ハッチポッチパッチとサファイアの眸の男 - 2/4

前章 Miniatura del Elisio楽園の箱庭 

 見上げれば、家主の帰宅を待ちわびるように、窓に灯りがついていた。
「……まだいる」
 一松はため息をついて灯りの点いている窓を見る。
一松はいい知れない感情が胸を塞ぐ感覚に、良いとはいえない人相を、さらに凶悪にゆがめた。
 トタンで出来た住宅の建て詰まった路地に入り、左に曲がってすぐの突き当たりを右に曲がれば一松の城があった。城といえど、築云十年の上に壁はひび割れて薄く、その上曰く付きの訳あり住宅の二階の一番西の角部屋の、小さな四畳半一間に申し訳程度のキッチン付きという小さな部屋だ。 
 一松にとっては砦であり、完全なパーソナルスペースを確保できる牙城であった。
 右手に提げたビニールの袋の重みを感じながら、御仕着せの作業着とセットの帽子の短いつば越しにそっと自分の家の窓をもう一度確認する。電気が一つ付けられていて、窓はオレンジ色の電灯に照らされている。
 確かにそこに人が居るのだと知らしめるようで、一松はまたため息をついた。階段をなるべく音を立てないようにあがり、ドアノブを回す。
 立て付けの悪い鉄と木の軋んだ音がして、ドアが開く。暖かな明かりと、籠もっていない空気。
 自分以外の匂いのする部屋。そして自分以外がいる部屋。どれも慣れるものではない。
「まだ治んねえの」
 一松はため息を付きながら三和土たたきで突っかけを脱いで部屋にあがった。開口一番の辛辣な言葉に答えたのは、畳の上に敷いた布団の上で上半身を起こし、壁に背を凭れている、目の上に包帯を巻いた一人の男だった。
「ああ、おかえり! だいぶ良くなったと言われたぞ!」
 目を覆う包帯など意に介さず、青年は一松の声のする方へ快活な笑顔を向けた。年の頃は一松と変わらぬ二十代の半ばあたりの、まだ若い青年だった。 
 毛並みの整った、気取った猫のような雰囲気のある男だった。
 殺風景な四畳半一間の、ぼろアパートの中であってもその気品は変わらない。折れたことのない木の幹のような、すっと通った背筋に、張られた胸、ふとした物腰に、騙り口調は育ちの違いを一松に突きつけた。
 ごみだまりのようなこの界隈に相応しからぬ男は、相応しからぬまま、開口一番に一松に挨拶を寄越した。
「おかえりってば!」
「ああ、はいはい。ただいま」
 返事が無いことを咎めるように二度も挨拶を向けられ、一松はぞんざいに返事をする。
「悪魔ディアボロの血液に苛まれた対なるものは時を忘れ漆黒の闇から逃れられないのでな。まだアンタのSmall castleに世話になるぜ」
 前髪を片手で梳いて、吐き出される日本語とも思われぬ奇妙奇天烈な文章に、一松は無言を貫いた。
 服を着替える。一部、文句を付けたい言葉が出てきた気がするが、それに反応するのも億劫だった。とうに日付は回っている。
「あ、おい! 無視することないだろう」
 目の見えぬ彼に一松の蔑視は届かなかった。それが良いことなのか、悪いことなのか一松には解らない。おおよそ、彼にとってはよかったのかもしれない。
「日本人に解る日本語を喋ってもらえますか」
「む、俺の日本語はパーフェクトなはずだ! マドリードに渡るまでは日本人だったんだから。今の戸籍はイタリアにあるが、生まれは歴とした日本人だぞ」
 口先を尖らせ、口元だけで豊かに己の不満を表現する彼に、一松は呆れ果てた。
 どうやらこの男は、イタリア人だったらしい。そういえば、彼のジェスチャーの多さはマスメディアの作り出したラテンのイメージに確かに近い。言葉を話すときに動く手は、お国柄だったのかもしれないと、一松はようやく思い至った。
