おもひでほろほろ - 1/3

 カカシは縁側でぼんやりと空を見上げていた。
 森の中にぽっかり空いたような場所に建てられた家から見る空は、からりと晴れて高く、幾つものいわし雲が並び、夕暮れにうすら赤く染まっている。大きく息を吸って、深く吐き出す。肺の底の空気さえ吐き出してしまいそうな吐息とともに、カカシはゆっくりと目を細めた。
「平和だなぁ」
「先生、まだ40歳にもなってない身空でお爺さんみたいなこと言わないでくださいよ」
 カカシの漏らした言葉に、呆れているようでもあり、叱りつけているようでもある声が、縁側の奥から間髪いれずに飛んでくる。
 振り返れば、片腕に彼女の背丈を超えるぎっしりと本の入った本棚を軽々と担いだ桜色の髪の美女がじっとりとカカシを見ていた。カカシは笑う。
「ごめーんね。でも手伝ってくれて助かったよサクラ」
「いいえ。先生一人じゃ引越しも大変でしょ? 私は今日オフだからいいんです」
 すぐに表情をほころばせたサクラが、軽々と本棚をカカシの指示した場所にそっと据える。サクラがそっと置いてくれたにも関わらず恐ろしく重たい音が床に響き、カカシは内心で重すぎて底が抜けないかと戦慄した。杞憂であったようで、カカシはほっと胸をなでおろす。
「これで全部ですよね?」
「うん。全部だね。――ようやく帰って来れたなあ」
 縁側から振り返って、室内をぐるりと見渡したカカシは、ゆっくりと目を細めた。
 里の外れの演習場の森の中に包まれているような辺鄙な場所は、カカシの生家のあった場所だった。
 平屋ながらも広々とした一軒家。父を喪ってこの家を引き払って以来、安アパートに住み、帰ることも年に数度になっていた屋敷だが、カカシは包み込まれるような懐かしさに浸っていた。
 帰るという言葉が、自然と出てくるほどに、やはりここもカカシにとって帰る場所なのだ。
 人の住まなくなって久しい所為で修繕の必要があったが、かの木遁忍術の使い手の好意で、所々は白木で修繕がされている。
「でも先生、やっぱり荷物少なすぎよ。ホントにこれで全部なんでしょうね」
「全部だよ。要らない物は引っ越すって決めた時に処分しちゃったし、どうしても捨てられないものだけこっちに持ってきたからね」
「あ、あとヤマト隊長が『修理が行き届いてないところないですか』って聞いてましたよ」
「大丈夫だと思うけどなあ。アイツも上忍師で忙しいのに世話焼きだねえ」
 くすくす笑うカカシの横にサクラも腰掛け、縁側に足を投げ出す。
「だってヤマト隊長ですもん」
 カカシの分身の入れたお茶をすすりながら、二人は並んでのんびりと寛ぐ。
 他愛ない世間話は、ナルトの事、サスケの事、サイの事、アカデミーのイルカの事、任務でのハプニング、なんでもない商店街の話まで、ゆったりと流れる時間のまま話が進んだ。カカシが彼女の上忍師であった時には想像もつかないほど、サクラは落ち着きを手にして、一端の大人としてカカシの横で寛いでいた。
 日が暮れて行き、東の空が青から群青へ色を濃くする。
「ねえサクラ」
「はい?」
「もうナルト達の所に行っても大丈夫だよ?サスケやシカマルが居るからとはいえ、アイツもまだ大変だろうし」
 おずおずと切り出された提案に、サクラは昔と変わらぬ強気な表情で鼻を鳴らした。
「いいんですよ。何でもかんでも私が助けてちゃタメにならないし、逃げようとしたら止めてってヒナタとシノとキバと赤丸によーく頼んだもの。私は今日は有給消化!私はワーカーホリックじゃありません!」
 胸を張って言い切るサクラに、カカシは苦笑を禁じえない。
 シカマルが知恵と機知に富む軍師ならば、彼女は確固たる知識で里を守る内政官だ。現在のナルトに必要なのは、どちらかといえばサクラの知識の方だろうに。
