いと潔き母、我らを赦したまふな - 3/3

「とは言ったものの、これを弟どもに見せる訳にも……トオルは覚えてねえだろうけどなあ」
 丁寧に布で包まれた肖像画を抱えながらケンは困り果てた。純粋に弟たちの幼い頃の姿を手元に残せる喜びは大きい。吸血鬼が通常の写真機に写らない以上、幼少期の二人の姿は自分の記憶の中にしかないものだ。子どもに何十分も尻に力を入れていろとも言えず、ケンが持つのは最近のカメラで撮ったものだ。
 母の描かれた肖像画を何も思わず飾れるほど、ケンたちにとってそれは昔話ではない。
──うーん、美術館とかだと好きなときに見れねえし……。
 VRCに預けるとさすがにヨモツザカに廃棄されそうである。
「おやケンくん。何だいその荷物。今時裸婦画かい?」
「あ、最高額落札のおっさん」
 黄色いスーツの友人というよりはVRC収監常連仲間の吸血鬼が今日も飄々と歩いている。どこかでY談でも聞いてきたのかほくほくとご満悦だった。
「え、闇オークションの人身売買ネタ? 趣味変わった?」
「違ェよ! あんたの肖像画の話」
「ああー、物好きもいるよねえ」
 にまっと笑う古き血に、ケンはため息を吐いた。こういう時のあっさりとした受け流し方は古き血の懐の深さを感じて素直に感心するが、普段を思えば素直に畏怖してやる気分にならないのがこの吸血鬼の残念なところだった。
「それも?」
「そうだよ」
「へえ。なんだ、裸婦画じゃないんだね」
「最初から素っ裸なのは脱がせ甲斐がないから趣味じゃねえ」
「君もつくづく変態だねえ。で、それは君の御母様でも描かれてるのかな?」
「おっさんさァ、そういうのって分かっても黙っとくもんじゃねえ?」
 期待もしていないデリカシーを指摘すれば、黄色い吸血鬼は肩を竦めるだけだった。
「君もわりと血族主義だよねえ」
「そうかぁ?」
 血族主義であれば、あの夜母に背を向けただろうかと思う。
──あのとき、母を見捨てただろうかと思う。
「あー、おっさん、飲みに行こうぜ」
「いいよぉ」
 何もかも分かったような顔をする古き血の畏るべき吸血鬼は、にんまりと口角を上げてケンの誘いに頷いた。

 トールことトオルはすくすくと大きくなった。
 ケンの想像以上に達者な吸血鬼の幼子は人にも吸血鬼にも人見知りせずに愛嬌を振りまいて、それでいてよく言いつけを守る子だった。それで助けられたことも大いにある。
 基本的に吸血鬼が丈夫であるのも手伝って、立って歩けるようにまで成長した。
 トオルの最初の言葉が「けんにい」だったことをケンは塵に帰るその日まで覚えているだろう。
 横浜居留地の屋敷の贅沢三昧は不可能だが、日本各地に一時期形成されていた舶来系の吸血鬼街や廃れつつある宿場町に紛れ込んでケンとトオルは生きていた。
 やったこともなかったテキ屋商売はケンの肌に合ったし、方々を流離えば後腐れなく催眠術の修行もできた。
 結界と結界内に限定することで強化された深層催眠がケンの能力で、それを磨くことで結界内であれば母にも匹敵できる。自分だけのキーワードを見つけられればより強化できると聞いたが、ケンにはまだそれがなかった。
 あとは親吸血鬼の血の支配による催眠耐性の弱体化をなんとかできれば、母を噛むことも可能だろう。
──あと一歩。
 目を閉じればいつでも、あの日に屋敷に残した弟の姿が浮かぶ。
「いついくの?」
「おう。後もう少しなんだけどなあ」
「おれもはやく会いたいな、ミカにい」
 赤子の頃はいつでもミカエラに抱かれていたものだが、もう六つになったトオルが覚えていようはずもない。
 それでも末の弟がミカエラを兄と認めているのがケンにはうれしかった。頭を撫でてやれば、はにかむ末の弟がふと首を傾げる。
「だれかくる?」
 定宿にしていた箱根宿の外で何か騒がしい。