 元日本人、現イタリア人のマフィアが自分の部屋にいるとは、いったいなんの運命の気まぐれなのだろう。自分の半生も半分ほどアンダーグラウンドに沈んでいるが、まだ堅気の範疇であったはずだ。
「……そんなことはいいから、ご飯は食べたの」
 眠気と疲れに、深みに沈みかけた思考を放棄して別の話を振る。
「いや、一緒に食べようと思っていた。食べよう」
 つい数秒前まで不機嫌な口をしていた彼が、今度は一松に満面の笑顔を向けてくる。ころころと感情と表情が変わる彼は、一松にはとんでもなく忙しい人間に思えてならなかったが、それを間近で見ることは不思議と厭ではなかった。なにしろ、一松が接してきた人間と言えば、殆どが死んだような目で死んだように動き、全てのことに無関心を貫く、機械と同じ部品でしかない人間ばかりだった。一日中同じラインで顔をつきあわせていても、表情が動く人間などほぼいない。 
 それに比べて、彼の生命いのちの生き生きしていることといえば、一松が幼く幸せだった頃に出会った人々のようだった。
 だからこそ、一松は彼を無碍に扱えないのかもしれなかった。

 粗大ゴミになっていた小さなちゃぶ台に買ってきた二人分のカップラーメンを並べ、お湯を入れて三分待ち呆ける。
 その間に目の見えない彼に箸を手渡す。その動作も、この数日で慣れてしまった。
 三分後、二つ蓋を開けて彼に渡す。醤油の香ばしい香りと出汁の香りが混じり合った唾液腺を刺激するラーメンの匂いに鼻をひくつかせた彼は嬉しそうに受け取った。
「Grazie!」
「別に」
「俺がちゃんと立てるようになったら、飯を作って待っててやるからな。本場のイタリアンをごちそうしてやろう」
「立って歩けるようになったらさっさと出て行って」
「Ah 手厳しい」
 彼はジョークを聞いた外人のリアクションで笑い、きれいに箸を使ってカップラーメンを口にすすり込んだ。熱かったのかびくりと彼の肩が跳ねる。それでも、楽しげにはふはふと熱さを緩ませながら湯気の立つラーメンを一松の目の前で旨そうに食べている。
 それだけで、目の前の何の変哲もない、安売りのカップラーメンがフルコースのメイン料理のように思えるのだから、一松にとっては驚くべき錯覚だった。
 食べている間、この男は口を開かない。それだけでも彼の育ちが解るようで、一松は奇妙な愉快を感じた。
 日を重ねる度に、彼は一松に次々と新しい面を見せる。手負いの虎のような目で一松を睨みつけていた男と、無言でカップラーメンを啜り込んで頬を弛ませている男。同じ人物であるはずなのに、まるで透き通った水晶の玉のように写り込む姿が変わっていく。そのどれもが彼の一面であり、彼の豊かな人間性を映しているかのようだった。
 彼を拾った日を一松はまだはっきりと覚えている。

 あの夜、日付はとっくに変更された深夜の帰り道だった。一松は数日ぶりの眠りを求め、よたよたとした足取りで家を目指していた。
 夏のはじめの風が強く、帽子が飛ばないように抑えて歩いていた。
 勤め先の工場から少し離れた古い歓楽街で、顔見知りの男が一松に声をかけ、一松も彼に少し声をかけて立ち止まった。ぼろ雑巾が風に吹かれて歩いてるみたいだね、と歓楽街で顔見知りの男に笑われる。一松は言い得て妙だとせせら笑った。
 班員に飛ばす指示と激励の罵倒以外の会話をしたのは、三日ぶりのことだった。
 男と別れ、路上で眠る人間の横を通り過ぎて、人気も明かりもない路地を曲がる。町を闊歩し屯するチンピラにもこの路地は暗すぎて不人気だった。せめてもう少し歓楽街の明かりが入れば良いのだろうが、この路地には大通りの明かりは一つも通らない構造になっている。
 見上げても分厚く垂れ込める雲が懸かって月はなく、星も見えない、ただ質量さえ感じる暗闇がのしかかってくる路地裏で、一松が足を引っかけた柔らかなもの。
