嘘のように哀しい世界にて
「ここは?」
目覚めた瞬間に場所が違うと分かった。使い慣れたそれなりの値の張った棺桶ではなく、木を張っただけのそれはずっと寝ていると身体が痛くなりそうだ。
天井は寂れている。罅が入り、砕けた蛍光灯ときたら我が家以上だ。
鼻を掠める消毒液と硝煙の匂い。銀の気配がひしひしと近く、日の気配が遠い。
重たい身を起こすと、周りでざわめく気配がする。目を凝らして漸く少女や少年の姿をした子どもの姿が見える。彼女たちはぱっとトオルに笑みを向ける。
「おにいちゃん」
「……あっちゃん?」
子どもたちが嬉しげに頷く。気を抜くとピントがずれてしまうような淡く儚い魂たちに、トオルは苦笑する。
「なるほど……、そういうことか。あっちゃん、無理したねえ」
頭を撫でてやれば妹とよく似た感触がして、同じ存在であることが分かる。
「おにいちゃんのためだから」
「俺のため?」
「おにいちゃん、ずっとあいたいって」
トオルは一瞬詰めた息を吐いて、苦笑いを深めた。
「そんなに会いたかったのか。それとも、俺の所為だからかな」
リーダーらしい少女が首を傾げる。
「ありがとうね、あっちゃんたち」
トオルは棺桶の縁に手を掛けながら身を起こす。重たいとは思っていたが、立ち上がった途端に腹部に鈍い痛みと、軽い眩暈と、酷い渇きがする。
──想像以上にやばいな。
内心で舌打ちする。
「今なら一リットルくらい血を飲めそう」
できればO型の若い女の子の血がいい。
「残念だがそんなに用意はないよ」
声のする方を見れば、ドアに凭れるようにドラルクが佇んでいた。見た目はいつもの吸血鬼ドラルクだ。しかし、纏う雰囲気は随分と剣呑で、品定めするようにこちらを見つめている。
「……ドラルクさん?」
「ようこそ、異境の同胞。君の妹君からきいていたが……本当に目を覚ますとは」
「あっちゃんが無茶をしたからね」
肩を竦めるトオルに、あっちゃんがくすくすと笑う。
「ねえドラルクさん。血がないなら牛乳とかある? 多少回復してるけど、ちょっとヤバめ」
「武々夫君が買ってきた血が多少はあるよ」
「えー、ありがたいけどそれ俺飲んでいいの?」
ドラルクは、ようやく口元を緩めた。
「はは、君は私を懼れないね。私の体質を知りながらも殺さなかった。よかろう、合格だ」
こちらに降りておいで、とドラルクが手招く。うっかりで殺していたら、階下の人間達によって殺されていたかも知れない。
──あぶね~っ!
あっちゃんたちの尽力で復活に手を貸しているというのに、自分のミスで殺されてしまっては元も子もない。
「殺しはしないさ。君は私達にとっても一つのカードだ。君を復活させたのは、何も善意からだけじゃない」
階段を降りながら先を行くドラルクが笑う。
「俺、あんまり知らないで来てるから勘弁してくれ」
「あはは」
「ちょっと」
「そうも言っていられなくてね」
かつかつと靴音の響くビルの階段を降りていく。壁には模様のようにひび割れが走り、廃ビルのように見える。
階段を降りきって、笑みを作ったドラルクが揚々とドアを開く。
「喜びたまえ諸君! ガブリエラの一族の末子が目を覚ましたぞ」
ドアの向こうは新横浜ハイボール──退治人組合だった。新横浜の顔見知りの退治人たちが思い思いにカウンターやテーブルに座っている。
しかし、ドアから顔をだした途端に集まった視線の鋭さに、トオルはごくりと息を呑む。彼らからこれほどに鋭く尖った視線を向けられたことはなかった。
特に、階段に一番近い席に座っているロナルドに射殺されそうな視線を向けられると整った顔立ちも相まって恐ろしい。だが、それ以上にあまりにも顔色が悪い。
「威嚇するのはやめんか、ロナルドくん。彼は大丈夫だよ」
「……そうかよ」
