1
軍艦のタラップに足をかけながら、ドンキホーテ・ロシナンテは空を見上げる。
青い空に白い帆。潮風は自分の髪を揺らし、わずかに足下をふらつかせる。流石にここで転けるのは命に関わると、慌てて手すりに手を付く。
「大丈夫か、ロシナンテ」
先に行く人が聡く気がついて振り返った。心配されている気恥ずかしさに、苦笑する。
「ええ、大丈夫ですよ。センゴクさん」
タラップを無事に上がりきって、ロシナンテはふうと息を吐いた。
無作為のようでいて、計算され尽くした船のロープ。出航を待つばかりの軍艦。波に合わせてゆっくりと揺れる足下。
──軍艦だ。
自分でも不思議なくらいに胸が詰まるような気がした。首元のスカーフを直して見上げる。
ぼう、とマストの上を見上げているうちに、軍艦の艦長がセンゴクに挨拶に来ていた。
まだ若い将校である。
まだ酒の味も知らぬのではないかと思うほど幼い顔立ちの桃色の髪の少年は、それでも立派に正義の外套を纏っている。生真面目な背筋がぴんと伸びていて、まるで若木のようだった。
その彼から一歩横に下がった場所にはサングラスをかけた青年が立っていた。ククリ刀を二振り腰に下げた青年は気怠げに口がへの字を描いて、背筋は少年と同じようにぴんとまっすぐにのびていた。
「センゴク大目付! お疲れ様です!」
桃色の将校のはっきりとした声にロシナンテは慌てて足を揃え、センゴクの後ろに直立した。
「急にすまんなァ、コビー大佐、ヘルメッポ少佐」
センゴクが微笑んで彼らをねぎらう。
「いえ! お安い御用です!」
「人手が足りねェところに雑用入れてくれるってんなら願ったり叶ったりですよ、ひぇっひぇっ。こき使えってことでしょ」
物怖じせずに凛とした返事をするコビー大佐と、人を食ったように笑うヘルメッポ少佐。
「ヘルメッポさん、またそんなこと言って」
窘めるコビー大佐に、ヘルメッポ少佐はへらへらと笑って肩を竦めて笑う。
なるほどなァ、とロシナンテは二人の関係に感心しながらきっちりと踵を合わせて敬礼した。
永遠にも思える長い間、海軍式の敬礼をしてこなかった。けれど、骨の髄まで叩き込まれた作法をロシナンテの体は忘れていなかった。
懐かしさにわずかに胸が熱くなったような気がする。
「海軍本部──雑用のロシナンテです」
ロシナンテは彼らにそう名乗る。二人は目を丸くしてロシナンテを見上げる。
ロシナンテはわずかに目を伏せた後、笑って袖を引いた。袖口と背中に縫い付けられているのは間違いなく『雑』の文字だ。
きょとんとするコビーと、サングラスの下の目を眇めるヘルメッポにロシナンテは笑う。
「……ただの雑用ですよ。何でもこきつかってください」
「……へっ、使えンなら文句はありませんよ」
「もう、ヘルメッポさんったら!」
仲の良い二人は挨拶を終えるとコートを翻して艦橋へと空を蹴って戻っていく。
二人が堂々と背負う正義が、やたらと眩しく、ロシナンテは目を細めた。
今、ロシナンテの背中には『正義』はない。
M.Cもかつてのものとは違う。
何もできず、何もなせず、全てをほっぽり出した男にはあまりに重い正義をまだ背負えぬまま、立ちすくんだままここに立っている。
「ロシナンテ」
「──はい」
覚えているよりも、ずっと労苦の皺の増えた養父がロシナンテを振り返った。我に返って返事をする。
センゴクはまっすぐにロシナンテを見上げた。
「……私の知るお前は、誰よりも正しい海兵だった」
不器用に励ますような言葉に、ロシナンテは思い出そうと記憶をたどる。
「今でもそうだ」
果たしてセンゴクの知るロシナンテは、一体どんな顔をしていただろう。海軍本部中佐ロシナンテは、死ぬ前のロシナンテは、いったいどんな海兵だっただろう。
「だから、頼んでいるんだ」
「……おれは」
勿論ですとも、できませんとも、ロシナンテは口にできなかった。
昔ならば──ロシナンテが死ぬ前ならばロシナンテは誇らしく胸を張って、彼直々の依頼を喜んで受けただろう。
けれど今、ロシナンテは甲板の磨き上げられた板を見下ろしながら言葉を濁すことしかできなかった。
誤魔化すように笑えば、彼は小さくため息を吐いてロシナンテの肩を叩く。
叱責を覚悟したロシナンテの予想に反し、センゴクは微苦笑を浮かべたままだった。
「──G-5までは一週間だ。ゆっくり考えろ」
その言葉に甘えて頷く。
出航の号笛が聞こえる。その瞬間にぐらりと足下が揺れてロシナンテはあっけなくひっくり返った。
空は青く、白い帆のカモメがロシナンテをじっと検分しているようだった。
立ち上がりながら思う。
自分は確かに生きている。
けれど、何もなせぬまま生き返ってしまったロシナンテは、深海へ沈んでゆく能力者だった。
確かにかつては覚えていた生き方を、ロシナンテはすっかり忘れてしまっていた。
一体全体、自分はどうやって生きていただろう。
今更どうやって息をしたらいいのだろう。