 それが彼だった。 
 足を妙なもの──この路地に限っては、一松は人間とは思いもしなかった──に引っかけて、躓きかけた一松は、その拍子に風に煽られて帽子が脱げた事に気が付いた。お仕着せの帽子は、無くすと給料から差し引かれて配給されるものだ。ただでさえ薄給の身の一松は、不運にため息を付きながら地面に手をついて帽子を探した。そうしなければ暗くて見えない。
 暗い地面に目を凝らしながら、帽子を探し、手のひらを這わせているときに、その手のひらを何者かに捕まれた。血の気が引くほどに驚き、悲鳴が出そうになったが、その口は何か堅いものをつっこまれて塞がれた。
 それが銃口であると咄嗟に気が付いたのは、仕事柄と言う他なく、鉄の味と火薬の味のする銃口に咄嗟に死を覚悟した。目を見開けば、黒光りする鋼と、引き金にかけられた整った爪を持つ人差し指が、暗闇の中でも微かに見えた。
 よくよく鼻を蠢かせれば、濃い血の匂いがした。工場に長く缶詰られていた所為で鼻が聞かなくなっていたことが、運の尽きだった。普段通り鼻が利いていれば、この血の匂いで道を変えられただろうに。
 口蓋を銃のフロントサイトが削って血の味がする。
ぶわっと噴き出した汗に一松は目前に迫った、死の懐かしい感覚を悟る。
──ああ、寂しい人生だったなあ……。
 堅い銃口にフェラチオしつつ、自分の半生を自嘲混じりに思い出した。
 せめて工場の裏で生まれた子猫の成長が見たかった、と関係のない現実逃避をして、引き金にかけられた節くれだった指の美しく整えられた爪先が、動くのを待ち受けた。
 風が雲を運び、月影がその瞬間路地に差し込んだのは、本当に一松にとって奇跡的な幸運と言うほかなかった。
 一松を睨みつけるのは、黒々と闇に沈む、ほの青い大きな瞳だった。凛々しい眉の下、月光に晒されて大きく見開かれた目が、まるでサファイアのようだと一松は状況も忘れて見惚れた。
 今包帯の下の彼の瞳は、自分とほとんど変わらぬ少し青みを帯びた黒瞳だ。
 しかし、そのときだけは鮮やかに青い、サファイアに見えた。
 白い月影に男の姿が浮き出すように照り映える。白磁のように手入れされた肌理きめをもつ彼の肌は、この界隈の人間ではあり得ない高貴な艶をもっている。血の匂いに紛れて香る香水は、夜の男がうらやむ、高価なブランドの匂いをたてていた。
 彼の目の端は、痛々しげに充血している。焦点が合っていないのか、一松と目は合わなかった。額から流れる血で黒髪はぬとりと濡れ、白い肌に赤を滴らせている。そのコントラストは、美術館の一幅の絵画のようだった。
──俺の顔に少し似てる。
 ぎらぎらと睨みつけてくる男の顔をじっくりと見て、一松は夢想する。
 まだ二十代の半ばに見える男の顔立ちは、とりたてて端正というわけではないが、どこか慕わしさを感じさせた。自分をもっと健康にして、目の下の隈を取り、痩けた頬を膨らませたらこんな顔かもしれない、と思う。そこまでしたら全くの別人の顔になるかもしれないが。
 仕立ての良さそうな上質な生地の本革のジャケットに、所々が黒く濡れた青いシャツ。シャツの隙間に見える、白い鎖骨にかかる金色ゴールドのネックレスが、荒い息にあわせて大きく上下していた。
「俺の眼に何をした」
 殺気だった低い声に、ぞくりと背筋が震え上がった。
 引き金に掛けられている、骨ばった人差し指に力が入る。
 その細部までまざまざと一松の目に映り込んで、死神の足音が聞こえる。
 小さい額を狙われている鹿のような気持ちになった。
 静かだった。あまりにも。自分の音が消え去り、ただ男の呼吸だけが聞こえている。
 張りつめた命の時間の中で、一松が感じた情動は、ほの暗く甘美なものだった。