彼の視線が逸れてほっと息をつく。ひりつくようなさっきがようやく収まる。
そんな視線を掻き分けるように桃色の髪の吸血鬼が飛び出してくる。思わず受け止めて、ぎょっとした。見慣れた友人、吸血鬼マナー違反だ。
「トール!」
「透くん」
「透!」
その後ろから、すこし窶れた顔の半田がトオルに駆けよってくる。その向こうで手を振っているのはこちらもまた随分いつもより見窄らしい武々夫だ。
この世界でも彼らとは友誼をはぐくめていることが気恥ずかしいほど嬉しかった。
「お前! お前さあ! なんでそう、無鉄砲なの!? お前が死んだ時のお前の兄貴たちめちゃくちゃだったんだからな!?」
胸を叩いてくるマナーの目には涙が浮かんでいる。随分と心配と恐怖を植え付けてしまったらしい。
「クソ兄貴たちが迷惑かけた? のか?」
「めちゃくちゃだったぞ……。結界は暴走するわ、どちらかは知らんが催眠が周りの吸血鬼を巻き込んで……」
自らの首を手でひねる半田のジェスチャーに、トオルはうえ、と舌を出す。自らの首をもぎ取らせるのは母の専売特許であって欲しかった。
「まあまあ、まずは血を飲みたまえ。復活したのが血があるときでよかったねえ」
「俺のおかげだし、トオル後でなんか寄越せよ」
「はいはい。それは後でもう一回俺に言って」
にやにやしている武々夫をあしらいながら、ドラルクに渡された血を口に含む。おもわず噎せ返りそうになって目を剥いた。
──酷い味だ。
激安スーパーで買うブレンドでもこんな味にはならない。胸が焼けるような薬混じりの味がする。鮮度由来ではない、腐ったような。
「それしか飲むものはないよ」
「……あんた達こんなん飲んでんの」
思わず呟くと、驚いた顔をしたあとドラルクが哀しげに目を細めた。
「……君は血袋の血じゃない血を知っている吸血鬼だね」
「お徳用五パック1000円のやつ以下だね。……不健康な人から取ったの? 病人? 変な薬の味がする。これさぁ」
「麻薬だよ」
平然とロナルドが答える。
遂に血から口を離して、トオルはその血を恐ろしいものを見る目で見た。それに口を挟んだのは普段よりもずっと怖い目をしたショットだった。
「吸血鬼のくせに変なこと言うな。人間を狩ってはヤク漬けにして血袋にしてる癖に」
「……そう、か」
「はぁ? 知らないわけねえだろ? ガブリエラの死霊使いサマが」
「ショットさん」
ドラルクに窘められてショットが肩を竦める。それでも撤回しないあたり、事実なのだろう。
「これ以外のはね、こういうところで生きている人を攫って血を抜いているものばかりだよ。人狩りっていうんだ」
顔を背けたショットの肩を叩くサテツが補足する。
「これそんなに不味かった? うちの倉庫からかっぱらってきたんだけど……」
マナーがトオルから受け取ったそれを舐めて首を傾げる。
「うちで出るのもこんな感じだぜ?」
「ね?」
ドラルクが苦笑する。トオルはこみ上げるものを押さえてなんとか飲み下し、ショットの前の椅子を引いて腰掛けた。
「俺も、当然みたいにそれを飲んでたんだろうね。……ああくそ、胸くそ悪ィ……。鍋食べたい鍋。今日はキムチ鍋の予定だったんだクソ」
「ははは、久しぶりに聞いたな。君キムチ鍋なんて食べるの」
ドラルクが笑う。
「キムチ鍋……」
ショットが毒気を抜かれた顔で首を傾げる。まさか知らぬのかと思えば、ギルドに居る人間の殆どが首を傾げていた。
「鍋は知ってるけど、キムチって何?」
とロナルドが首を傾げる。サテツが首を振ったのが、なんとなくショックだった。
「知らないや」
「知ってるね。久しぶりに聞いたある。うちのレシピ本に載てたね」
「いいなァ、鍋。ダチョウでも狩ってダチョウ鍋食いてえな、久しぶりに」
ターチャンに追随してマリアがよだれを拭う仕草をする。
