中
先だってロシアとの戦争が終わり、年号がまた変わろうとしている頃にもなれば、ケンとて周りの動きも目に入ってくる年頃になっていた。
吸血鬼とて世界情勢と無関係ではいられない。
日本とイギリスの同盟はいままで日本では手つかずだった吸血鬼対策への条項も盛り込まれていた。
横浜居留地に残る吸血鬼がだんだんと減っている。増えていく瓦斯燈。明るくなる夜。減った吸血鬼の中にはこの世からさえ消えたものもいるだろう。
──日本に渡ってきた吸血鬼退治人に目をつけられれば、古き血であれただではすまない。
一度だけ訪ねてきたあの恐ろしい吸血鬼の忠告が決して的外れではない。東京にある吸血鬼の社交場や人間の屯するカフェーにケンは毎夜のように足を運び、それを理解していった。
母はそんなケンをだんだんと疎むようになっていたが、ケンにはむしろ好都合だった。
目を見てしまえば母には逆らえない。たとえケンであってもだ。
二階の窓から飛び出そうとするケンを慌てて呼び止める声がした。
「兄さん!」
「うわ、ミカエラ」
あの幼いミカエラはぐんと背が伸びた。母が嬉々として誂えたドレスシャツを窮屈そうに着込んでいる。
兄さん兄さんと懐いていた頃の面影も遠い思い出となり、今は愚兄愚兄と口うるさくケンをしかりつける。母さえ放任するケンを必死につなぎ止めようとするのがケンには煩わしくも哀れを誘う。自分のことなど放っておけばよいものを。
「愚兄め! また夜会を抜け出すつもりか!?」
「おー、見つかっちまった」
「今夜は兄さんも絶対に会場にいろと母さんが言っていただろう。もう半年も母さんに会ってもない……」
「うるせえって言っといて」
笑って目配せをすれば、ミカエラのこめかみがひくつく。思わず耳を塞げば、案の定ボーイソプラノの叱責が響く。
「この家の次期当主は長子のあなたじゃないか! なのに毎夜毎夜出歩いて……」
「この家? どの家だよミカエラ。ここにゃ、継ぐもんなんてねえよ。血族からさえ断絶されてるのに」
ミカエラがぐっと息を詰める。ミカエラももうそれが分からぬ年ではない。
「でも……、今日は……」
「お袋のお気に入りはお前」
「違う、母さんは兄さんのことも……それに今日は居てほしい……ねえ」
それ以上を聞きたくなくて二階の窓から飛び出す。やはり安定しない結界を軽く使えば、枝も使わずに飛び降りられる。見上げれば、二階の窓から身を乗り出したミカエラが訴えかけるようにケンを見つめていた。
──あいつも分からねえやつだよな……。
「あいつは本当の自由がほしいと何で思わないんだ?」
ケンは闇に溶ける羽織を翻して正門をくぐり抜け、街に飛び出していく。
窓の中のミカエラは誰かに呼ばれて身を翻す。
その顔は泣き出しそうに歪んでいたことを、ケンは知るよしもない。
「この……愚兄が……」
「ミカエラ、ケーンはどうした?」
美しい母はミカエラの横にケンがいなければすぐに機嫌を悪くするのが常だった。ミカエラが黙って首を振ると、ため息を吐き、持っていたグラスを床に叩きつける。
その後ですぐに首を振って再びため息を吐いた。
「あの子ときたら、馬鹿者が!……ミカエラ、ああ、毛がはねてるよ」
疲れた顔でガブリエラが怯えたミカエラの髪を押さえつける。
「全く顔さえ見せないとはね」
「に、兄さんにも考えが……」
「そうは思えないけどね。まあいい多少のやんちゃは許そう。じきに当主としての自覚も出るだろう」
ミカエラはほっと胸をなで下ろす。
母に吸血支配されているメイドがそそくさとグラスを片付けて去って行く。さらに幾人かが母のストールを取り、白い肌を露わにした。
「今日は祝いだ。そうだろう、ミカエラ」
「ええ」
ミカエラと並んで、誰がこの女を母と思うだろう。
それでもこの女は母だった。少しもふくれて見えない腹を撫でてミカエラに微笑む。
「この子の名前を決めたよ、ミカエラ」
