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――目が覚めたら全てが終わっていた。
いや、まるで全てが終わるのを待っているかのように目が覚めたとでも言うべきか。
海軍本部中佐ドンキホーテ・ロシナンテが、十三年というあまりに長い昏睡状態から目覚めた時にはもう何もかもが終わっていた。
白い病室のベッドから動けない体でようやく目を通すことのできた新聞で、真っ先にドレスローザの王位の奪還の報を知った。
いつのまにか七武海となっていた兄、〝天夜叉〟ドンキホーテ・ドフラミンゴのインペルダウン収監と、ドンキホーテ海賊団の壊滅。
そして、それを為した大海賊たちの名を目にした瞬間に、こみ上げるものが押さえられなかった。
彼が生きていたことへのたまらない喜び。
そしてそれと同じほど大きな後悔と、苦痛と悲しみ。
無我夢中のリハビリと治療の果てにそこまでたどり着いて、ロシナンテは呆然としてしまった。
──おれは結局何もできなかった。
それからずっと、ロシナンテの足は一歩も動いていない。
いつものように地獄のようなリハビリを終えてぼんやりとベッドに腰掛けていると、かつかつと廊下に聞き慣れた靴音が聞こえてくる。ぼんやりと眺めていた紙を枕の下に折りたたんで隠し、ロシナンテはドアの向こうの人を待った。
「起きてるか、ロシナンテ」
すぐに部屋に転がる律儀なノックの音とともにひょっこりと顔を出す人を、ロシナンテは顔をほころばせて迎える。
「センゴクさん、お帰りなさい」
「起きていていいのか」
いつの間にか大将から元帥になっていて、そしていつの間にか大目付という肩書きになっていた養父は随分と老け込んでしまっていた。
黒々と艶のあった御髪が真っ白になるほどの苦労がったのだろう。
その理由の一端に、自分の事があったのかもしれぬと思ってしまうのは、自意識過剰だろうか。
随分心配性になってしまったセンゴクにロシナンテは笑う。
「大丈夫ですよ。センゴクさんこそ、百獣海賊団と交戦したって本当ですか?」
「おつるさんもイッショウもいたから問題ないさ。それよりおまえ、ずいぶんしっかりしてきたな」
「もう日常生活に戻れますよ。退院もできそうです」
「ほう」
ロシナンテがベッドから立ち上がって病室の棚からあられを取り出すと、着港からすぐに来てくれたらしいセンゴクはすぐにばりばりと口に放り込む。
「……おれが死んだ後もこのままだったらおれと墓に入る予定だったんだぞ、ロシナンテ」
「それは、その、とんだご迷惑を」
あられを噛み砕きながら垂れてくる小言には深々と頭を下げるほかにない。
耳にたこができるほど、彼は小言を言い募る。耳には痛かったが、それでも小言ばかり言う養父が何処か嬉しそうで、ロシナンテはたまらない気分になる。
優しく厳しく、情にあつい養父。
眠ったまま一生このままかもしれないと言われていたと聞いた。
その間彼はずっと見守ってくれていたのだ。いったいどれほどの心労をかけたことか。
幼い頃、母が病死したときのあの何も出来ぬやるせなさを知っているからこそ、ロシナンテには彼の気持ちが痛いほど分かった。
自分が目が覚めたという報を聞いて文字通り跳んできた養父の目に二筋堪えきれぬ涙が落ちたのをロシナンテははっきりと見ている。
ぼんやりとした視界の中で、センゴクが──この強く優しい人がロシナンテを恐る恐る抱きしめた。そのときのロシナンテはもう本当に枯れ枝のようだったらしい。
──この、馬鹿息子が……!