「武々夫君、君味噌仕入れてなかった?」
「俺も食わせてくれんなら格安でいいッスよ」
「ついこないだ死にかけたのに元気だねえ」
ドラルクの商談に意気揚々と武々夫が指を立てる。
「味噌を手に入れるのも一苦労だよ。ああ、コリアンダーにパプリカパウダー、ナツメグ、ローレル、クローブ、クミン、オレガノ、ローズマリー……ああ愛おしきスパイスたちよ。私が君たちに相まみえるのはいつになることやら」
「別になくても美味えじゃん」
「あったらより美味えのだよ。胡椒すら覚束んのだぞ」
ドラルクがやれやれと首を振る。
これ以上美味いもんが……? とロナルドが首を傾げている。サテツとショットがそれに同意して力強く頷いていた。
「こうなる前なら、君たちに美食の極みでも振る舞えたのにねえ」
「じゃあいつか作れよ」
「……はいはい」
ドラルクの冗談交じりの声には僅かな諦念と悲しみが混ざっている。
享楽的で楽しいことばかりをしているあの吸血鬼のそんな声も顔もあまり見たいものではなかった。
「さて」
ぱん、とドラルクが手を叩く。その柏手一つでギルドの空気が一変する。
「君に聞くのは非常に、ズルい、と知った上で聞こう。魂の異なるお客人」
「ひでえ」
「言っただろう? なりふり構ってはいられない。前提として、君は死んでいた。それは間違いない。君が結界で真っ二つになったことも、君の兄君……真祖クラスの相反する催眠に二重に掛かったことで、精神もぶっ壊れていたことも、皆見ていた」
「そんなんなってたの。こわっ」
打ち覆いで顔色が見えないのが幸いしたが、胃の腑が冷えるとはこのことだ。
「それを見た君の兄君たちは、その場に居た吸血鬼を皆塵に返し戦意喪失。退却した。君のおかげで我々はガブリエラの一族からの攻撃を逃れることができた。礼を言うよ」
ドラルクが礼を述べる。
半田が頷いて補足する。
「正確には、下半身を透明にして吹き飛ばされたように見せた……だが。真っ二つ一歩手前だったな」
「精神の方が重傷だったんだぞ。……怖かった」
思い出したのだろう、泣き出しそうなマナーにいわれのない罪悪感が浮かぶ。
「そこで、君には二つの選択肢がある。一つ、お嬢ちゃん達と病院へ帰り、再び平和に暮らす。かわりに、夜にも昼にも干渉しないでくれ。一つ、私達の手駒としてガブリエラの一族と君の長兄への切り札にさせてもらう」
「……それ実質一択じゃね?」
「すまないね」
トオルは眉を寄せて溜息を吐く。
「……わかったよ。良いよ。俺を使っても」
ドラルクの目が見開かれる。そっちを選ぶとは思っていなかったのだろう。
確かにここにいるのが、この世界のトオルならば、死んだことにして全てから隠れてしまうだろう。
あっちゃんたちを守るためにも、一族や退治人たちに捕らえられて兄たちへの人質にならないためにもそれが正しいのかもしらない。
それが彼らの温情だ。トオルにはよく分かる。
──基本的に気の良い人たちなんだよなあ……。
身柄を押さえているのだから煮るも焼くも彼らの自由だ。自分の催眠は中途半端で多分この世界でも変わりないだろう。
それなのに一々選択肢をトオルに選ばせる。しかも、一番易しいものを。
仕方が無い。トオルが此処にいるのだから、選ぶのはここにいるトオルだ。
トオルは兄弟が何より大事だが、この賑わしい人間たちのことも嫌いじゃない。
「その代わり、俺はアンタたちに貸しがあるんだよな」
ドラルクは驚きながらも、そうなるな、と頷く。
「俺を餌に兄貴たちを席に着かせるのはいい。だが、絶対に、ここの退治人や吸対に、ここに来た兄貴達を攻撃させるな。どんな結果になっても、ここに来た兄貴に危害を加えないでもらいたい」
こつ、と指先でドラルクがテーブルを叩く。表情の読めない氷のような視線がじっとトオルを見つめる。