「もうですか」
まだ性別も分からぬままにつけると自分の二の舞になるのではないだろうか。ミカエラの懸念をよそに、ミカエラは目を細めた。
「今度はもっときっと強い血をもって生まれ、お父様認めてくださる吸血鬼になるような名前をつける」
ミカエラが狼狽えている間に、ガブリエラは大広間につながるドアを開く。ドアの隙間から灯が差し込む。
薄暗く退廃的なシャンデリアの光に照らされた母の表情はよく見えない。それでも声はうっとりと祈るようだった。
「雷の戦神とね」
ミカエラには何を言うこともできなかった。
──トール。弟か妹かも分からぬ我が血族の末の子よ。
胸中でまだ見も知らぬ赤子に問いかける。
──お前が戦神がごとく生まれてくれば、この人は目を覚ますのだろうか。
それはあまりに甘い夢に思えてならない。
広間に足を踏み入れればむっとする甘いような煙が充満する薄暗い広間の中で、吸血鬼や吸血鬼に選ばれた人間、そして支配されたものたちがガブリエラに甘い目を向ける。
蓄音機が途切れ途切れにシャンソンを歌っている。男たちが一斉にガブリエラを見た。
「やあ、やっと姫君のお越しだ」
「お待ちしておりましたよ、ガビ。ご懐妊おめでとう!」
「夜の女王に乾杯!」
ワインか血かも分からぬものを掲げた男たちが広間に現れたガブリエラを取り囲んで快哉をあげた。この広間の主役はガブリエラだ。男たちの視線は釘付けになっている。
彼らはミカエラのことなど見えていないように振る舞う。まるで幽霊になったようだった。
それも当然だと分かっている。ミカエラは母に添えられた花に過ぎない。母の提供する催眠による快楽があればいいのだから。
「……兄さん……」
カーテンの影に隠れるようにして、ミカエラはつまんだシャンパンを揺らす。本当は飲んではいけない歳だが、ミカエラはもうその味を知っていた。いつも通りにグラスを煽る。
母は笑っている。
高らかに声を上げて、胸を張って笑っている。鈴を転がすような声に、男たちは優しく手を差し伸べる。
母はその手に口づけを返した。
艶やかな紅い唇から覗く、小さな皓牙が人間も吸血鬼も問わずに肌を食い破り、血を媒介とした催眠が男たちを夢へ誘う。
己の血族の真祖さえ超えた母の催眠は人も吸血鬼も等しく夢へ誘う強力なものだった。
「何が祝いだ」
ミカエラは小さく吐き捨てる。聞きとがめるものは居ない。
「誰もトールを祝ってなどいないじゃないか……」
催眠による快楽の虜となった男たちと、それに傅かれて悦ぶ美しい女。
あれは畏怖を得る行為ではないと幾度となく連れ出されているミカエラは知っていた。
酩酊した視界でミカエラはぼんやりと享楽と退廃が混ぜ込まれた人と吸血鬼との上滑りする笑い声に耳を傾けた。
あれは、得られぬ愛の代わりを求める行為だ。求めるものを得られぬものの遊びだ。
ミカエラには少し分かってしまう。だからこそミカエラは兄のように母を置いてはいけなかった。
「あなたの知る強い母を私は知らない……。知ることなく生まれてくるのだろうか」
ミカエラと母は同じ顔をしている。
生まれてくる子の顔は知らない。ミカエラはふと、母と似ていなければいいと思った。
**
「ケーン」
「げ……」
棺桶の外から聞こえる聞き覚えのある声に、ケンは思わず呻いた。何週間かぶりに家に寄りついたかと思えばこれだ。
「早く起きなさい。いつまで寝ているの。もう日は暮れたというのに」
こんこんと杖か何かで棺桶の突かれて耳を塞ぐ。絶対に開けてなるものかと蓋の鍵をかけた上で、母に文句を言う。母とはいえ、成年の男の棺桶を無遠慮にたたくとはという不満もある。
「あー、母さん。今日は銀座で用事がな……」
「生まれたばかりの弟の顔も見ずにか? 何という兄だろうね」
金属を打ち鳴らすようなキンとした声に、ケンは面食らった。
──生まれたばかりの弟?