 果たして悦びだったのか、諦念だったのか、恐怖を勘違いしたものだったのか、十数日たった今でも一松には判断がつかない。
 死を目前にして、そのとき一松は確かに、生まれて初めて命を感じた。
 一松の胸を塞ぐ奇妙な感情に突き動かされそうになった瞬間だった。彼は突然獣の呻き声を上げて銃を取り落とした。目を押さえ、くぐもった悲鳴が路地を反響する。
 月の白い光に目を灼かれた彼は、苦痛の呻き声をあげて蹲まる。銃は彼の整った手を離れ、地面に転がってがらんがらんと重たい鉄の音を立てる。
 一松は、呆気にとられてつかの間動くことができなかった。
 後日医者の見立てと彼の話を聞いた限りでは、かけられた目潰しによって網膜に変化が起き、光に異常に敏感になってしまったのだろうとの事だった。
 しかし、そんなことなど知らぬ一松は、いきなり苦しみ始めた男に、肝をつぶした。
「えっ!?」
「う、ぐっ」
 獣のような唸り声以上に苦しげに寄っている眉、痛む両目を隠す両手。激痛が走っているのだろう、体は堅く強ばり、見える肌には隆々とした筋肉の筋が浮いている。額には滝のように脂汗が流れていた。上質な革靴が激痛から逃れるように地面を無闇に掻いていた。
 一松は大いに慌てた。そもそも一松はパニックになりやすい精神をしている。いろいろな選択肢が頭の中になだれ込んで、どれを選べばいいか分からなくなって混乱してしまうのだ。ついでに、混乱にあわせて便意まで催す体質をしている。
 一松が選んだ選択肢は、その男を抱き上げることだった。
「くそがァ」
 いっそ泣きそうになりながら、重たい男の体を担ぎ上げる。
 パニックに陥った頭が下す命令に従い、疲れ切った身体に鞭打って、重たい成人男性を引きずるように持って行く。今まさにこの男の命数が尽きようとしているのだと、それだけの事実が一松を突き動かした。
 死なれたら目覚めが悪いからなのか、この男に何か特別な魅力を感じたのか、良いことをして真っ当な人間ぶりたかったのか、謝礼を期待したのか。
 つい数十秒前には殺されそうだったのだから、置いて逃げればよかったのだと我に帰ったのは、彼が自室の布団で寝息を立てたことを確認してからだった。
 それから、一松が隣家のセンセイに往診を頼んだ理由を、一松はまだ彼に伝えてはいない。
 己さえ分からぬことを、いったい誰が教えられよう。

 夕飯のカップラーメンを空にして、彼はふうと息を付いた。まだ暖かなラーメンの残り汁に作り置きの白米を混ぜ込んだ雑炊もどきまで胃の中に納めて、男は屈託なく笑った。
「日本のカップラーメンはDeliciousだな」
「そう。アンタの口には合わないかと思ってたよ」
「そんなことはない。美味しいさ。人と食べればより美味しい。アンタのお陰だ」
 彼の真摯な言葉に、一松は苦笑した。それほど感謝される謂われはない。彼の中の自分はまるで博愛主義の修道女シスターのようで気恥ずかしかった。空気の揺れで解ったのだろう、彼もはにかむように笑う。
「……アンタのくれた金で、もっといいもん買いたいんだけどね。仕事終わるとコンビニくらいしか開いてねえから」
 休みができれば、買い物にいきたいと思うが、そもそもスーパーが開いているような時間に仕事が終わった試しがなかった。
「いや、アンタには感謝してる」
 その声の、真摯な響きは、耳慣れない未知の感覚でもって一松に襲いかかった。感謝されることをした自覚はあるが、それを真っ正面から告げられる時の、この針のむしろにいるような、ぬるま湯に使っているような感覚は、一松には恐ろしい。胸中によぎった情動に突き動かされて、箸を置いて口を開いた。
「俺は明日も早いんだ。電気を消すよ」
「ああ。頼む」