「それが守れなかった場合は?」
「そうだな……。あっちゃん、俺との約束を早めて連れて行ってくれる?」
傍らでサテツやショットに出された缶ジュースを飲んでいたあっちゃんが目を丸くしてトオルを見上げる。
「いいの?」
「いいよ。約束だからね」
あっちゃんたちがにっこりと笑う。
「ちょ、トール! なんて契約を……!」
死霊との付き合いならばトオルよりもずっと手慣れているマナーがぞっと顔を青ざめさせる。
これはあっちゃんに事前に聞いていた”約束”だ。
「約束を守ってくれれば良いだけ。この人達は律儀だから大丈夫でしょ」
「……君は吸血鬼らしい。生粋の血族主義者だね。別の世界の兄弟だろうに」
「そうはいかないよ。こいつが命を賭けた兄弟だ。俺にとっても、ケン兄はケン兄、ミカ兄はミカ兄だよ」
ドラルクがふと口元を緩めた。
「了解した。竜の子の落胤の血にかけて。ここに来た君の兄たちは、傷一つ無く帰るだろう」
ドラルクが呆れたような感嘆しているような複雑な顔をして頷く。
「俺は兄弟で静かに暮らせればよかったんだよ。……吸血鬼下半身透明の血にかけて」
なんだそのふざけた名乗りは、とドラルクが片眉を吊り上げたが、契約自体は本物なので何も言わなかった。確定申告でも使っているので問題は無かったらしい。
吸血鬼同士での契約は成立した。
ロナルドが眉を寄せる。
「そんなに俺たちを信じていいのか。吸血鬼だろう。お前も、お前の兄貴たちも」
「そりゃそうだけど、俺、あんたたちで遊ぶの好きだし。からかうと面白いし。半田君は友達だし」
ロナルドの眉間の皺が弛み、泣き出しそうな不器用な笑みになる。
「はは、……そういう世界か、そういう街か……そりゃさ、楽しそうだな」
「楽しいよ。下のアホ兄貴は常時マイクロビキニだし、上のバカ兄貴は野球拳狂いだけど。楽しいよ」
それだけは迷いもなく本当だ。残酷にも思えたが、それでもなおトオルは頷いた。
ロナルドが呟く。
「ここもさ、そういう街に、なるといいなぁ」
「そうだな」
ドラルクが吐息だけで笑って彼の言葉を肯う。
この二人が、自分の知っている彼らのように、いつもそうやってげらげらと笑えているといいと思う。しかつめらしく、張り詰めた顔は彼らには似合わない。
「あはは、ロナルドがいうと本当にそうなりそうだな」
サテツが思わずといった風に吹き出す。ショットが溜息を吐く。
「お前は能天気なんだよ……」
「そうだぞバカめ!」
ギルドが途端にざわめきを取り戻して、通り過ぎるときに覗き込む時の賑やかさを取り戻していく。
「ジョンには連絡ついたのか?」
「ああ。天竺さんとガブリエラの屋敷についてる頃だ。コユキ嬢には発つ準備はしてもらっている」
ドラルクの穏やかな赤い目がトオルを見つめた。
「兄上たちはきっと来るだろう」
君を心から愛しているんだね。
トオルは答えずに肩を竦める。
「……あ」
抗いがたい眠気が襲いかかってくる。死にかけたのにこんなに起きているのは良くなかったのかもしれない。
「大丈夫、約束は守るよ」
退治人の誰かの声を最後に、トオルの意識は暗闇に沈んでいった。
「あのね、お兄ちゃんがもうかえってくるからね」
「ああ、なるほど」
妹たちがはぐれないようにトオルの手を掴んでいる。トオルは目の前で棺桶の中で眠る自分を見下ろしていた。
完全遮光の窓の向こうから太陽の気配がする。朝が近いのだろう。
合わせをいつもと逆さまにした死に装束の体は、まるで本当に死んでいるように見える。そこから飛び出した自分は本当に幽霊になったようだった。
階段を駆け上がる固い靴音がして、トオルは思わずドアの方を向く。
──ミカ兄。
見慣れないほど着込んだ次兄がドアを蹴破るように飛び込んできて、棺桶の中の自分を見て目を見張った。そのまま床に頽れる。