思わず蓋を開けて身を起こす。
久しぶりに見た母の顔は疲れて見えた。
その後ろで所在なさげに佇んでいるミカエラが小さな赤ん坊を抱いていた。思わず母を無視して駆け寄れば、紅い目の赤ん坊と目が合った。
相手が人であれ吸血鬼であれ、吸血鬼が胎を経て子を為すことは少ない。ケンに同母弟がいるのもレアケースなのだと知ったときには驚いたものだ。血を分けた血族が多いものでも、産みの子は少ない。かの有名な竜の一族やドゥーブツ家にも実子は少ない。吸血鬼というのはそういうものだ。
ミカエラの腕に抱かれた小さな赤子はぐずるでも泣くでもなくお包みに包まれている。ケンが手を伸ばせば、丸い目がケンを見つめ、小さな手のひらが指を掴んだ。
「……名前は」
「……トール。半吸血鬼だったが転化した」
ミカエラが言葉少なに答える。思わず顔を見れば、妙にやつれてみえた。
「ミカ?」
ミカエラの紅い目はいつのまにかケンをまっすぐに見なくなっていた。こんなに暗い目をしていただろうか。窮屈そうなドレスシャツにこれほど縛られていただろうか。頬が痩けているのは気のせいか?
自分が家を離れているうちに、弟が損なわれている。胃の腑が氷柱を差し込まれたように冷えた。
「……なんで」
つい口に出た言葉に、ミカエラではなくガブリエラがため息を吐く。
「はあ……」
口を開けば母に会えと口うるさいばかりの弟をついつい避けてしまっていたことを悔やむ。
「母さん」
ケンは初めて母に対して強い強い敵意を持った。とうに母を超した背でもってガブリエラを睨み付ける。
「相手は……、まさかまた人間を攫ってきたんじゃねえだろうな」
ガブリエラは肩を竦めて酷薄に笑った。
「まさか。自分から来たのさ。良い強い血の若い将校だったよ。もう死んでるかもしれないけど」
ケンは堂々と舌打ちをした。
母の好みは知っている。母のお眼鏡にかなう人間がこんな居留地の端の吸血鬼の屋敷に来るはずがない。ガブリエラの催眠を以て呼び寄せたのだろう。
「状況分かってンのか。英国との同盟でこの国でも反吸血鬼の圧力かかってんだぞ」
「減らず口ばかり上手になる。人間どもの争いなんて我らに関係がないだろう」
「はぁ!?」
冗談だろうと絶句しているのをどうとらえたのか、ガブリエラが追い払うように手を振る。
「そんなことより、早く着替えておいで。そんな野暮ったいもの着てるんじゃない。お前用に誂えたスーツがあるから」
「そんなことより……? おい!」
「ケーン。二度も言わせるな。……そうだな、話は肖像画を描き終わったら聞いてやろう」
母の目がケンを見据える。見慣れてしまった嫌悪感しかない紅い目がケンの行動を縛る。
子は親に逆らえない──母によって半吸血鬼から転化したケンもミカエラも、そしてこの赤ん坊も、母に血を与えられていないが故に。
「クソ……」
母に逆らうにはまだケンは若く、彼女にかなうほどの力もなかった。
──血を与えていないのか。
昔に聞いた男の驚きの声と、仕入れた知識が合わさって苛立ちもいっそう増す。
苛立ちもそのままに礼服に袖を通す。良い生地だ。仕立ても良く、この礼服一式を売れば1年暮らせるものもいるだろう。和装の寝間着から窮屈な洋装に着替えていく。
「……兄さん」
小さな声にハッと振り返ればトールを抱いたミカエラがドアの前に立っていた。
その目が寄る辺のない子どものように揺れている。胸が詰まるような後ろめたさを覚えずには居られなかった。上着に腕を通して駆け寄る。
「ミカエラ。その子、抱いて良いか」
「えっ、あっ、うん」
おずおずと差し出されたまだ首も据わらぬ二人目の弟を腕に抱く。この年頃のミカエラよりも少し大きいかもしれない。ふくふくとした頬が丸い。紅い目がきょとんと自分を見上げている。ゆらゆらと揺らせばうつらうつらと微睡む。
「……どんな子だ?」
「トールは良い子だ。あまりぐずらなくて……昼泣きもしないし……よく血を飲んでる」