 窓から顔を覗かせれば、大通りで提灯と懐中電灯の混ざり合った襷鉢巻きの男たちが吸血鬼を囲んでいた。最近英国からこの町にやってきた気の良い吸血鬼だった。
 真ん中で指揮を執っているのは、一目見てもこの国の人間じゃないと分かる背の高い洋装の男。手にある十字架を模したサーベルと銃。周りの男たちは竹やら木やらの杭を持っている。
──吸血鬼討伐隊。
 ケンはトオルを抱えて覆面をかぶせる。
「……ここも不味いな。出るぞトオル」
「うん」
 トオルももうすっかり慣れて風呂敷に荷物を抱えると素直にケンの背中に負ぶわれる。尖った耳と牙を布で隠して宿を出る。
 宿から出ようとして宿の看板娘が手招いた。
「こっちだよ。討伐隊に見つからないように、裏口から逃げな」
「お嬢ちゃん」
「……また来ておくれね。透ちゃん、拳さん」
 名も覚えていない宿の娘はトオルの頭を撫でて勝手口を潜らせる。
 宿の裏手から裏の隘路をかき分けるように抜け出して、討伐隊と鉢合わせそうになって慌てて防火桶の影に身を潜める。
「透、しーっな。兄ちゃんが良いっていうまで静かにするんだぜ」
「分かったよ」
──居たか。
──おらん。もう二匹、新参の吸血鬼がいたらしいんだがな。
 防火桶の影には気付かず、討伐隊としてかり出されたらしい男たちは汗を拭って立ち止まった。
 早く行け、と言うケンの切実な願いとは裏腹にたっつけ袴に襷を掛け、荒削りの杭を担いだ男はここで怠けていくつもりらしかった。
──なんでも、凄まじい催眠術をつかうとか。
──横浜の催眠使いの吸血鬼か? あれの討伐は次の満月じゃなかったか?
──いや、それとはまた別らしいぞ。あれは直々に英国やらから退治人が何人も日本に来てるとのことだ。
──横浜の催眠使いはえらい別嬪の女吸血鬼らしいがなあ。ああいかん、英国のお偉いさんが呼んでるぜ。行こう行こう。
「……ケン兄、どうしたの、ケン兄?」
 男たちが去った後も、ケンはトオルを抱えたままその場からしばらく動けなかった。
 月はすでに十三夜。あと少し満月に足らぬ月が隘路の隙間からケンを嘲笑っていた。

 それからどう歩いたのか、気がつけば保土ケ谷宿の安宿の囲炉裏端に座っている。在来の吸血鬼と人間の旦那が営んでいるケンたちの定宿の一つだ。
「ケンにい、牛乳もらったよ」
 湯飲みに温めた牛乳を入れてもらったトオルがケンの分を差し出す。暖かい牛乳にケンはようやく地に足をつけた気分になる。
「……おう、もらう」
 血とよく似た牛の乳を飲み干したケンにトオルがほっと息を吐く。気付けばもう朝方に近い頃だった。
 入ったときは幾人か屯っていた吸血鬼もとうに棺にもぐりこんでいて、残っているのはケンとトオルと店主夫妻だけだった。
「坊や、おかわりは?」
「いるー! 久しぶりに飲んだ、美味しいね」
 ぱっと顔を明るくしたトオルが明るい声を上げる。トオルの頭を撫でる女将が眉を下げた。
「暮らしにくいったらないね。昔だったらこんなことなかったのに」
「女将の昔って織田信長の時代だろ」
「これでも天保の生まれだよ」
 姉さん被りで尖った耳を隠しているケンと同じくらいの見た目の女将は鼻を鳴らす。
「ご公儀は私ら鬼が羽目を外し過ぎなきゃほっておいてくれたもんさ。今は吸血鬼ばんぱいあだなんてきざったらしく呼ばれてさ」
「お前は文明開化じゃハイカラじゃって喜んでたろうが」
 囲炉裏端でトオルの牛乳を温めていた旦那が肩を竦めれば、女将が牙をむき出して威嚇する。
「この爺さんはいらんことばっかり覚えて。昨日の夕飯も覚えてないのに」
「おお怖怖、鬼嫁じゃ」
「この爺さん、噛んでやろうか」
「はっはっは。おおい、お二人のカンオケまだかいな」