「トオル……っ、ああ、生きて……っ」
柩に縋るミカエラの手が確かめるようにトオルの頬を挟む。
肉体がある。つまりは生きているということだ。それだけで、ミカエラの涙がマスクを越えて溢れ出していた。
さめざめと泣き濡れるミカエラにトオルは思わずしゃがみ込んで彼に寄り添った。
「……ミカ兄泣かせるなよなァ」
涙をぬぐってやろうとしても、今の自分では触れることはできない。
ぐすぐすと鼻を啜るミカエラがあまりにも憔悴しているようで、トオルは堪らぬ気持ちになる。痩けた頬、やつれた目元──普段美容に気を遣う兄がそれに手が着かぬほどの心労をかけたのだろう。
「ミカ兄、大丈夫大丈夫。心配掛けてごめんね」
「トオル……、すまない、すまなかった……」
ミカエラは気絶するように柩に縋ったまま気を失うように眠りに落ちる。ずっと寝れなかったのかもしれない。赤くなった目元があんまりにも可哀想だった。
時を待たずに独特な高下駄の音がしてドアが開く。
──ケン兄かな。
予想通りそこに居たのは長兄だった。見たことのない墨染めの装束姿は、まるで天狗のように見える。
高下駄の音を殺しながら、凍り付いたような険しい顔で近づいてくる。半分しか見えぬ顔でも、あまりにもやつれた表情に思わず顔を顰めた。
「ケン兄……ひでえ顔」
ミカエラもそうだったが、ケンにも肉体を離れたトオルの姿は見えていないらしい。
柩の中のトオルを見て、より顔が険しくなる。ケンに背を向けているミカエラに気付いてわずかに体が強張った。
「……トオル……、ああ……」
じっとトオルを見下ろす目の、あまりの痛ましさにトオルは胸が詰まった。兄がそういう顔をするのはトオルにも辛いことだ。何かを懼れるように伸ばさない手が、きつく拳を握っている。
「ケン兄……、ごめんね、こっちの俺が」
近づいて初めて、ミカエラが寝ていることに気付いたのだろう、ケンの目が動揺する。
「……ミカ」
いろんなものが裏側に張り付いた声色で名前を呼ぶ。
──ああ、こんな風に呼ぶ名前ではない。
トオルは彼らの胸元を掴んで叫びたいような気持ちになった。
そんな風に、一回一回を大事に呼ぶ名前なんかではないのだ。当たり前のように、いつでも、いつまででも呼ぶ何百万、何千万回の内の一回に過ぎないのだから。
ケンは小さく息を吐くと、揺れた表情を押し込めてミカエラに声を掛ける。
「起きろ、ミカエラ。ここには朝が来る」
ケンがミカエラの肩に手を伸ばそうとした瞬間に、ミカエラが弾かれたように飛び起きる。
息を詰め、ケンの手を弾いて怯えたように飛び退る。
「……おまえ」
「……貴様……」
青ざめた顔でミカエラがケンを睨め付ける。ケンは一歩ミカエラから退いて窓を指さす。
その一歩が、あまりに酷い断絶にみえてトオルは息を詰めた。
この二人に何があったのかはトオルは知らない。彼らに何があって、自分を殺すことになったのか詳しくはあっちゃんからは聞かなかった。
それでも、あまりに惨たらしい兄たちの断絶を目の当たりにしてトオルは酷い衝撃を受けていた。
ミカエラがケンにきゃんきゃんと噛みついて、それをあしらうケンは見慣れているが、トオルにとってそれは兄たちの変なコミュニケーションだった。二人の根底に流れているのはケンがミカエラを大事に思っていて、ミカエラがケンを慕っているという大前提だ。
それが、この二人には見えなかった。
互いに互いを警戒している。
とんでもない断絶だった。
「ここは夜の領分じゃねえ。朝が来る」
「分かっている。貴様に言われる筋合いはない」
「もう帰れ」
ミカエラは首を振った。
「…………トオルの側にいる」
「ミカエラ」
低く咎める声音に、ミカエラの肩が跳ねる。
──ああ、そんな言い方したらミカ兄が怯えるだろ!