「お前は好き嫌い激しかったもんなあ。よく泣いたし」
「今はそうでもないさ」
ミカエラを見れば、ひどく皮肉げに口元をゆがめていた。一瞬、ぞっとするような寂寥が彼の顔を知らぬもののように見せた。
「ミカエラ……」
「なあ兄さん。一族は母さんをもう一度受け入れると思うか」
「それは……」
ミカエラはケンの目を見ず、トオルの小さな指先をつまみながら話す。
「女吸血鬼が子を三人産むのは珍しいんだそうだ。その子が真祖の持たぬ能力を得るのも。三人も産めば一族に戻れると母さんは言ってる」
それは、ほとんど絶望的だとケンは言葉にできなかった。
東欧──特に母の一族の住まう場所は帝国主義の列強のしわ寄せが押し寄せた挙げ句ヨーロッパの火薬庫と囁かれるほどの場所だ。弱小の一族などはとうに見捨てて逃げている。
あの場所で堂々と暮らせるのは余程強力な古き血の一族か、上手く立ち回れる一族だけだ。
自分たちの母の一族がどちらでもなかったことは、バルカン半島から流れてきた吸血鬼から聞いていた。
「無理なんだろうな」
ミカエラはさして驚いた様子もなく、力なく呟いた。
「知ってたのか」
「一族の母さん贔屓の人からの送金が減ったから、何かあったんだろうとは思ってた。パトロンも減っている」
ケンは頷いた。屋敷に籠もりきりのミカエラもきちんと耳を外に向けているのがうれしかった。整髪料でなでつけた頭を撫でてやれば耳先を紅くさせて振り払う。
「もう子どもじゃない!」
「ああ。子どもじゃあないから話すぜ。神戸に毒蜘蛛の一族が居ただろう。あれが軒並み英国の吸血鬼討伐隊に殺された」
ミカエラが目を見開く。
「氷笑卿やら屍商人やら蒼い血やらの古い血にいらんちょっかいかけてたから、同胞に庇われもしなかったらしい」
なんとか命だけはと奔走していたものもいたらしいが、結局はみせしめのように屋敷ごと焼き殺された。
「……神戸の毒蜘蛛……あの人が」
「あれから舶来の吸血鬼は軒並み融和に傾いてきた。当局も反発する家には目をつけてる。……うちもだ」
ミカエラがぎくりと肩を揺らす。
「そんな、どうしたら」
「まず母さんに俺たちに血を与えるように説得する。聞いてくれるかは分からねえが……」
「兄さんのいうことならきっと聞いてくれるだろう」
ミカエラは当然のように言うが、ケンはそれに頷くことはできなかった。
「ケン、ミカエラ! 何をしてるの!」
待ちくたびれて苛立った母の声にミカエラが慌てだす。ケンになで回されて崩れた髪を整えて部屋を飛び出す。
「おお怖い。トール、お前動じねえなあ……」
「兄さん!」
「おう、今行く」
ミカエラなど草木のそよぐ音に怯えて泣いていたというのに。なんとも肝の据わった赤子だ、とケンはトールを揺り上げながら感心した。
「知らなくてごめんな」
小さな生まれたばかりの弟が首を傾げる。仕草がミカエラに似ていて、ケンの目頭が熱くなる。
「……ごめんな」
元号が変わり、吸血鬼の耳にさえ軍靴の聞こえる時代。二人目の弟を抱いて、ケンは奥歯を食いしばった。
二人を守るためならば、自分は母にさえ牙を立てるだろう。
描かれた肖像画は、丁寧に包まれて欧州の火薬庫へと運ばれていった。
**
「っだからァ! 支配を解けって言ってンだよ、話を聞かねえなァ!」
兄の怒鳴り声が屋敷に響く。それに応対するのは激高する母だ。
「その必要がどこにある! 私がお前たちに不便を強いてもないだろう!」
キン、と母の目が妖しい光を帯び、兄が呻きながら頭を押さえて蹲る。
「お前は強い子なのだから、私に従っていればいい」
「それが……嫌なんだって言ってンだろ!」
脳に直接作用する血の催眠をこらえながらケンは首を振る。
「頼むよ、母さん」
「くどい!」
ガブリエラは牙をむき出してケンの訴えをつっぱねる。
「私に従え。今日の夜会には出るんだよ」
マントを翻して広間を出て行き、ミカエラはようやく兄に駆け寄った。
