四 ことの起こり・前 - 2/2

ことの起こり

 昼前に和泉守と共に自国の庁舎本部へ野暮用で赴いていたはずの主が、たった一人で転送門から這う這うの体で飛び出してきた。
 ゲートを飛び出した瞬間に、がくりと膝を突く。
 顔は青ざめ今にも気を失いそうな様相に、陸奥守は案内をしていた五月雨江を置いて慌てて縁側から飛びおりて駆け寄る。血の臭いはしない。だが、足りない。和泉守の姿はない。
「主、どういた!?」 
 陸奥守に縋り付くようにして主が真っ青な顔で悲痛な声を上げる。その顔は恐怖に歪んでいた。
──和泉守が呪われた。
 と、主が呆然として呟く。
 庁舎ロビーで撒き散らかされた呪詛テロに巻き込まれ、和泉守は極の打刀の力を遺憾なく発揮した結果、その身に呪詛を受けたらしい。
 主の悲痛な声の意味を理解した瞬間に、陸奥守は鳩尾が冷え冷えとする久方ぶりの感覚を得た。足が震えて立って居られない様子の主を支えながら、引きずるようにして縁側に腰掛けさせる。
 爪を噛むようにして震えている主の背をさすりながら、狼狽える五月雨に声をかける。
「五月雨! 二ノ丸から堀川らあ呼んできとおせ! 歌仙と新撰組らあも! 厨に居るにかあらん、判らんかったら放送してもらっとおせ!」
「しょ、承知!」
 流石の俊足であっという間に五月雨の姿が塀の向こうに消える。
「主、話せるかえ。わしがちゃんと聞くき、落ち着いとせ。深呼吸じゃ、深呼吸」
 陸奥守のコートの裾を強く握りしめた主の指が真っ白になっていた。庁舎で昏倒しなかっただけ良かったというべきだろう。
 庁舎のロビーで爆ぜた呪具だか何かから溢れたなにかから主を庇い、和泉守は呪いを受けたのだという。中心部で幾振りかの刀が昏倒したのを見たそうだ。
 テロリストは直ぐに職員とそこの刀剣男士で取り押さえられたらしいが、呪詛を受けた刀や人がいく振りか、問答無用で庁舎の奥へ引っ立てられたらしい。庇われた主たちが迫っても職員からの答えは無く、追い立てられるようにして本丸への転送機を起動させられた。
 それもどうなのだ。あちらも混乱したのだろうが、せめて最低限の説明をすべきだろう。審神者なる者の己の刀への思いを軽く考えすぎである。
 このまま和泉が帰ってこなかったら、呪いの所為で折れちゃったらどうしよう。
 殆ど涙声の主の訴えに、陸奥守もぞっとする。
「……おっこうなこと言いな。あいたぁもなんちゃあないちや」
 それでも言葉ははっきりと、力強い響きで主を宥めたが、陸奥守とて冷静では無い。
 その証左に、喉はカラカラに乾いていた。
──無事かえ……。
 陸奥守吉行はこの本丸の初めの一振りであるが、同日にきた刀の一振りが和泉守兼定である。
 本丸発足の日から本丸の外に内にと共に駆け回り、ぶつかりあっては仲直りをし、刃をすりあわせるように成長し、互いに極めに至ってもそれは変わらなかった。
 互いに情を口にしたことはない。
 文の一つも交わしていないどころか、口吸い一つもしていないが、それでも互いが互いに特別だと感じている。
 それは陸奥守のうぬぼれではないだろう。
 春のまどろみのような関係のまま、ここまできた。日々が突然途切れることなど分かっていたというのに。

