昔話
残酷な薪の爆ぜる音。狂騒と、鼻につく吐き気を催す肉の焼ける匂い。
暗く重たい雲が湿気た風を運んでくる。
――どうか、どうか。
人混みに紛れた青年は必死に祈った。神に見放された身であれ、祈る心は自由だった。
――どうか死なないで、どうか。
涙を必死に堪えながら食い入るように老爺たちを見つめる青年に、老爺は穏やかに微笑んだ。彼らの足下まで火が登っている。
――****、お前が気に病むことは何もない。
口元を動かして、老爺は優しく宥めた。その微笑みは、今まさに息絶えんとする老爺をまるで絵画に描かれる聖者の如く見せた。
ああ、彼等は知っていた。
青年は血の気のない顔を更に青ざめさせて汚れるのも構わず煤に塗れた地面に膝を突いた。
その老爺の笑顔は、まるで教会に掲げられる神の子の面影を、ステンドグラスの聖者の面差しをそのまま写しているように見えた。
冷えた水を顔面に掛けられたような顔をした群衆の中で、母親に抱きしめられていた少年が母の手をふりほどいて悲鳴を上げる。
周りの民衆が怯えたような顔で彼のために道を空ける。幼子は熱も構わずに柵に取りついて腕を伸ばす。
「おじいちゃぁん!」
ああ、今まさに焼かれ灰となる聖者よ。
彼はこの幼子の祖父であった。
今、幼子を抱え涙を流す母の優しき父であった。
狂気がぬぐい去られ罪悪を顔に塗りたくられた顔の観客が一人、また一人と踵を返す。幼子は母に抱えられて去る。
広場は凪いだ湖のように静まりかえり、熾火の爆ぜる音ばかりが雨だれのように聞こえる。
責務を果たした異端審問の男達が去れば、灰と化した老爺たちを迎える人もない。
ただ一人、地面に凝る影のような青年が一人、灰と煤に汚れて広場に踞っていた。
「****、**、****」
祈るように名を呼べど、彼らは決して帰ってこない。
重く垂れ込んだ雲から、陰鬱な夜雨が誰かの涙のように街に滴りはじめた。雨は広場に満ちる惨劇の灰を洗い流そうとする。
彼らは知っていた。
――知っていて、自分を許したのだ。
夜闇を引き延ばして成形したような長身瘦軀の男が一人、雨ざらしの灰の前に膝を突く青年の横にいつしか佇んでいた。
闇夜に輝く血色の目と長く尖った耳。吸血鬼であった。
吸血鬼は親鳥の翼のようにマントを広げて男を雨から庇う。
「帰ろう。濡れるよ」
青年が激しくかぶりを振った拍子に、深く被っていたフードが外れる。飛び出した長い耳が、彼もまた吸血鬼だと示している。
「俺の所為だ……」
若い吸血鬼が悲痛に呻く。抑揚のない声が、労りの響きを含んで諭す。
「人は、吸血鬼には成りにくい生き物だから」
「俺の、俺のせいだ……。御父様、俺が……、ああ! 俺が殺したんだ!」
男は灰に汚れた手のひらで顔を覆い、狼の如く絶望の嗚咽を漏らす。
それをただ見下ろしていた長身瘦軀の吸血鬼は音もなく、纏う袖無し外套で息子を包み込む。
「帰るよ」
その一言の後には、ただ涙雨に揺れる水たまりが一つ。
二人の吸血鬼の姿も、火刑に処された憐れな老爺たちの灰も何処にもなかった。
それは二人の吸血鬼の他には誰も知らぬ一夜の悲劇となり歴史の大河に消えていった。
聖者の焚刑ばらのさく街 了