだ何もしてないから」
江戸三作の四谷正宗を父に持つ太刀は、ねつっぽい口調でそうこぼした。
「そうだな……」
御手杵はうなずく。
蜻蛉切のついの奉公を見届けるという約束もある。戦争の前に三日月宗近たちと交わしたまた映画を見るという約束はすっかり流れて、今の今まで忘れていた。

 

花火の上がるような風切り音。
倉の瓦を破り、梁を砕く音がする。
「式部、上だ!」
とっさに太刀を抱え込んだ御手杵が怒鳴る。太刀は御手杵の腕の中でふるえていた。
式部正宗が呆然と上を見上げる。
琵琶が金切り声を上げる。かつて美しい音色を奏でて華やかに舞い踊っていた琴が、不協和音を響かせた。
「式部さま!」
倉の屋根を突き破り、落ちてくる火の尾をもつ銀色の筒。燃える筒が瓦を突き破り梁を砕いて黒い油の雨を降らせた。避ける間も無かった。
式部正宗が直撃を受けて砕け散る。あふれ出したぬるりとした油が、唸りを上げて炎を立ち上らせる。熱風が倉を吹き荒らす。
蔵が炉のようになるのは一瞬だった。
「ああ!」
長持の衣たちが熱風に煽られて末期に踊るように燃え上がる。琴が軋んで泣き叫びながら燃えていく。美しい曲を龍笛が奏でて燃える。倉の戸を身一つで飛び出した唐傘は、倉の中で燃える自身とともに燃え尽きた。
「御手杵、さま」
「しっかりしろ、おい」
腕の中でかばっていた太刀も、刀身が溶けるに従って溶けていく。すがりついていた腕が消えていく。
今まで湿気を吸ってくれていた炭に火がついてからは、炎熱地獄の様相であった。憑喪神の阿鼻叫喚の断末魔が倉に轟く。
「燃えるよお」
「嫌だ、助けて主様あ」
「助けて、助けて」
声も限りに憑喪神たちが悲鳴を上げる。あるものは平然と融けていき、あるものは身をよじって炭になった。歌いながら燃えていくものもある。御手杵はどこか実感がないまま、憑喪神たちを励ましていた。
御手杵も、一度は外にでて助けを呼ぼうとしてみたが、外も中も変わらぬ地獄である。雨のように、尾を引いた炎が空から降っている。母屋はごうごうと炎に包まれ、近所の家々も燃えていた。炎に巻かれかけた人を助け起こして火のない場所へ逃がしたあたりで、人の助けはあきらめた。空の上に銀の雲のように敷き詰められた航空機が降らせる火の雨が、御手杵の目に焼き付いた。
「あ」
ついに御手杵の大身も、ごうごうと炉のように炎の熱に耐えきれずに溶けていく。
「あ……」
どろり、と切先が融けだした瞬間。御手杵は目を見開いて、己の肩を抱いた。ようやく感じる、底知れぬ死への恐怖だった。
自分が居なくなったら、誰が彼らの思いを伝えるのだろう。
「だめだ、だめだ。嫌だ、そんな!」
焦燥に駆られて、炎から逃れようと壁を掻く。伸ばした手の先から燃えていく。炎が、何もかもが!
「秀康、晴朝!」
蜻蛉切の言葉の意味を理解する。
──槍と生まれて、ここまで生きながらえたその意味。
かの槍は本多忠勝の蜻蛉切。
「俺は、結城の御手杵だ!」
血を吐くような声で誰にともなしに叫ぶ。
どろりと融け落ちる穂先の音が、御手杵の最後の音だった。

その声を聞いた人間が居た。先ほど御手杵に助けられた青年である。青年はその絶叫が耳からは慣れることが生涯なかったという。
一九四五年、五月二十五日。帝都の大部分を焼き払い、焼け野原にし、あまたの人の命を奪った百度以上の空襲。その最後の大空襲である。
東京空襲では国の指定文化財だけでも、一七〇点の美術工芸品が焼失している。
御手杵の槍もここでおおくの宝物とともに焼失した。再刃もかなわぬほど、融けてしまったのだと伝わっている。