「兄さん」
「おう。今日もだめだったわ」
はーとため息を吐き、ケンは苦笑する。
肖像画を描いた日からケンはそれまでのように帝都に遊びに出かけなくなった。
それを喜んだのもつかの間で、母と兄の言い争いの頻度が上がった。どちらが優れた催眠術使いなのか、喰らい合う狼のような力の応酬に初めて見たミカエラは心底震え上がったものだ。
今では毎日のように催眠術の掛け合いをしている。その余波で傷を作っていることもある。
「……どうしてそう母さんに喧嘩を売るんだ」
「ん……」
ケンは困ったように笑った。
「お前に言ったらまた愚兄って言われそう」
「……いつでも言ってやる。この愚兄。今日は客が来るからって機嫌が良かったのに」
「はは」
少し薄くなった気がする髪を掻いてケンは立ち上がる。
「客が来るんだって?」
「そうらしい」
ミカエラの返答にケンが眉を顰める。
「たぶん、本国の吸血鬼だな」
「うん」
バルコニーから空を見れば、重たい雲が黒々と月を隠していた。強い風に流れる雲が流水のようで不吉な胸騒ぎを齎した。
客人はぼろぼろの装束で、ガブリエラの屋敷を叩いた。一枚の手紙を渡すとそのまま闇に紛れるように消える。齎した報せは、母の何か柔らかな部分を灰に帰してしまったのだと思う。
「嘘だ、嘘だ、お真祖様ァ──!!」
初めて見る母の慟哭にこわばった兄の背に縋り、剣幕に泣き出す弟をきつく抱いて聞いたあの悲鳴が耳にこびりついて離れない。
母は気を失うように頽れて、目覚めたときには今までの母と何かが違っていた。
**
「母さん、もういい加減に……」
「黙れ!」
ケンの体が軽々と吹っ飛び、広間の柱がきしむほどに叩きつけられる。結界で大きな怪我はないようだが、その衝撃でケンは動けなかった。
「兄さん!」
「ミカエラ!」
駆け寄ろうとしたミカエラを激高した母が制止する。支配されるまでもなく、ミカエラは動けない。
「ミカエラは関係ねえだろうが!」
必死に上体を起こして吠えるケンの声にも、体がすくむ。兄が本気で激昂しているところなど見たことがなかった。
「黙れ!」
あの風の強い夜に齎された報せは、この屋敷を大きく変えてしまった。
夜ごとに開かれる享楽の宴は退廃趣味を極め、快楽と引き替えに得られる愛に、何かを忘れるように没頭していった。人を誘い込んで催眠にかけ、そのまま帰さぬことさえ多くなった。
「黙れ黙れ黙れぇッ!」
それまではケンの挑戦をどこか愉しんでさえいた母は、今まで多用しなかった血による支配を使い続け、ケンはそれがいっそう気に食わない様子で、母子の諍いは激しくなるばかりだった。
ミカエラは間に割り込むこともできずにだいたいはトールを別室に避難させていた。
今日は妙に長引いていると、おそるおそる顔をだしたらところに兄が吹き飛ぶのを目の当たりにした。
ヒールを打ち鳴らして母がケンを踏みつける。
「なんで、なんで母さんの言うことが聞けないの。どうして私の言うことを分かってくれないの。どうして、お前まであいつらのように私を見る!」
激昂してケンを蹴り飛ばし、そのまま彼女の華奢な指がケンのあごを掴みあげる。
「良い子におなり……ケーン。我が子よ」
紅く燃える瞳がケンの目を覗き込む。母の血の支配が今までのケンのすべてを塗り替えようとしている。
ミカエラはひ、と喉を引きつらせた。
「ぐ……っ」
ケンが息を呑み、目を見開くのがミカエラの居る場所から見えた。反催眠で拮抗しているが、ガブリエラのそれは強力だった。
真祖さえも超えた催眠。その上、自分たちは転化の際に親に血を与えられていない。
ケンに勝ち目はない。
母に兄が殺されてしまう──。そう思ったのは初めてだった。
ケンの瞳から光が消えていく。ぼろ、と彼の頬に悔し涙が伝う。幼い頃一度だけ見た兄の涙を思い出す。あのときの震える兄の背がミカエラの脳裏に蘇った。
あのときの兄の小さな背!