何かを言おうとして、何を言えば良いか分からなかった。
ロシナンテが何かを言う前に、呻くように罵られて、裏腹に割れ物を触るように頬を滑った指先が震えていた。
この人から、あまりに大きく暖かな愛をもらっていたことを今更に身にしみる。点滴からの栄養だけで生き延び、骨と皮ばかりになった尖ったロシナンテの体を、センゴクは包み込むように抱きしめた。
その体があまりに小さく感じて、嗚咽が止まらなかったのを昨日のことのように覚えている。
センゴクは手元にいくつかの書類を取り出して微笑む。
「その様子なら本当らしいな。退院許可が下りてるぞ」
「本当ですか!」
飛び上がらんばかりに喜ぶロシナンテに、センゴクはさらににやりと笑う。
「あと、これもな」
その手にある書類を受け取って、ロシナンテは目を細めた。
「海軍の入隊書類……」
「ああ。海軍は除籍されているからな。再任用とはいえ雑用からだ。……兵学校は免除してやろう」
「うへえ……。せっかく左官まで昇進できたのに」
ベッドサイドの引き出しから万年筆を取り出して記入しながら軽口を返した自分に、センゴクはけらけらと笑う。
「それから、これだ」
センゴクの手から放り投げられた分厚い大封筒を慌てて受け取り、ロシナンテは目を丸くした。堅く玉紐で留められた古い封筒だ。
ロシナンテはそれを知っていた。
「これって……!」
「どうする?」
封筒を持つ手が震えた。
渡された封筒の中にあるものを、ロシナンテは知っていた。
目覚めた瞬間、体が悲鳴を上げるのも忘れて、必死に訴えたもの。
ロシナンテの最後の任務にまつわる全て。けれど、センゴクの持ってきたものはロシナンテの知るものの半分に過ぎなかった。
「センゴクさん……」
「13年は長い。使えるのはこれだけだったよ。──お前はどうしたい」
「っ……」
目を伏せて狼狽えるロシナンテの肩をセンゴクの手が宥めた。
「迷うか」
「……はい」
頷けばセンゴクは驚くことはなく、そうか、と呟いた。
「おれは……、おれには……、でもこれは──」
いくつもばらまかれた封筒の中から、一つの封筒を持ち上げる。握りしめて封筒に皺が寄った。
ロシナンテは唇を噛んで俯く。
かつての自分ならば──「海軍本部中佐ロシナンテ」と名乗りを上げられていた頃ならば、きっと真っ先に名乗りを上げただろう。
今だって、そうするべきだとわかっている。
だが、一度死んだこの足は竦んでいた。
かつてのような強さはもうない。
一度はすべてを捨て、愛した子を最後まで守り抜くこともできず、兄に殺されている。
できるかどうか、分からなかった。
歩けるようになっても、ロシナンテは未だ立ち止まったまま途方に暮れていた。海に嫌われた能力者が海に沈んでいくような無力感がロシナンテの足を竦ませていた。
当たり前のように書き上げてしまった書類が、ずしりと重みを増す。
──ドジッた。
海軍に戻る資格などあるのだろうか。
今更、どの面を提げて『正義』を背負うつもりなのか。
けれど、ロシナンテは海兵だった。何を捨てても、そうだった。
「おれは……」
真っ先に手を伸ばした封筒を取り落として手のひらで顔を覆い、丸まるロシナンテの背をセンゴクがゆっくりと摩る。
「生きているんだ、ロシナンテ。何ができるかゆっくり考えればいい。今すぐじゃなくても良いんだ」
「──ですが、これはおれの……」
「ではロシナンテ」
センゴクはふっと悪戯っぽく笑った。
「雑用が足りない艦があるんだ。ちょっとそれに乗って、一からリハビリしてこい」
ロシナンテの手から書類を引っ張りだし、さっさと封筒をまとめて、センゴクは制止も待たずに病室を出る。
「出航は明後日だ。これは命令だぞ、海軍本部雑用ドンキホーテ・ロシナンテ」
制服は後で送る、と言い置いて有無を言わせずにドアが閉じる。ぽかんとセンゴクの去ったドアを見送って、ロシナンテは伸びっぱなしの髪をかき混ぜた。
「まったく、あの人は何も変わらねェ……! ええと何が要るんだ? スカーフも持ってきて貰わねェと……退院届もか、ええと後は家から本を……」
ロシナンテは大慌てでメモを取り出す。
明後日の出航ならば、今すぐに準備を始めなければ間に合わない。
ふと潮の香りが掠めたようで、ロシナンテは窓の外を見上げた。
──ああ海に出てもいいんだ。
ロシナンテは口元に触れる。
こわばって凍り付いていたその口元はわずかに緩んでいた。
→二章