したたかな宿酔の朝よりもひどい頭痛に、肥前忠広は呻きながら目を開けた。
「あッたま痛え……」
「ひ、肥前忠広ォ!」
晩鐘のごとく耳から頭につんざいていく声に肥前は声もなく頭を抱える。がんがんと痛む頭にはこの若い刀の声は凶器だった。
「──声がでけえ……和泉守」
思いの外か細くなった声に、慌てる気配がして常の姿からは想像できないほど丁寧な手つきで支えられる。手元に水の入ったボトルを渡されて耐えがたい喉の渇きが潤う。ストローさえ付いているのは、彼の共差しの知恵だろうか。
「悪ィ……、だ、大丈夫か?」
「何が──」
何故この刀にこれほど心配されているのか、と考えた瞬間にぞっと背筋が凍り付く。
──呪い。
唐突に自分に降りかかった呪いを思い出す。脳を無遠慮な手でぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、縄で絡め取られて自分が自分でなくなるような、気が狂いそうになる嫌悪感が蘇る。
「ッ──!」
和泉守の手を弾き飛ばしてベッドから転がりおちて部屋の隅に飛びすさる。そこで漸くこの洋室が見知らぬ部屋だと認識する。手探りで触れたのは本丸には無いはずの金属製のドアノブだ。
──ここはどこだ。
一拍後に先程とは比べものにならない頭痛と吐き気に目が回る。ふらついた肥前を支えたのは扉を開けた加州清光だった。
咄嗟に振り払おうとして、想像以上に力が入らないことに気付く。焦る己に反して、加州はいたって飄々とした顔で肥前を見下ろした。
「あーもー、急に動くなよ。大丈夫、触ってもなんともないぜ」
眉を下げておろおろとしている和泉守が加州の言葉にこくこくと頷く。
「のろいは……」
「もう浄化できたよ。問題ないって施療院の大倶利伽羅にOK貰った」
「せ、せんせいは」
「朝尊も大丈夫。アンタより早く目を覚ましてもう一回寝かせてる」
「ここは」
「支局の宿泊施設の一つ。本丸にはまだ帰れないからここに仮住まいしてンの」
肥前の問いに淡々と答える加州と、それに逐一赤べこのように頷く和泉守を見て、それが気休めでも何でもなく事実である事が漸く頭に染みこんでいく。
窓の外には真っ青な空が見えた。
風船がしぼむように体の力が抜け、絨毯に頽れる。頭をぶつける前に加州が腕を引いてベッドに転がされる。一瞬忘れていた悪心が蘇ってうめき声をあげて枕に沈み込む。和泉守に渡された水をすすり込んで呻く。
「あーあーもう、無理すんな」
「気持ち悪ィ……」
「だろうね。荒療治だったもん。俺だったらぜってえヤダ。主の霊力ってだけが唯一の救いだよ」
加州が肩を竦める。嫌な予感に顔をしかめながら視線で詳細を促せば、隣の和泉守が口を開く。先行調査員として政府に顕現された際の僅かな縁を辿って呪詛を受けたという説明に、ため息しか出ない。
「なんで俺らだったんだ」
「さあ? それは運だってさ。山姥切長義やジジイだったかもしれないし、古今伝授たちだったかもだし」
深いため息を吐く。
「運が悪かった、ってか」
「いいや、運が良かったよ。主は生きてるし、折れた刀もいない。あんた達も折れてない。俺たちは本丸に帰れる」
加州は全く冗談を言っている雰囲気はない。肥前の想像以上に深刻だったらしい状況を改めて考えて、ぞわりと背筋が寒くなる。
わずかに降りた沈黙を破るようにドアが開いた。籠をもった堀川が顔を出す。
「あ、肥前さん起きてる! 良かった……、重傷にしちゃったから心配してたんだ」
けろりと言われて思わず睨み付ければ、悪びれた様子もなく肩をすくめる。
「折らないように手加減するの大変だったんだよ。操られてる肥前さん弱くって」
「……誰が弱ェって?」
「操られてた肥前さん。兼さん来てくれなかったら危なかったよ」
きっぱりと言い切られる。殴りかかろうと身動いだところで堀川が笑う。
「力任せ、早さ任せでなんにも考えてない動きだったからさあ。今の肥前さんの方がよっぽど強いよ。あ、経口補水液もってきたから肥前さんこっちも飲んでね」
「国広ォ……」
堀川の軽口にはらはらしていた和泉守がため息を吐く。