それはミカエラのすくんだ体を動かし、母の視界を遮るように身を滑り込ませた。
「ミ、カ……」
催眠を断ち切られて背後でケンがえずく。
「かっ、母さん……。ね、こんな愚兄のことなんて良いだろう。や、夜会、コンツェルンの大旦那が来るよ……。もう準備しなきゃ……私も手伝うから……、ね、母さん」
ミカエラは必死に言葉を紡ぐ。ガブリエラは、夢を見ているような目に戻ってふらりと立ち上がった。
「……そう、だったね」
「さあ、いこう母さん。愚兄など捨て置いてしまえ」
夢遊病患者のようなガブリエラの背を押して広間から出す。
床を殴りつける兄の押し殺した呻き声がミカエラの背をもひどく打ち据えた。
ああ、もうだめだ。
この瞬間にケンもミカエラもこの断絶を理解した。
火がついたように赤子が泣く。トールがこれほどに泣くの珍しかった。
こんなに泣いていても、煌々と明るい屋敷のの享楽の喧噪は絶えることがない。コンツェルンの大旦那とやらはずいぶんと享楽に耽るのが上手らしい。
明かりの漏れる屋敷のざわめきと幕を隔てたように前庭は静まりかえり、月灯りの一つもない。
かつて弟の手を引いて幾度となく遊びに出かけた門を、もう二度と潜らぬ覚悟で開く。
「ミカエラ。行くぞ」
「……兄さん」
ミカエラはいつもの窮屈なドレスシャツで門の前に足を竦ませていた。
その表情に嫌な予感がして、ケンは焦れたように手招く。
「ミカ。お前も」
「……トールを頼む」
腕の中の赤子を、いとおしげに撫でてミカエラはそう呟いた。
「馬鹿、お前も行くんだよ。見ただろう、このままじゃ……」
トールの柔らかな頬にミカエラは名残を惜しむように頬ずりした。トールがようやく泣き止んで、小さな手でミカエラの頬に触れる。
「私たちが三人とも居なくなって、あの人が追ってこないと思うのか」
「三人くらいなんとでもなる。大阪でも、なんなら満州でも渡って……」
ケンの提案にも、ミカエラは首を振った。毅然たる意思。頑固な弟の面影に、ケンは息を詰めた。
「見捨てられない。私はあなたほど強くない……。あの人はもう止められなくなってしまう」
「ミカエラ……」
「だから、トールを頼む。兄さん」
「馬鹿野郎……」
それが正しいとケンにも分かってしまった。母が憎いのではない、嫌いなのではない──ただどうしてもわかり合えぬと知ってしまっただけだ。
「ミカエラ」
トールごと弟二人を抱きしめる。
「…………必ず戻る。死ぬな、何かあれば逃げろ」
低い声で囁けば、ミカエラは小さく頷いた。宝物を渡すようにトールをケンに渡して、ミカエラは一筋の涙を零した。
今でも思い出す。
橙の灯の漏れる狂乱の屋敷を背に、ぽつんと佇む小さなミカエラの寄る辺ない表情を。
己のふがいなさに思わず鼻を啜れば、腕の中の弟が小さなくしゃみをした。
⇒後