トオルとて、ここにミカエラが長居するのは良くないと分かっている。退治人たちが彼らに危害を加えないことは約束しているとはいえだ。
ケンもそれを気にして帰らせようとしているのだろう。
だが、威圧的な声を出す必要は無いはずだ。ミカエラがそれを苦手にしていることも、怖がることも分かっているはずだ。
「俺のケン兄ならもっと上手くやるんだけどなあ」
トオルは歯噛みするような気持ちで呻いた。
ケンは黙りこくり、ミカエラは怯えた顔を隠す虚勢も張れずに顔を背けている。その背を撫でてやりながら、トオルは顔を歪めてケンを見上げた。
「ケン兄、ミカ兄が繊細だってケン兄が一番知ってるでしょ!」
長兄なら分かっているはずだ。弟の自分でさえわかっているのだから、この抜けているくせに聡い兄が気付かぬはずがない。
「……ち」
ケンが我に返ったように口を開く。
「ちがう……。俺は兎も角、お前はガブリエラの嫡子だ。危ねえから、早い内に帰った方がいいと……」
「は……」
ミカエラがマスクの下の目をまん丸に見開いてしどろもどろの言い訳をするケンを見上げる。
ケン兄よく言った! とトオルがガッツポーズをする。
トオルの眠る棺桶の横にようやくしゃがみ込んで、トオルの顔を覗き込む。ミカエラと同じように打ち覆いの下の頬に触れて肩の力を抜く。
ミカエラの時も思ったが、自分と同じ顔が慈しまれている様子を端から見るのは、どうにも気恥ずかさが否めない。
「いま、トオルに怒られた気がした」
「流石ケン兄、鋭いわ」
仲良くしてくれよ、三人っきりの兄弟じゃん。ケンとミカエラの背中を目を細めて見つめながら、二人の背を叩く。
「どうやら席に着く気にはなってくれたようだね」
「あ、ドラルクさん」
扉を開いたドラルクはトオルの姿を視認しているようだった。眉を上げて、棺桶とトオルを見比べて頷く。
「ん? ああ、もう時間か」
ヌー、といつのまにか肩にいるジョンが頷く。
「何を言っている」
「あんた、竜大公の孫の……」
ケンとミカエラがトオルの柩の前に立ち上がる。二人の顔に浮かぶ困惑と警戒に、ドラルクは口元を吊り上げて笑う。
「竜の一族とは無関係だよ、私は。なにしろ、こうして昼に与している。君たちもどうだい?と勧誘しているのさ。夜の侵攻を阻む我々に与する気はないかね?」
ケンとミカエラはじっとりとした目でドラルクを睨め付けている。
ドラルクは二人の様子を気にもしていない風で、あたかも芝居のようにセリフを紡ぐ。
「別に無理にとは言わないよ。ここで背を向けても我々は追わないし、契約に従って君たちを害することはない。時間が来れば自然と道は途絶える」
「時間って何のことだ」
「ふふふ、あちらとこちらが繋がるのは稀だ。竜の血を引くもの、真祖の命と、彼を愛するあまたの魂の無垢なる願いの起こした奇跡。奇跡には期限があるものだ」
トオルはドラルクに怪訝な目を向ける。
──竜の血を引くものの命?