褒められているのかけなされているのか、なんとも言えぬ気分で甘塩っぱい水をストローですすり込む。僅かに悪心が落ち着いた。
「南海先生もさっきまた起きたんだけど、二振りともご飯食べれなさそう? 食べれないならおかゆもってくるけど」
堀川は空になった籠をデスクにおいて身を翻す。
その背に声を掛けた。
「……待て、俺たちを討伐に来たのは、誰だ。お前と和泉守、加州、だけか?」
振り返った堀川が首を傾げる。
「僕らだよ?」
堀川はそう言うが、肥前の勘が否定を告げている。
──違う。
おぼろげながら覚えている光景がある。加えて、必ず戻ると言った刀が約束を違えることはない。
「もう一振りいたはずだ」
ぴくり、と和泉守の肩が揺れた。それが証拠には十分だった。
──戦場ではあれほど冷徹な刀だが、日常ではこうもわかりやすいものか。
一方で加州は唇を尖らせるだけで感情を読み取らせはしなかった。肩をすくめて腰の刀の束を叩く。
「うーん。俺たちはさ、こういうの慣れてるから志願したんだよね。俺たちはもしもの時だって剣を鈍らせずにいられる。今回は護衛に回った長曽祢さんも、安定も」
こういうの、と肥前の首筋を赤く艶めいた指先で横に薙ぐ。仲間の処分──なるほど、新撰組ならば慣れていると言ってしまえるのだろう。
けれどそれまで飄然としていた加州がくしゃりと苦笑した。
「でも仲間に剣を向けることって、すっげーキツいよ。俺たちでもね」
「……クソ」
ずきり、と頭が痛んで目を閉じる。同時に傷の無いはずの心臓が引きつるような痛みを訴える。
瞼の裏に見知った32口径の黒々とした銃口が過ぎる。
真っ直ぐに自分たちを狙っていたあの引き金を引いた刀は、ここには居ない。
いつもの脳天気な顔はなりを潜め、ぞっとするほど冷え切った昏い目と顔でこちらに照準を合わせていた。
心臓さえも凍り付かせたような顔に肥前の胸の内がざわつく。
「陸奥守……」
零れた名に何故か和泉守が慌てたように身を乗り出す。
「あ、あいつは悪くねえよ! オ、オレが隊長だったから、オレがけしかけたし、オレが命じたし……だから」
「あ?」
「だから、あいつは……」
睨み付ければ尻すぼみになっていく和泉守の声に、肥前はため息を吐いた。しおれた花のようになった若い刀を小突く。まるで自分がいじめているようではないか。
「別に責めたい訳じゃねえよ」
飲み物を飲んで少し落ち着いた体調を押してベッドから降りる。
「どこいくの?」
分かっているくせに聞いてくる性格の悪い脇差しを睨む。
「別に……散歩だよ、散歩」
「……っあー、えっと。ここ、東側の岬に展望台あンだよ。海が見えるぜ」
「……そうかよ」
お節介な若い刀に小さく頷いて部屋をでる。
「──ありがと」
壁にもたれかかった加州が、目を細めて笑っていた。
「チッ」
腹の底が読まれているようでおもわず舌打ちをする。加州の笑みが深まったように見えたのは気の所為だろう。
──それでも、引き金を引いたあの刀の、凍り付いたような表情。
今もあの顔をしているのだろうかと思えば、なぜか無性にじっとしてはいられなかった。
***
支局の宿泊施設──自分たちの本丸のある備後なのかと思えばどうやらここは肥前国だったらしい。散らばる小さな島々が遠く見える海には僅に見覚えがある。自分の打たれた国である。
海には波が白く跳ね、南国らしい晴れ渡った空は澄んでいる。施設を出れば眩しい日差しに目を眇める。
その景勝のよく見える、岬に張り出したような灯台の形をした展望台の入り口の前に、見慣れた人影を見つけて声を掛ける。肥前と同じ旅館の浴衣姿だが、彼を見間違える筈がない。
「先生、南海先生」
肥前の声にゆっくりと振り返った南海太郎朝尊はやはり顔色が悪かった。ひょろりと伸びた柳のような朝尊の顔色が悪いと、まるで幽霊のようだ。
「安静にしてなくていいのかよ」
「肥前くんこそ」
顔色に沿って声にも力が無い。近づけば僅かに強張った顔が力なく歪んだ。逸れた視線の先には展望台の階上が見える。
──ああ、ここか。
戦場のようなひりひりとした緊張感が展望台の天辺から感じ取れる。一振りの打刀が──無論、目的の刀がそこにいる。
朝尊が入り口で立ちすくんでいる理由も分かってしまった。