 トドメとばかりに、感知に優れた三人と一匹に頼んでいくあたり、サクラは本気で執務から逃がす気がないらしい。頭を抱えているだろう彼らを思い描けば、彼らの苦労は兎も角、酷く可笑しい光景には違いなかった。
 そして、こっそりとサクラが自分の裁量で判断できる事案を持ち帰り、ナルトが許可印を押せば済むだけにまで事案を手直ししていることだって、ちゃんとカカシは知っている。
「ふふっ、俺の生徒がみーんな出世して、鼻が高くなっちゃうねえ」
「サスケくんはともかく、ナルトなんて昔のウスラトンカチっぷりからはからは想像できないわね」
 ウスラトンカチ――サスケからサクラに伝染したナルトの呼び名に、時の移ろいを感じる。
「ん? サクラだって五大国に並ぶもののいない若き医療忍者で、火影の頭脳デショ? 三人ともだよ」
 サクラは苦笑いで、赤い顔を隠すようにお茶を啜った。
「本当に……俺ももう心配なことが何もないや」
 酷く満足げに、しみじみとそんなことを言われ、サクラは返す言葉も出ずにカカシを睨みつけた。
「先生」
 先ほどのじっとりとした視線に戻ったことを感じ、カカシはから笑いでごまかす。
「心配事がないのと、未来を見たいのは別だよサクラ」
「……なら良いけど」
 桜色の頭をなだめるように撫でる。サクラは少し表情を和らげて湯呑を盆に戻した。
「ああサクラ、さっきの本棚の幻術と封印術解くのお願いできる?」
沈黙を破って、カカシが先ほどサクラが運んできた本棚を指差す。サクラはきょとんとしたあと、首をかしげた。
「良いんですか?」
「いいよ~もう秘密にする必要もないしね。……気がついてたんだねサクラ」
「何か仕掛けがあるな、ってぐらいには」
 サクラがいたずらっ子のように笑う。どこかナルトに似ているな、とカカシは微笑んだ。
 チャクラの量は特筆するほど多くないとはいえ、彼女のチャクラコントロールは芸術のように緻密で繊細。典型的な幻術タイプだとカカシが判断したようにチャクラのコントロールでは誰の追随も許すことはなかった。ナルトやサスケのように、膨大なチャクラとセンスに任せて技を繰り出すのではなく、緻密に繊細なコントロールで、その膨大な知識に基づいて複雑で難解な術を易々と行う。
 快刀乱麻ならナルトやサスケ。もつれた糸を一本一本ほどいていくのはサクラが得意だ。
 故に、サクラは本棚の一段をじっと見つめて、直ぐに解呪の印を結び始めた。ややこしい術式を壊さないように、術の解除を試みる。
 五分も経てば、まるで糸が解けるように、本棚の中央一段の本の背表紙が変化していく。その下にダブルリングの大きな背表紙が現れた。
 本棚の中央一段が、先程までのばらばらの忍術指南書から統一された同じ本に変わる。
 赤染の布表紙、金色のダブルリングに綴じられているのは厚紙。ふっくらとした幾つもの冊子に、サクラはつぶやいた。
「アルバム……?」
「うん、そう。みんなで見ようと思ってさ」
 サクラはそっと一冊を手にとって、まじまじとタイトルを見る。布表紙の豪華な、しかし落ち着いた雰囲気を持つレトロタイプのアルバム。タイトルは無く、中央には木の葉のマークが金色で刺繍されている。木の葉の写真屋でよく見かける、一番高価なアルバムだとサクラは知っていた。
 開こうとして、あ、と声を上げる。
「先生、これの解除、先生のチャクラでしかできないようにしてるでしょ」
「本当は本棚も俺しかできないんだけどねえ。俺の知ってる中で三番目ぐらいに難しい封印術と幻術使ってたんだよ。さすがだね、サクラ。ああ、それ、机に持って行ってくれる? そろそろ夕飯の仕上げしようか」
 カカシの褒め言葉に、サクラははにかむ。そのままごっそりとアルバムを取り出し、ちゃぶ台の一脚に積み上げた。

「そろそろ、ナルトもサスケくん達も来ますもんね」