 彼は万年床に戻り、枕元においてある小さな袋を取った。その中に入っているプラスチックの目薬は隣家の、無許可医の処方で、近所の薬局に頼んだものだった。近所の薬局といえば脱法ドラッグを売りさばく薬局で有名だった。しかし、処方箋を一瞥した後正しく薬を処方した。かなりの金額をぼったくられはしたが、一松は純粋に驚いた。
 怪我の所為で曲げられない足を延ばし、壁に背を預けて彼の準備は整った。
「センセイ、気が狂ってる割に処方箋はまともだったね」
 と、ほのかに遠くのネオンの光が差し込む窓のカーテンを閉じながら一松は呟く。沈黙はまだ気まずい。
「ああ。今日も随分と長いことセンセイは放浪していたようだ。しかし、この目薬は気持ちがいい。きっと腕がいいんだな」
 と、彼が答えた。一日中この小さな部屋の中にいる彼は、お隣さんの行動を時折一松に伝える。昨日は確か、一日中唱歌を歌っていたそうだ。
 一松は電灯から垂れ下がった紐を引いて電気を消す。真っ暗闇に陥った中で、一松は彼の手の中の目薬を受け取った。彼自身が目に巻かれた包帯とガーゼを解いて、両眼を露わにした。
 伸ばされた足に触れぬように跨り、上を見上げる彼を見下ろす。そうして彼の目を見た。
「まだ痛い?」
「ああ。まだ光を見ようとすると痛みが酷い。すまないな」
「別に。さっさと治って出て行ってくれないと困るからね」
 目を凝らせば、瞳の充血は随分と収まっているように見える。しかし、開ききった瞳孔は光を異常に集め、眩しさを通り越した激痛で彼を痛めつけるようだった。
 夕方、日が暮れた後には電気をつけて慣らしているそうだが、それだけでも彼の目は痛みを訴える。一歩間違えれば失明していたかもしれないと、医者はどこを見ているか解らぬ顔で告げた。
 お互いの姿も解らぬ暗闇の中でだけ、彼は包帯をとって無防備に上を向いた。
 片足の脹ら脛を打ち抜かれ、肋を蹴折られ、全身の打撲で歩くこともままならぬ有様で、見知らぬ風体の男に全身を預けるこの男の正気も、実は一松は疑っていた。
「目を開いて」
 従順に彼はめいっぱい目を開く。両眼に三滴づつ、ひんやりとする目薬を彼の目に垂らした。 
 つやつやと濡れて輝く眼球。
 暗がりの中で、うっすらと闇に沈むサファイアの瞳が、焦点の合わぬまま一松を見上げている。
 薬品で開ききって戻らぬ瞳孔と、その周りの濃く青い光彩。目潰しに使われた薬品の影響で、色調が少し変わったというその色は、一松の見た全ての光景の中で、もっとも美しい。
 彼が眼薬の刺激に瞬きをして、一松は我に返った。
 すぐに目元に遮光のためのガーゼを当て、目元を包帯で厳重にくるむ。
「ありがとう」
 毎回の礼に、一松は返す言葉を持たない。彼はほっと息をつき、万年床に潜り込んだ。一松も、その隣に横になる。
「目が治ったら、ちゃんと組織に連絡を取る。そしたら必ずこのお礼はさせてもらう」
「お礼参りって?」
「そんなんじゃないさ」
 一松の軽口に、彼も笑って首を振った。毎回のやりとりだ。
 はじめは布団を彼に貸し、自分は畳にタオルをひいて寝ていたのだが、三日目の彼の質問でうっかり布団は一つだけだと答えてから、有無をいわさずに共寝を強いられた。目が見えないのだから、他にも布団があると言えば良かったと一松は後悔している。 
 実際彼に共寝を強いられた時に、いつでもどこでも寝ることが出来る体質だからと断ろうとしたのだ。しかし、隣で眠る人肌の感覚と呼吸音は余りに心地が良かった。一人寝とは全く違う心地よい温もりは、一松の拒絶を封じた。
 バスタオルを一枚づつ腹に掛けて、一つの敷き布団で眠る。ただそれだけのことなのに、体が融けて布団に沈み込んでいくようだった。海の底にゆっくりと沈んで、たゆたうような心地よさ。ぬめった水音も、湿り気も、余計な疲労もない共寝は、一松の心身を柔らかな毛布でくるむように慰めた。