「……どうしよう、肥前くん」
滅多にないほど弱って揺れている朝尊の声に肥前は少しばかり驚く。
「どうしようもなんもねえだろ」
「……うん、でも」
俯いた横顔に髪が掛かる。浴衣の袷を握りしめる仕草は、かつて武市の腰に憑いていた幼い付喪神の姿を思い出させた。
「ずっとね、考えてたんだ。何を言うべきなんだろうかと……。でもなにを口にしても全部違う、言葉にしようとすると全部正しいものとは思えないんだ。理解できない公式を使っているみたいで、すっきりしない。興味深いが、困ってしまうね」
足が竦んでいるのだろう。戦場でも日常でもそういう姿を見たのは随分久しぶりなような気がした。
「先生の言うことは小難しくて分からねえよ。行くだけ行って、言うことがねえならそれでいいだろ」
朝尊の腕を引く。
「ひ、肥前くん」
「あいつもとっくに気配くらい気付いてるよ」
それでも気配が動いていないのが迷いなのか甘さなのか肥前には判断が付かない。朝尊は僅かに尻込みをする様子を見せていたが、肥前に腕を引かれるままに展望台に足を踏み入れた。
金属板の螺旋階段に二振り分の足音が響く。
長い階段を昇るだけでくらくらと目が回る。それは朝尊も同じようで少し息が上がっていた。それでも階段を昇る足は互いに止まらない。
手すりを使いながら最後の一段を踏み越えて、微かに息を荒げながらも顔を上げる。額に滲む汗を拭って目を開ける。
一面に広がる青空の中、凍り付いた気配ばかりを纏う刀の背中が肥前の視界に飛び込んだ。
南国のからりと熱い風が展望台を吹き抜ける。だというのに、目の前の背中から感じるのは、凍てついたような冷たい気配だった。
──馬鹿が。
いっそその背中に吐き捨ててやろうかと息を吸って、変な場所に引っかかった呼吸で咳き込む。朝尊もまた体力が削れたらしくへたりと床にしゃがみ込む。肥前も意地で立っているだけで、もう動くのも億劫だった。
びくりと彼の背中が跳ねる。
気になるならば振り返れば良いものを。
はー、と今日一番に深いため息が零れる。朝尊に手を貸してそのまま両隣の手すりにもたれ掛かった。
息も絶え絶えになりながら朝尊が口を開く。
「ねえ、陸奥守くん、僕は階段で疲れてしまったよ」
ぐったりとした朝尊が陸奥守の肩に懐く。
「あー、腹減った」
手すり代わりに使ってやっている強張った刀の肩がわなわなと震えているのが分かる。
しばらくは、展望台を吹き抜ける潮風ばかりの音が響いていた。
ふと、ず、と鼻を啜る音が風に混じる。ぐす、としゃくり上げる声も。
横目に見ていれば、表情のなかった顔がくしゃりと歪んで、あさぼらけの瞳にばらばらと大粒の雨が降る。
春になれば氷が溶けていくように、凍てついた心臓がゆっくりと動き出しているのが、ふれあう肩越しに分かる。
しばらく堪えていたようだが、蛙がつぶれたような可笑しな嗚咽が漏れた。
それを聞いた朝尊のくすくすと笑う声に隠れて、肥前も思わず吹き出した。
凍てつく心臓 完
「あ、本当にだめかもしれない。陸奥守くん動けない」
「えっ、先生!?」
「………………頭が割れる」
「ひ、肥前の!? おまんらぁなんちゅう無茶をするんじゃ!! いけん、早う戻るぜよ!」
太い腕に脇を掴まれて、目の前に海と空が広がる。
嫌な予感に制止をする前に感じる浮遊感。頬を切る風とひっくり返る胃の腑。
「わあ!」
珍しく子どものように素直な朝尊の歓声が響く。肥前は声もない。
「何してンだ馬鹿野郎ォ!」
和泉守の悲鳴が真下から聞こえる。堀川と加州の高らかな笑い声が青空を突き抜けるようだった。
「うわあ! 陸奥さんすごい! 部屋は三階ですよー」
「あははは! 吉行最高!」
無論、病み上がりの無茶に主に大目玉を食ったのは肥前と朝尊で、その横に張り付いて剥がれなかったのは陸奥守であったことは言うまでも無いだろう。
後書き
出演: 陸奥守・なんちゃあない・わけがない・吉行
肥前・お兄やん・忠広
南海太郎・バンジージャンプが好きだと知った・朝尊
和泉守・戦闘スイッチが切れると可愛げしかない・兼定
堀川・ちょっと肥前くんにはシンパシー感じてる・国広
加州・世界一可愛くてかっこいい・清光