 とうに老境に達した旦那がトオルに暖めた牛乳を渡して笑いながら立ち去る。遠くから彼らの息子の返事が聞こえた。
「ったく、若いときから何も変わらん阿呆旦那め」
 女将はそれでも楽しげに笑っていた。
 すぐに青年がケンとトオルの棺を運んでくる。ケンは彼を見て首を傾げた。目の色が紅く、吸血鬼の気配がする。
「あれ? お前吸血鬼になったのか?」
「ケンさん、トオルちゃん。うん、去年にね」
「嫁の来手もないのに、この子ったら」
 棺を整えてくれる青年が苦笑する。母に聞こえないようにケンに耳打ちする。
「父さんに勧められたんですよ。儂は鬼にはなれんようだから、母さんを一人にしてやるなってね」
「親孝行だねえ」
 ケンは思わず自嘲するように零して、慌てて口を閉ざした。幸い青年はケンの嘲弄めいた声音には気付かなかった様子で首を傾げる。
「……お前さあ、母ちゃんを噛むとき、どう思った?」
 青年はきょとんと目を瞬かせて、意味を飲み込むと照れくさそうに笑う。
「へへ、ちょっと嬉しかったですよ。一人前の“吸血鬼”として認められたみたいで」
「そうか……」
 ケンは静かに頷いた。
「……俺はあの人に認めてもらいたかったのかねえ」
 誰にも届かない独り言が囲炉裏端に転がる。
 朝陽の気配がして、ケンは慌てて棺に潜り込んだ。答えはケンにも分からないことだった。
 

 まだ日が落ちきらぬ夕暮れに、ケンはそっと棺から抜け出した。久しぶりに墨染めの羽織に袖を通して黒布の頭巾を頭と口元を隠すように巻く。ケンは大して日に焼ける吸血鬼ではないが、それでも当たらない方が良い。
 これからすることを思えば特に。
「……トオル」
 トオルの寝ている棺を叩けば、返事はない。寝ているかと開こうとすれば、予想外の場所から返事が返ってくる。
「ケンにい」
「おわ」
 土間の三和土に死に装束の子どもが棺覆いポールを被って立っている。すっぽりと白い布でくるまれた様子は、西欧の幽霊のようだった。
「こっちこっち」
「……トオル、お前」
「よかった、ケンにいがおれを置いてくかとおもって用意してたんだ」
「本当は置いていきてえよ。でもお前にも関係あるからな」
「うん。ミカ兄と母さんにあいにいくんでしょ」
「お前は兄ちゃんに似て賢いなあ」
「へへへ、知ってる」
 布の下でトオルが屈託なく笑う。
「ケン兄なら大丈夫だよ。だっておれがついてるんだよ?」
「そりゃおまえ……心強すぎでしょ」
 幼いトオルの当然のような信頼にケンも思わずつられて笑う。
 被った布ごとトオルを背負い、街道脇の日陰を行く。
 吸血鬼の足ならば、夜半過ぎには懐かしき我が家にたどり着くだろう。

**

 忌々しげにガブリエラは窓の外を睨み付けている。ミカエラは母の側で人形のように立ちすくんでいた。
 母の享楽はどれだけミカエラが諫めても止まることはなかった。何かから逃げるように人を惑わせ、血を吸い、時に殺して、地下に捨てた。ミカエラにできることは何もなかった。
 気付けば屋敷の周りは包囲されて逃げ場もない。吸血鬼を殺すことを生業とした人間たちが集まっていた。
 屋敷の最上階であるここまではまだかかるだろうが、もう前庭は戦争の有様だった。
 ガブリエラとミカエラの支配した人間たち──かつてここで享楽に耽ったこともあった人間たち──が討伐隊と組み合っている。
 吸血鬼警戒の半鐘が絶え間ない。外つ国の言葉と、柄の悪い日本語が飛び交っている。外つ国の言葉にしても、ミカエラが聞き取れぬだけでひどいスラングだらけなのかもしれなかった。
「この人たちは操られているだけの人間だ! 傷つけるな! 気絶させろ!」
 張りのある声で誰かが統制をとっている。女の声だった。
 ふつ、とミカエラが噛んだ人間の幾人かのつながりが断たれる。死んだのか、気絶して解けたのか。それとも、同胞に上書きされたのか。
