五 ことの起こり・後 - 1/2

呪いの膿傷

隣の布団が蠢く音に目を覚まし、次いで聞こえる呻き声に陸奥守は掛け布団を跳ね上げた。衝立の向こうから聞こえる苦しんでいるような声に、慌ててそちらに回る。
「和泉の!?」
 和泉守は額に大粒の脂汗をかきながら魘されていた。顔は苦悶に歪み、ぎりぎりと歯ぎしりの音もする。
「こらめった。和泉の、起きい! どういたがじゃ、苦しいがかえ?」
 はくはくと空気を求める金魚のように彼の小さな口が開閉する。何か言葉を紡いでいるようで、耳を近づけるがそれは空気ばかりであった。強ばりきった肩を掴んで揺さぶる。
「……和泉の!」
 陸奥守の怒鳴り声にパッ、と彼の青い目が開く。ぼんやりと焦点を結ばぬ瞳が揺れ惑い、まるで迷子の子のように見えて、陸奥守はぞわりとした。意志の強さを露わに青空よりも輝く双眸は今、光無く沈み、痛ましい涙に潤んでいる。
 彼のそんな様子を陸奥守は今まで見たことが無かった。
 掴んだ和泉守の背に腕を回す。荒い息を吐く彼の肩を宥めるように叩く。
「起きたがかえ、和泉の」
「陸奥の……か?」
 朝日が射すように彼の目に光が戻り、彼ははっと陸奥守を押しのけて目を白黒させる。
「お、おいおいどうした。うわ、なんだこの汗、びっしゃびしゃじゃねェか」
 額にべったりと張り付いた前髪が掻き上げ、うなじを擦って和泉守は声を上げた。
「何も覚えとらんがか?」
「何がだ?」
 彼はきょとんと首を傾げる。
 陸奥守があまりに見つめるので、和泉守は少々気恥ずかしい様子で陸奥守を押しのける。陸奥守の頬を軽く抓ってにやりと笑う。
「夜這いかァ? おいおい、オレの魅力にやられたかよ?」
「ち、ちゃうちゃ。おまんがふとい声で魘されよったやいか……」
「……魘されてた?」
 和泉守は首を傾げる。深い溜息を吐いて頭を掻いた。
「てめぇが言うならそうなんだろう。……汗べったりだしなァ」
 見ろよ、と夜着のあわせを開く。色が変わるほど濡れていた。
「全然覚えてねェのが気味悪いくらいだが……。ちょっと湯浴びてくらァ」
「わしも行く」
「いーよ。寝とけ寝とけ」
 ひらり、と手を振り、和泉守が障子の向こうに消えていく。
 陸奥守はひとり部屋に残される。障子の隙間から入り込んだ夜風に身震いする。
 嫌な予感がした。

 

 夜が明け、陸奥守はまっすぐに主の元へ向かう。
 主もまた陸奥守を待っていたようだった。
 丁度自分か和泉守を呼ぼうとしていたようで、手には情報を展開している端末がある。
「情報かえ」
 政府からの速報が届いていたらしい。展開された情報を端末ごと投げ寄越されて目を通す。
「──自壊」
 一番はじめに飛び込んできた文字に心臓がいやな音を立てる。
 昏睡状態に陥っていた刀が一振り、目覚めた瞬間に自壊を図ったという。間一髪、共に詰めていた本丸の仲間が取り押さえたらしいが、その刀は今、より深い昏睡状態に陥った。この本丸にもいる刀の名に胸が痛む。
 その昏睡状態を調査して呪いの大本が判明した。数年前の大和第四研究所事件で刀剣男士を実験台に作られた呪薬の一つであろうとのことだ。
 刀剣男士の心を折ることに特化した呪いだという。作成者的には悪魔祓いの聖なる術らしいが。
「……ぞうくそ悪いのう」
 全くだと主も顔をしかめて頷く。
「和泉のも、その呪いに掛かったっちゅうわけじゃな。あいたぁは昨日、たいちゃあ魘されちょったがよ……。呪いは解けたがやなかったがかえ?」
 主は沈痛な面持ちで呟いた。刀剣男士の魂には誰しも癒えぬ傷がある。それを汚れた手で暴かれたのだ。膿爛れて然るべきである。汚い手を払っても、爛れた傷が癒えるわけではない。
 その傷も含めて、お前達の魂なのだから。
「傷……」
 主は痛ましげに自壊を図った刀の名を呟いた。
 いったい何を傷つけられたのだろう。どうして、あの刀が傷つけられねばならなかったのだろう。暴かれ、膿爛れる魂の傷。
 陸奥守にも覚えがある。あれを無遠慮に暴かれる苦しみは二度も経験したいものではない。
 本丸発足直後に和泉守兼定と一度抜刀騒ぎになった喧嘩の折を思い出す。あの時はひどかった。互いに互いを傷つけることしか言わなかった。
──そのおかげで今があるのだが。
 ふつふつと煮えたぎるテロリストへの腹立たしさを抑えて首を振る。
 主は難しげに眉を寄せて、手元の紙を見ていた。主はどうやら何か気付くものがあるようだ。見覚えのある手漉きの紙と手蹟が僅かに見える。
──修行先から送る手紙だ。
 陸奥守もかつて送ったものだから分かる。おそらくそれが、和泉守兼定の手紙であることを察する。
 何が書いてあるのかは知らない。彼の修行の行き先くらいは察しているが、この本丸では自分の修行で何を知り、何を思い、何を胸に帰ってきたのかを口にすることは無かった。
 主も、陸奥守にそれを見せることはなくただ自分の膝元にお守りのように乗せている。時折指先が手蹟をなぞる。
 落ちた沈黙を裂いて、放送が流れる。朝餉の時間となっていた。
「主、また情報がはいったら教えとおせ」
 主と約束をして陸奥守は執務室を出る。

 その日から、和泉守は毎夜のように魘されるようになった。
 朝になれば平然としているのに、夜、夢の中では苦悶の表情を浮かべて汗だくになって飛び起きる。
 いっそのことと手合わせでへとへとになるまで打ち合ってもその夜には真っ青になって陸奥守の腕の中で魘されるものだから陸奥守はとてつもない罪悪感に苛まれた。
 過剰な手合わせで体力が無いというのに、あえかな声で啜り泣き、あまり動かぬ身体が強ばっていく。もう二度としないと決めた。
 傷が膿爛れていくように、段々と和泉守の様子がおかしくなっていく。
 張り詰めた糸が切れたかのように和泉守が目覚めなくなったのは、その七日目のことだった。