「すまないね、奇跡は愛だけでは起きないんだ」
ドラルクがぱちんとトオルに向けてウインクをする。
「は?」
「いやこちらの話。君たちが我々に手を貸すか否か。これを貸しと思うなら、中立を保って欲しいものだね」
どうする、とドラルクが重ねる前に、ケンが口を開く。
「席に着く必要はない」
ケンがドラルクに頷く。
「……トオルの命を救ったのはお前達だ。俺はお前達に従う」
ミカエラは静かに目を伏せて、毅然と胸を張った。
「私もだ。……下等な人間風情に従うのは業腹だが……、トオルが今生きているのはお前達のおかげだ。ガブリエラの一族が当主として……、残った一族共々お前に下ろう」
ケンとミカエラの視線が、穏やかに柩の中のトオルに向けられた。
「ありがたい!」
ドラルクが手を広げる。
「我が家に案内する前に、君たちの弟君の問題だけ解決していこう。そろそろ起きる時間だ」
ドラルクが、肩越しにドアの向こうを振り返る。
「ロナルド君、頼むよ」
ドアの後ろの暗がりからロナルドが赤い影のように滑り出る。銀の弾丸を詰めたリボルバー銃を提げた赤いカソック姿のロナルドは深く赤い帽子を被っている。
入ってきた男に、ケンとミカエラはぎくりとする。ケンが一歩踏み出してミカエラの前に立つ。
「また朝陽に一歩近づいためでたい日だよ。そんな顔するんじゃない、若造」
「…………おう。こいつ、本当に死んでねえの」
「塵に成ってないだろう? それに彼はガブリエルの直系だ。催眠支配なら竜の一族をしのぎかねない」
ふうん、とロナルドの青い目がじっとりとケンとミカエラを見つめる。一瞬、彼の面差しに寄る辺のない子供の哀しみのようなものが過ぎって消える。
「コユキちゃんの借りもあるか。……くく、弟のために家を捨てるか。吸血鬼が」
ミカエラが何かを言う前にかちりと撃鉄が上がる。
銃口の向いた先は、手を広げたドラルクだった。
トオルが驚くより先に引き金が引かれる。
「じゃあまたね、ロナルドくん」
「……ああ、またな」
乾いた銃声と共にぱりんと硝子の砕けるような不吉な音がして、赤い塵が部屋に巻き上がる。ドラルクの身体が灰色の塵と化してロナルドを守るようにまとわりつく。
同時に、ロナルドが心臓を押さえて俯いた。
トオルは多少見慣れている光景だが、あの街のようなからりとした屈託のない明るさはない。
「ロナルド……その」
彼の目の色は影になっていて見えない。
だが、彼の視線はトオルを確かに捕らえている。その目の端に光るものがはっきりと見える。
「安心しろ。お前の兄貴には、手をださねえよ」
そういうことではなかったのだが、トオルは礼も謝罪も喉につっかえてしまった。
「……あんたたちが、笑える世界になってほしいと思うよ」
「それでも、ここが俺たちの生きていく世界だから」
ロナルドははっきりと言い放ち、いたずらっぽく笑った。
「今、マリアがダチョウ狩ってきたんだ。俺たちも鍋食うよ。……じゃ、真祖の心臓であちらとこちらの道を補強する。踏ん張れよ」
「OK!」
親指を立ててやれば、ロナルドが初めて、新横浜でいつも見ているような屈託のない笑顔で笑う。
「……兄弟仲良くな」
「うん」
あっちゃんたちが掴んでいたトオルの手に込める力を強める。
「案内 する ね」
「よろしく!」
ぐ、と身体ごと引っ張られる息苦しい感覚。
とぷんと水面のような境界を越えて、道を駆け抜ける。
途中、同じように駆けてくる相手に会ってトオルはその背を激励した。
自分たちならきっと大丈夫だと、そう信じて。
ぱた、ぱたと頬に触れるぬるい雨にトオルは目を覚ます。随分と長い、朧気な夢を見ていた気がする。
嘘みたいに優しい夢だった。
「お兄ちゃん」
「……あっちゃん。ただいま」
朧に透ける少女と、それに列なる子どもたちの霊体が一様に安堵の笑みを浮かべる。あの夢では集合霊だった子どもたち。
彼女たちが姿を隠して初めて、棺桶を覗き込む兄たちの姿がはっきりと分かる。
ぬるい雨をトオルの頬に降らせ続けていた兄たち。なんて顔をしているのだろう。
違う顔なのに、まるで鴛鴦の夫婦のような同じ顔で泣いている。恐る恐る触れられたミカエラのひんやりとした指先がトオルの涙を拭う。
「……ケン兄、ミカ兄」
縋るように彼らの名前を呼ぶ。ケンがくしゃりと顔を歪める。大きな腕を広げてミカエラごと抱きすくめる。
まずこの名前を当たり前みたいに呼べる日を目指すことだ。見えなくてもトオルには足があるし腕もある。
この世界の地面を一歩づつ踏みしめる足と、兄を纏めて抱きしめることができる腕が。
死霊の願いが叶う夜 完