 工場に勤める前から考えても、布団の中で安眠したのは、遠い昔以来の体験だった。
 その心地よさを知ってしまった一松は、畢竟断りきれずにずるずると共寝を続けていた。
「おやすみ」
「おやすみ。明日俺は五時には出るから」
 抑えた声で隣で眠る彼にささやくと、彼は驚いたようだった。
「五時? もう一時近いのに」
「そういうところなんだよ」
「酷い職場だ」
「オーナーが納期を盛るからな。見栄張みえっぱりなんだよ」
「オーナーは自分の工場の生産量を解ってないのか?」
「人を使い潰せばなんとでもなってきた。……ってのが悪いんだろうな」
 喉の奥で自嘲気味に笑い、バスタオルを自分の腹に掛けて彼に背を向けた。これ以上話をしていると、わずかな睡眠時間もなくなってしまう。
 まもなく、彼の無防備な背中が、ゆっくり上下し、規則正しい寝息が聞こえると、やはり彼の正気を疑った。
 自分なら、怪我を負って運び込まれた見知らぬ他人の部屋で、見知らぬ他人の布団の中でこれほど悠々と寝られるだろうか。
「へんなやつ」
 右隣に感じる背中の温もりに悪態を吐いて、一松は目を閉じた。
 目を閉じた瞬間に眠りが訪れる。短い時間でも、何とか睡眠がとれるように発達した一松の睡眠は、一瞬で深く沈み、一瞬で浮上する。海へ素潜りするような眠りだった。
 最近は違う。側にある人の体温が、じんわりと一松に染み通って強ばって凍り付いた芯を溶かしていく。初日こそ気が張って眠れなかったが、数日たった今は、この温もりの心地よさが一松を虜にしつつあると、自覚していた。
 それに溺れるのが、今は少し怖い。

 一松はその夜、久しぶりに夢を見た。幼くなった自分が惰眠をむさぼるだけの優しい夢だった。
 幾人かの寝息の聞こえる夜に目を覚まし、うつらうつらと暖かで柔らかな布団の中で微睡む夢だった。
 おおきな布団の中はうっとりするほど暖かく、隣に眠る子供のゆっくりとした寝息に、また眠気に取り込まれるかける。そっと目を上げて襖を見上げれば、襖の向こうに明かりが見えた。ああ、父さんと母さんはまだ起きているんだ。なら大丈夫、怖いことは何もない、と夢の中の一松は無条件に信じ切っていた。
「あれ、眠れないの、一松」
 隣の子供が眠い目をこすって一松に囁いた。
「ううん、大丈夫。ちょっと起きちゃっただけ」
「あいつらイビキうるさいもんな」
 子供は忌々しげに自分の向こう側を振り返った。一松は確かに、と苦笑混じりに頷いた。子供の奥に幾人かの子供が眠っていることを一松は知っていた。
 ふと襖が開いて、母が襖の隙間から顔を出す。隙間から漏れ出すオレンジ色の明かりが布団の上に延びていた。
「誰か、まだ起きてるの? 寝ないと怒るわよ」
 呆れ半分の優しい声に、慌てて二人して枕に突っ伏す。くすくすと顔を見合わせて笑った。
「お休み、一松。また明日」
「また明日ってなんだよ。明日も明後日も、ずっと毎日会ってるのに」
 一松がけらけらと笑う。目の前の子供は、そうだね、と笑う。
「本当に、そうだったらどれほどいいか」
 子供は、しんみりと寂しげに呟いた。その声の、果てしなく孤独をはらんだ声に、夢の中の一松の心臓は激しく痛んだ。君が寂しいと僕も寂しい。
 どうしてそんなことを言うの、と問おうとして、夢は終わった。いろいろな夢をそれから見たような気がするが、起きたときには何一つ覚えていなかった。
 一松が起きたのは四時を少し回った頃だった。
「あー、……寝た気がしねえ」
 シャツを着た胸元をつかんで、深いため息を付く。夢の内容は何一つ覚えていないのに、奇妙な焦燥感だけが名残を残していた。動悸が激しい。