 縁側の柱に凭れる主が、和泉守が帰ってこなかったらどうしよう、と繰り返す。
「主! あいたぁそがにたっすい刀やないぜよ」
 言霊になりそうな主の不吉な言葉を止めに声を上げた時だった。
「そーだぜ主。オレぁそんなにヤワな刀に見えるかァ?」
 ひょい、といつもの通りの声が陸奥守の背後から落ちてくる。
 彼を認めた主の目がまん丸に見開かれる。慌てて振り返れば、果たしていつも通り、鴉の濡れ羽色の髪を結い上げた姿で呆れた顔をした刀がゲートを踏み越えて笑っていた。
「──和泉の?」
「おー」
 ひらり、と組んだ腕のままひらりと手を振る。その直後にゲートが再度起動し、今度はスーツに身を包み、職員証を首から提げた源清麿が現れる。政府の職員として働いている清麿であろう。
 彼は慌てた様子で和泉守の裾を強く引く。
「ちょっと、先に行かないで」
「悪ィ悪ィ。ってか主、どーしたよ、顔が蒼いぜ? また倒れちまうだろーが」
 呆然としている主を和泉守が揶揄う。主は殆ど涙声で彼の名を呼ぶ。
「おう。いやーそんな大したことなかったぜ」
「大したことなかったかは兎も角として、とりあえず説明にきたんだけど……いいかな」
「いいだろ。ほらほら、しゃんしゃん立ちやってなァ」
 陽気に陸奥守の訛りを真似る和泉守に、主が肺の空気を全てはき出すような溜息を吐く。自分も釣られて深い溜息を吐いた。
 どうやら政府の清麿の様子から見ても大事には至って居ない様子である。先ほどまでの焦燥感と恐怖をどうか返して欲しい。
 ようやく立ち上がって清麿と応接室へ向かう主を支えながら、陸奥守はそっと彼の様子を振り返った。
 そこで漸く気付く。
──本当に何も無かったというわけではないらしい。
 和泉守の顔はいつもよりも血色が悪く、組んだ腕は一度も解かれていない。所作からどこか緊張か警戒のようなものが見て取れる。戦場にいるような緊張がわずかに残っている。
 ゲート前から動いていない和泉守に近づいて顔を見上げた。
「──和泉の」
「……おう」
 声を掛けても返事はやはり少し張りがない。疲れているようにも見えるが、それだけでもないだおる。
「よう主を守ったにゃあ。お疲れさんじゃ」
 ふ、と彼が顔を俯かせる。長い髪で顔が隠れ、縁側の陸奥守からは表情が窺えない。
 だが、その瞬間ぞわりと陸奥守の胸に嫌なものが溢れる。
 まるで泣き出す寸前のように途方に暮れた瞳が長い髪の合間から覗いた気がした。
「い、いず……」
「兼さん!?」
 丁度陸奥守の声をかき消す勢いで、堀川国広が飛び込んできた。歌仙と共にエプロン姿で、手にはお玉やらフライ返しやらを手にしている。
「おう、国広。帰ったぜ」
「どうしたんだい、五月雨江が大慌てで飛び込んできたんだが」
「之定まで呼んだのか。大げさな……」
 肩を竦めて二振りに応じる姿に先ほどの違和感はない。
「僕らを呼んだ後、五月雨は新撰組ゆかりに声を掛けてたからもうすぐ来ると思うよ」
 歌仙の言うとおり、本丸と二ノ丸を繋ぐ橋の方から聞き馴染んだ刀たちの声が聞こえてくる。あと十秒もせずに駆けつけるだろう。
「……仲が良いんだねえ」
 微笑ましげに清麿が和泉守に声を掛ける。
「心配性なんだよ」
 はーと溜息を吐き、和泉守は長い髪をくしゃりと混ぜる。
 そのときまでは、彼にも笑顔があったのだ。

 

 和泉守兼定は一度呪いを受けたが、すでに清められていると清麿は告げた。
 清麿が一枚の紙と冊子を渡しながら説明をはじめる。陸奥守と和泉守兼定と先ほど集まってきた刀たちがそれを見つめてごくりと唾を呑んだ。
「あのテロリストはね、以前の大和第四研究室事件で指名手配されている反刀剣男士組織の幹部の名前を吐いたんだよ。『マトリカリアの子どもたち』っていうカルト教団さ」
「あのカレンデュラ事件の……」
 堀川国広が呟く。大和第四研究室事件はその組織が悪名を広めた発端だった。陸奥守もアーカイブや通達で知っている。
 通称をカレンデュラ事件──大和第四研究室による刀剣男士虐遇事件。攫われた刀剣男士数十振りのうち、救助時に生き残っていたのが十数振り。救助後に自壊したのが半数という最悪の事件だった。
 即ち、主と和泉守兼定が巻き込まれたのは刀剣男士を悪魔の化身として排斥を求める反刀剣男士主義者の、末端の末端のテロ行為だったらしい。
「呪いは大したものじゃなくてね。もう和泉守兼定のそれは解けている」
「それやに、本丸療養の指令ながか? 出陣・遠征を禁止し、なるべく謹慎することちあるがやけんど」
 陸奥守は令状を清麿から受け取って首を傾げる。
「ああ。経過観察と報告義務の上、約十日間の出陣・遠征禁止及び転送装置使用認可を停止する。……呪いが解けた筈なのに、目覚めない刀が居るんだ」
「解けたのに、目覚めない?」
 歌仙の疑問に清麿が頷く。
 中心地近くでその呪詛を受けたへし切長谷部や肥前忠広、御手杵、山姥切国広、蜂須賀虎徹などの目覚めていない刀剣男士がいるという。
 呪い自体は粗雑な呪具がまき散らしたもので、既に解呪した筈なのに刀剣男士は目が覚めない。
 無論、周縁で呪詛を受けた殆どの刀剣男士は目覚めている。
 それでも、現状目覚めていない男士がいる以上、施療院は大事を取るようにとの指示だ。
 清麿の視線が和泉守に向く。
「呪詛の解析が済むまで、あまり動き回らないように。潜伏・遅効性のものも最近はあるんだからね」
「おう。それ、施療院の大倶利伽羅にも耳胼胝くらい言われたぜ」
 和泉守は素直に頷いて肩を竦める。
「それで……、呪いの性質というのはどういうものなんですか?」
 堀川の問いかけに、清麿は難しい表情をする。
「……おそらくなんだけど、何らかの精神的なショックを与えるものだよ。今研究室で解析が進められている」
 それを重く見ての外出禁止だ。凶悪な指定カルト集団から持ち出された呪詛は粗悪品ながら刀剣男士への攻撃に特化していたらしい。
「起きた刀は誰も何を見たのか覚えてないというんだ。おそらく防衛反応によるものなのだろう。だが、精神的なショックは本丸に戻った方が直りが早い。施療院でもそういう判断だった。目覚めない刀は、そのショックから自分を守るために眠ったままなのだと思われる」
「強い衝撃……」
 堀川が痛ましげに眉を寄せる。名前の挙がった刀の中には堀川の兄弟刀も含まれているのだから当然だ。陸奥守もまた、同じ家に伝わった脇差の名や本丸に居る友人の名が上がって胸が痛む。
 あの強靱な刀たちが防衛反応で心を閉ざすほどの何かを、和泉守も受けたのだ。
 ちらりと様子を見れば、和泉守はさしたる動揺もなく話を聞いていた。施療院でも同じように説明を受けていたのかも知れぬ。
 主と和泉守は同意して指令を受け取り、清麿はまた連絡するといって忙しなく本部へ帰っていった。