 支配した人間は無限ではない。そして屋敷を包囲するのも人間だけではないような気がした。
「母さん、もう、私の下僕は持ちません」
「軟弱者め」
 母の叱咤が飛ぶ。ついでに握っていた江戸切子の美しいワイングラスがミカエラの腕に当たって砕けて散った。母の気に入っていたグラスだったが、母はそれに一瞥もかけなかった。
 こぼれた血が絨毯に染みこむ。
 反論もできず、ミカエラはうつむいた。
 ミカエラの支配は弱い。どれだけ噛んでも何かに布のようなものに阻まれているように掛かりが悪かった。それを知った時の母の顔をミカエラは忘れることはないだろう。
「貴様の軟弱な支配など、時間稼ぎにもならん。私の血を引いておきながら、なんて、なんて貧弱な……。ああ、あの子が居れば……」
 カーテンを掴みながら呟く母の言葉は、ミカエラに深く突き刺さる。
 結局、母は一度とてミカエラを顧みることはなかった。弟から手を離し、兄の手を振り払ってまで残ったミカエラのことをこの人は一度とて。
 それでも憎みきれなかったのは、あまりにも自分に似ているからだろうか。ミカエラの方が背が高くなってしまったが、まるでミカエラと母は映し鏡のようだった。見てほしいと願う人に見向きもされないところまでも、よく似ている。
──私も兄さんとトールに会いたいな。
 最後に見た兄と弟の姿を思い出す。あの小さなトオルはもう立って歩ける頃だろうか。どんな話し方をするのだろう、何が好きになったのだろう。兄さんと仲良くしているだろうか。
 とどろく銃声。
 ふつ、ふつ、と催眠が解かれる感覚。つながっていたものがすべて切れた喪失感にミカエラは眉を下げた。
「……母さん。私の下僕はすべて」
 ガブリエラの鋭い目がミカエラを軽蔑したように見下ろす。
「なら、増やしておいで」
 母の指先が真っ直ぐに前庭を指す。ミカエラの支配は噛まねば通用しない。
「……それは」
 死ねということだ。
「お前でも少しでも敵を減らすくらいのことはできるだろう」
 できの悪い子どもに言い聞かせるような口調で、母は呆れ混じりに手を振る。
「なあ……それくらいはできるだろう? ミカエラ」
 母の目が真っ直ぐにミカエラを見つめる。
 圧倒的な母の支配の前に、ミカエラの本能が警鐘を鳴らす。死にたくない、会いたい。
 ぎちぎちと拮抗する力に抗って顔を背けて視線を反らす。それだけで気力を使い果たして、膝をついた。
「……母さんをこれ以上失望させないでくれ」
 前庭からダイナマイトの爆音が聞こえる。あのぱちぱちと燃える音は正門が燃えているのだろうか。焦げ臭いにおいが窓の向こうから臭っている。 母がため息を吐きながら窓に背を向けてミカエラの前に立つ。
 長い爪がミカエラのあごを掴みあげて無理矢理に引き上げた。
「誇り高き高等吸血鬼バンパイアロードの子なのだから。一人でも多く人間を殺しておいで」
 生きたいと願う本能と、上位吸血鬼の支配が鬩ぎ合って震える。目を閉じることも許されぬまま、自分とよく似た顔で母が命じる。
──嫌だ!
 ぼろ、とミカエラの目から涙がこぼれた。
──兄さん、死にたくない、嫌だ、助けて、兄さん。トール、会いたい、会えないまま死にたくない。
 あのときに兄の手を取ってにげるべきだったのか。母を哀れんだのが間違いだったのか。
「にい……さん」
 その一言を最後に、ミカエラの意識と体が切り離される。
 体がゆっくりと意に反して立ち上り、死への一歩を踏み出した。
 唐突に銃声と共に窓ガラスが割れて砕ける。月光に照り映えてしろがねに輝くガラスの雨。
 ついに人間の鉄槌がガブリエラの心臓に届かんとしている。窓の向こうに、真っ直ぐにこちらに銃口を向ける静かな顔の狙撃手が見えた。