 一松は頭を掻きながら上身を起こして左隣を見た。壁に向かって横向きに眠っている男は、唇をむにむにと動かして健やかに眠っている。
 眠っている顔は、どこか幼げを残しているように見えた。口元がむにむにとむずがる様子に一松は小さく笑う。自分が痩けた頬と張り付いた隈と、萎れきって倦んだ目つきと、病み衰えた顔立ちで一回りどころか二回りは年かさに見られることを振り返れば、まるで正反対だった。
 彼を見ているうちに、奇妙な夢のよどんだ名残も不思議と収まって一松は立ち上がる。自分のバスタオルを彼に掛ける。
 お仕着せのくたびれたカーキ色の作業服に着替えて、表情を隠す帽子を深くかぶり、ドアを開く。三和土の、履き潰した靴を履いて、まだ朝日の昇っていない薄暗い朝靄に深呼吸をする。静まりかえった朝のこの街は、夜とも昼とも異なる顔をしていた。

 一松は、まずあくびをかみ殺しながら二階建ての最上階、一番西端の部屋から共同洗面台に向かう。
「オハヨウ、班長サン」
 その途中、隣の部屋の前の廊下に出された長いすに座る男に声を掛けられた。
 逆立った髪に、焦点の合わない目。くしゃくしゃにくたびれたスーツが子供のままの顔をした男にはひたすらに不釣り合いだった。
「おはようセンセイ。相変わらず早起きだね」
 そういうと小首を傾げて彼は一松を見上げた。稚い声を発する成人男性は、ちぐはぐな不安定さを人に与える。ここに越して随分と立つ一松は、もう随分彼に慣れたが、越してきた当初は夜な夜なの奇声に困り果てたものだった。それでも彼は何故か一松が怪我をしたときは手際よく手当をしてくれたし、時折目が覚めるように正気に戻ったときには窶れた一松の身を案じてくれる。
 今となれば一松にとっては良き隣人だった。夜な夜なの奇声も、越して数ヶ月でぴたりと収まり、今では彼の生態もだいたいは把握できている。
 いつでも、言葉の通じない生き物の方がよほど一松には優しかった。
「アノニエー、ボクチガウヨ。ボクハアキラクントチガウヨ」
 聞き取りにくい声で彼が反論する。
「じゃあなんて名前なの」
 表札には梅之宮晶と描かれているが、いつも彼はそうじゃないという。そうして、自分の名前がわからないと悩む。一松はいつだって彼の名前が知りたいと思っていたが、そう聞く度に彼は泣き出しそうな顔で困惑するのだった。自分の名前も忘れた狂人は、この朝も同じように一松の意地の悪い問いかけに困惑した。
「ボクネェー、ボクネエ……。ナンダッケ?」
「わかったら教えてよ」
「ウンー」
 いつものように悩み出した彼を通り過ぎて、蛇口を捻って顔を洗う。安物の腕時計の指す時間はそろそろ出立を急かしていた。
「センセイ、うちのことよろしく頼んでいい?」
 一松は帽子を深くかぶりなおして、陰鬱なため息を付いた。そのついでに彼のことを頼む。
「ウン。朝ゴハンハ?」
「食べてる暇ないや。あいつが何か食べるんだったら手伝って上げて欲しい」
 彼はこくこくと頷いた。
 奇妙な言動と行動で嫌悪されがちな彼だが、一松の言葉にはまともな返答が帰ることが多かった。
 玄関先で話していたのが聞こえたのだろう、自室の奥から彼の声が飛んでくる。
「……もう行くのか?」
 あくび混じりの彼の声に、玄関を開けた。うっすらと先ほどより朝のほの明るさが忍び込む窓の下で、半分寝こけた彼が、ひらりと手を降っているのが見えた。
「行ってらっしゃい」
 彼が一松にそう挨拶をしたのは、彼がこの部屋にきてから初めてだった。
 心臓が握りつぶされるように痛くて、一瞬惚けて立ち竦む。
「あー、ああ、うん。行ってきます」
 頬を掻きながら、そう返すのが精一杯だった。顔が熱い。きっと赤くなっている。動悸が酷くて落ち着かない。