 

「和泉守、大丈夫かい?」
「ああ。だが……ちょっと今日は疲れたな……」
 歌仙に答える和泉守は本当に疲れた顔をしているように見えた。
「……ゆっくり休みなさい」
 歌仙が心配そうに彼を見上げる。
「おう」
 和泉守はいつものように少し気恥ずかしげにはにかむ。新撰組の皆が彼を取り囲んでやいのやいのと声を掛けていた。
 彼らから少し離れた場所で、主と並んで彼らを眺める。
 あの顔色の悪さ。疲労だけではないだろう。
──この刀が、どんな刀よりも強がりが得意なことを知っている。
 隣で和泉守を取り囲んで団子のようになっている刀たちを慈しみ深い目で見ていた主が陸奥守に声を掛ける。
 離れにて隔離し、見張り番には陸奥守をつけるとの旨を堀川に告げる。
「堀川やのうてええがかえ?」
 彼の相棒であり、助手である堀川国広は苦笑して主の意見に同意した。
「うん。僕だと兼さん逆に気を張っちゃうと思う。こういうときばっかり格好付けるの、陸奥さんも知ってるでしょ。でも心配だから補佐に着いていいかな、主さん」
「ほじゃの、それがええ。たった十日じゃ。主、なんちゃあないぜよ」
 そうだね、と頷き、ようやく主の目元が緩む。
 それに合わせたかのようにぴんぽんぱんぽん、と一斉放送が本丸に響いた。
──夕食の準備が終わりました。夕食の準備が終わりました。今日の献立はねえ──
 かすかに緊張した声は、放送当番の太閤左文字のものだ。後ろから輔佐する江雪左文字の声も微かにする。 
 気がつけば城にかかる日は、天守を赤く染めていた。
 主が和泉守を手招いて、いろいろと話しかけている。明日の夕飯はきっと彼の好物になるだろう。頭を掻きながら主に応えている様子に、強いて妙なところはない。
 陸奥守は心底ほっとして、二ノ丸へ向かう和泉守を追いかける。
「和泉の」
「……おう。主から聞いた。世話ンなる」
「だれちゅうにゃあ。ちっくとばあの辛抱やき、たまには大人しゅうしゆうがもえいろう」
 たまにはってなんだよ、と和泉守が口を尖らせ、陸奥守はそれを笑う。
「朝まで一緒に居れるがはえいにゃあ。酒盛りするかえ?」
「は、それもいいな」
 陸奥守の軽口に乗せた本心に、和泉守は漸く愁眉を開いて笑みを浮かべる。
 打刀は夜戦でも市街戦でも野戦でもどこででもどのようにでも動ける刀だ。共に夜を明かしたことなど数えきれぬほどもあるが、二振りきりで朝を迎えたことはない。
 離れの中で枕を並べ、陸奥守は少しだけ胸を弾ませた。
 自分たちの春のまどろみのような曖昧で温かな関係を進める時期に来たのかもしれない。 
 けれど早くもその夜に、異変は起こる。