 ミカエラの体が引っ張られるように弾道に飛び出す。ミカエラに庇われる形になったガブリエラは驚いた顔をした。それにこそミカエラは驚く。
 母はミカエラ自分の子を弾除けにしようとしたのではない、一番近くに居た下僕﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅を弾除けにしようとしただけなのかもしれなかった。
 それでも、ミカエラの死は免れない。
 襲い来る死と痛みに目を閉じて、その瞬間に、すべての音が止んだ。
──世界が隔離されているような静けさ。
 懐かしい静寂。パン、と耳元で柏手を鳴らされて体から力が抜ける。それを受け止めたのは、思い出よりずっと太くなった腕だった。
「……待たせたな、ミカエラ」
「に、兄さん……」
「絶対帰ってくるっつたろ」
 見上げれば兄がいた。それだけでミカエラがひどく安心してしまう。
「ケーン……」
 兄はミカエラを床に下ろすと、低い声で母に向き直った。
「血を分けた息子さえも弾除け扱いか。堕ちたもんだな、“幻惑の誘い”も」
「それは……」
「助けに来たとでも思ったか? まさかな? 俺の弟をかえしてもらいにきた」
 呆然としていたガブリエラの顔が憤りに紅く染まる。ドレスを捌いて立ち上がる。ケンを睨み付ける。
「お前が私に敵うわけがないだろう」
「ああそうだ。このままじゃな。……俺一人が敵わなくて良いんだ。一か八かの賭けになっちまったけどなァ!」
 ガブリエラの催眠が強くなると同時に、ケンが声を上げる。
「トオル!」
「あい!」
 ケンの着物の下から飛び出してきた幼子がガブリエラの足を掴んで引っ張る。下半身がないように見えるのはミカエラの目の錯覚だろうか。あの場所にいたなら足が見えてなければおかしい筈だ。
 存在すら忘れていた末の子の完全な不意打ちにガブリエラの目を見開かれ、バランスを崩して転ぶ。そのまま兄が母を押さえ込む。
「ミカエラ! 噛め!」
「っ、だ、だが……!」
「退治人どもはもう正面まで来てるぜ。時間はねえ、ミカエラ。俺たちと逃げるか、このままみんなで殺されるかだ!」 
 投げ出された細い腕を、ミカエラは掴む。
 この腕に抱かれてみたかった。撫でられてみたかった。愛されてみたかった。
 力尽きて、母の抵抗が止む。
「……軟弱者が、噛むならさっさとするんだよ」
 諦めて抵抗を止めた母が吐き捨てる。
「……はい」
 ミカエラの牙はあっさりと母の腕の皮膚を破って突き立つ。支配の催眠もあり、ガブリエラは静かに目を閉じる。
「次はトオルな。かめるか?」
「う、うん」
 トオルが小さな牙を立てると怯えたように後ずさる。その小さな背を宥めて大きくなったと思う。
 ケンが一歩進み出て、眠る母の前に跪いた。
「…………あばよ、母さん。いつか、あんたが赦してくれるのを待ってるよ」
 口布をずらして、母の手首を噛んだ兄の目に、一筋涙がこぼれたことを覚えている。

 退治人たちの目を盗んで、地下の隠し通路を通り抜けて隣の墓地に出る。肉が腐ったようなにおいが充満する地下を抜けて、三人で這い出て息を吐く。
「ミカ、歩けるか。大丈夫か?」
「あ、ああ……大丈夫だ」
「ミカにい、おれのことわかる?」
「……トール、大きくなったな」
 トオルがにっこりと笑う。思わず抱き上げれば、あの頃よりもずっと重くなっていた。足の感触があってミカエラは心底ほっとした。
「居留地は討伐隊でいっぱいだ。横浜宿まで今夜のうちに行くからな。気張れよ」
「分かった」
 頷いて、ミカエラはふと屋敷を振り仰いだ。
「あ……」
 屋根の上に母がいる。純白のドレスで着飾り、美貌を露わにした女吸血鬼が、一瞬こちらに目を向けた気がした。
──吸血鬼ガブリエラ! 夜の誘惑、忌まわしき黒後家よ、今日が貴様の最後の日だ!
