二章 顔を上げて  - 1/5

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「海軍本部雑用ロシナンテです。よろしくお願いします」
 無事コビー艦は風を掴み、カモメを膨らませて海原を進む。
 マリンフォードの軍港を離れ、島の気候域を出るまでのわずかな時間の間にロシナンテは航海の仲間となるコビー艦のクルーに名乗りを挙げた。
 コビー艦のクルーは一部のベテランを除き殆どが若手のクルーで構成されており、溌剌とした雰囲気があった。
「本当に雑用なんスか?」
 島の気候海域を抜けるまでは皆しばし気が抜ける。新兵から二等兵に上がったばかりらしいまだ少年の雰囲気の抜けない海兵数人に艦内を案内されながらロシナンテは質問責めに苦笑しながら答えていった。
 自分は26の歳から13年昏睡している。昏睡していた所為で自覚は薄いが、39歳の新兵などなかなか見るものではない。世界徴兵の時代とはいえだ。
 おれもこの子たちの立場なら質問攻めにしちゃうかもなァ……と思うからこそ、無碍にもできなかった。
そもそも彼らは雑用身分の自分からすれば上官である。
「雑用ですよ」
「本当に!? さっきトップスルにロープが引っ掛かってたのあっという間に治してましたよね? 少佐も大佐も気づく前に」
「ああ、あそこは見落としがちになるから。トップスルと、あとメインマストの当て枕の抑えロープも」
 マリンフォードの船大工たちは優秀だが、やはり癖というものがある。いくつか見落としがちなロープの緩みをさっさと直したのはまだ若い海兵の目には熟練の技に写ったらしい。
 気恥ずかしくなりながらもそう悪い気はしない。
 かつて兵学校で血反吐を吐くような思いをしながら叩き込まれた操船技術はまだロシナンテの中にちゃんと根付いているのだと思い出す。
「元々船乗りなんですか?」
「まァ…ブランク長いんだけどなァ」
「出航準備の時甲板長が褒めてましたよ!」
「そりゃ嬉しいぜ」
 一つ一つ答えている途中で、ずるっと足を滑らせる。シュラウズに絡まって釣り下がる。やってしまった、と思うより先に海兵たちの驚きの声が上がる。
「ロシナンテさん!?」
「すまん、おれはドジっ子なんだ……助けてくれ」
「その歳で!?」
「おっ、おっさんって言うな…!心はまだ20代なんだ!」
 目を丸くした気のいい海兵たちに助けられて立ち上がる。
 ついでに目についた動策の結び目が間違っているのを直す。
「えっこれ違うんですか?」
「違うだろ?」
「それとそれどこが違うんです?」
「あー、間違いやすいけどここのヒッチはローリングヒッチだと良くなくてな……。民間船とか海賊船なら問題ねェよ」
 結び目をもう一度解き、今度はゆっくりと結んで見せて直してやると海兵たちの目が輝く。
 くすぐったく思いながらも悪い気はしない。
「ロシナンテさんすげェ!」
「へへ、そうか? あ、でもそろそろマリンフォードの海域を抜ける。持ち場に戻ろうぜ」
「はーい!」
 帆を膨らませる風の音が変わりつつある。それを指摘をすれば、若い海兵たちは素直にばたばたと持ち場に分かれて駆けていった。
 それを見送って、さて自分はどうしようかと思案していると、背後からくつくつと楽しげな笑い声が聞こえた。
「ちゃんと覚えてるじゃないか、ロシナンテ」
 上甲板から黙って見守っていたはずの養父だが、口を出さずにはいられなかったらしい。目元を細めて揶揄うように笑っていた。
「……言わないでくださいね!」
「ああ、お前が兵学校時代の教本をひっくり返して勉強し直していたことは彼らには言わん言わん」
「センゴクさん!」
 気恥ずかしさに思わず声を張ると、唐突にふらりと足元が覚束なくなった。
 ドジとは違う浮遊感にハッとする間も無く、頼り甲斐のある腕がロシナンテを抱き止めた。
 飛び降りてきてくれたらしい。顔を上げると、少し険しい顔がロシナンテを案じていた。
「無茶をするな」
「へへ……ドジっちゃいました」
 センゴクはため息をつき、ロシナンテは悪戯がバレた子どもの顔で笑う。
「大丈夫ですよ。センゴクさん」
「……ならいい。G-5までは頼んだぞ。ヒッチとボンドの違いくらいはわかるくらいにしてやれ」
「ええ、それくらいはおれにもできそうです」
「お前の|リ《・》|ハ《・》|ビ《・》|リ《・》もな」
 そう付け加えられて、敬礼の手がぎくりと強ばる。
 かくして、海軍本部雑用ロシナンテの初航海が始まった。