 よく通る人間の声が遠くに聞こえる。
 母の高らかな嗤い声もまた、聞こえる。
「ははは! 見よ、そして畏れよ! 真祖をさえ越え、それ故に怖れられたこの吸血鬼ガブリエラの姿を!」
 身に纏う花嫁装束さえも忌まわしき、数多の退治人相手に怯むことなく立ち塞がる畏るべき古き血の女吸血鬼。
「我が血を裏切りしものどもを私は赦しはしない!」
 それが、兄弟が母と会った最後の姿となった。

***

「あーーっ、見つけた!」
 聞き慣れた声にケンが振り返ると、布の下で眉をつり上げたトオルとおろおろとしているあっちゃん。腕をくんであからさまに呆れた顔のミカエラが手にエコバックを提げてケンを指さしていた。
「あれ?」
 珍しくトオルが大変立腹した顔でケンに詰め寄る。
「今日うちでカレー食いたいから材料買っておけって、ケン兄が言ったんじゃん! なんでY談おじさんと飲もうとしてるわけ!?」
「あ、あー」
 そういえば昨日の夜にそんなことを言った記憶がある。ロナルド吸血鬼退治人事務所での衝撃ですっぽ抜けていた。
 状況を把握したらしいY談おじさんはにやにやと愉しげな顔でケンを見つめた。
「おやおやおやぁ? ケンくん、まさか私を誘っておきながら先約?」
「いやその」
「なら出すものがあるよねえ?」
「ちょっと待てって」
 言外に誠意のY談を求められている。この前に退治人に提供されて以来愉しくてちょっと癖になってしまったらしいとは、当人の談だ。
 答えあぐねているうちに、呆れ顔でケンを睥睨したミカエラが、ふくれっ面のトオルとあっちゃんを誘う。
「トオル、あっちゃん。約束すっぽかし愚兄など放っておいて、今日は我が屋敷でカレーにしないか? 私が作ろう。あっちゃんは何が良い?」
「OK! ミカ兄のほらあれ、材料全部みじん切りとすり下ろしで作るやつ好き! ミカ兄の調合したスパイスが効いた、ちょっと辛めのやつ!」
「わた し は あま くち!」
「まかされた。ナンもつけよう。最近圧力鍋を買ったんだ」
 弟妹に頼られて素直に微笑んだミカエラがトオルの背を押して踵を返す。あっちゃんがちらちらとこちらをのぞき見てくれているが、弟二人はさっさと歩を進める。
「あっ、ちょっ!」
 そういえば昨日から大変にカレーの口だったことを思い出し、ケンは大いに慌てる。
「ケンく~ん」
「ああもう! あー、えーと、上着脱がしたときにだんだん見えてくるうなじから肩甲骨までのライン……!」
「ごちそうさま」
 Y談おじさんがそれはもうきらきらと輝く笑顔で惜しみない拍手を送る。顔から火を吹きそうになりながらも弟たちを追う。
「トオル、ミカエラ、あっちゃん! 待てって、悪かった悪かった!」
「兄貴なんて知らねえ」
「詫びに良い血買ってくるからさぁ。トオルはO型だったよな~? な?」
「ほう、愚兄がノンブレンド隔日採血方式のシャトー・ド・ティーンズブラッド買ってくれるらしいぞ」
「まーじでーやったー。AB型も買ってくれるんじゃない? 約束忘れ馬鹿兄貴は」
「ノンブレンドだとしてもお兄ちゃん流石に山崎くらいしか無理」
「ダブルブレンドのアーサソールとなんか美味そうなワイン」
 トオルの紅い目がそれ以上は譲歩しないと布の下から睨みあげる。それは逆に、そうすれば許すということだ。
「わかった。分かったよ、ヌンキで買ってくるって」
 いえーいとようやく機嫌を戻したトオルが諸手を挙げ、それに答えてミカエラとあっちゃんがトオルと手を合わせる。
「ミカ兄のカレーと美味い血と酒~」
ミカエラとトオルがカレーの具材をあっちゃんに話しかけ、あっちゃんは好きな具材を答えている。
 追いかけようとした拍子に、ずる、と担いでいた肖像画が落ちかけて慌ててて持ち直す。風呂敷の隙間から、胸を張る母が覗いた。
 煌々とテナントの灯が道を照らし、二人の吸血鬼の影とひとつの集合霊アマルガムの影をいくつも地面に刻んでいる。
 それをみるともなしに眺めて、ケンはふと足を止めた。すぐに三人が足を止めて振り返って首を傾げる。
「遅くない? ケン兄」
「ケンおにい ちゃ ん」
「どうした愚兄」
 それがどれだけケンを喜ばせるかなど、彼らは分かってなどいないだろう。
 ケンは布をきっちりと縛り直して担ぎ直し、口角を上げた。懐古の情にひたるにはまだ六十年は早い。暇になってから懐かしんでも遅くはない。
 我らは永久を生きる吸血鬼。懐古よりも享楽を愉しみ、そして何より己が血族への深い愛を持つ生き物だ。 
「いいや、なんでもねえよ」
 畏るべき高等吸血鬼バンパイアロードは足取りは軽く弟妹けつぞくの元へ向かう。
 母はつゆ知らぬこの街の夜を、ケンは心から愉しんでいる。
 ああ、潔らなる母よ。
 我らを赦してくれずとも!