──行ってらっしゃいなんて言われたの、いつぶりになるんだろう。生まれて初めてかもしれない。
 ぎゅっと胸がふさがるような感覚に困惑しながら、一松は逃げるように部屋を出た。
 
 
 始業前にたどり着いた工場は、しんと静まりかえってまだ何の音もしない。むき出しになった外付けの配管を潜るようにして玄関のドアを開ければ、工場で使う独特な薬品の臭気が鼻を刺した。硫黄のような刺激臭。匂いにはもう慣れたが、毎日工場内でシャワーを浴びて帰るのはこの匂いを部屋に持って帰りたくないからだ。
 体に良い薬品ではない上に、この匂いが鼻に届くと、自然と仕事の顔をしてしまうほどにずぶずぶとこの仕事に漬け込まれている。
 二階部分の明かり取りの窓から朝の柔らかな陽光が工場を照らしていた。広々としたスレートの屋根の下に、剥き出しのコンクリートの床。巨大な体育館のような箱の中に、まだ稼働していないラインと機械がのたくる大蛇と象の群のように静かに鎮座している。スチールの螺旋階段に繋がった、この工場ではキャットウォークと呼ばれる細いギャラリーは一松のテリトリーだった。
 腕時計を見れば、始業時間まではまだ数十分残っている。終身名誉班長などという重い足枷をもらっている一松は、一足早く先にきて日々の通達事項をチェックしなければならない。そのかわり気が狂いそうな終わりのない単純作業の地獄から、多少なりとも違いのある作業に従事できることは、蜘蛛の糸のようなものだった。
 まだ稼働していないラインを横切って事務室に入り、一時間前に夜間勤務の班長の手で更新された夜間の報告書を見る。書き込まれた数字に一松は舌打ちする。倉庫の在庫表を見ても、苛立ちが募った。
──あのクソ野郎。生産数増やされてんじゃねえか。
 ノルマの上乗せは、オーナーと工場長の判断だろう。増えた生産数は、そのまま日々のノルマに上乗せされる。増やされているのは、一松の班のラインだった。納期はまだ先だが、一日の生産ノルマが達成されなければ工員を帰すわけにはいかない。  
 つい一年前に入れ替わったオーナーと工場長は、前の工場長より頭は回るが、重度の拝金主義者たちだった。無駄な業務で工員を使い潰すことはしないが、無駄なく金を稼ぐために工員を使い回す。生かさず殺さずの妙を心得ているのが憎たらしい。
──ここ数日、家に帰れただけ御の字だったのかねえ。
 深い深いため息を吐く。上乗せ分の生産ノルマと、班のシフトを計算していると、だんだんと人が集まる気配がした。
「終身名誉班長。朝礼の時間ザンス」
 事務室のドアから、小綺麗なスーツを着込んだ異様な前歯を白く輝かせた男が顔を出した。右手にはチープなステッキを揺らしている。
「オーナー」
 顔を出した当のオーナーを睨みつけながらメモと書類をバインダーに挟む。よくものこのこと顔を出せたな、と視線だけで射殺しそうな一松の視線に、オーナーは飄々とカイゼル髭の失敗作のような頬髭を撫でた。
「そんな怖い顔しないでチョ。ノルマの上乗せは今に始まったことじゃないザンス。上乗せ分は、竹里組の発注ザンス。ピーノ・ファミリーをハメた所為で、ここいらのシマの利権の取り合いで喧嘩してるザンス。まさに特需ザンス」
 漁夫の利と八方美人で稼げる分だけ今のうちに稼いでおこうという判断なのだろう。元々竹里組の資本だったこの工場をかすめ取ろうとしたのが、外資系のピーノ・ファミリーなのだ。
 イタリアの交通の要所を押さえる、規模は小さいながらにシチリアに起源を持ち、マフィアの名を負う古き躍進派ピーノ・ファミリー。インターナショナルにシノギを嗅ぎ付け遙々地中海を離れてこの界隈にやってきた。得体の知れないマフィアだった。
 対するのは、違法薬物、脱法ハーブの製造売買、臓器売買、風俗と、国内有数の武器製造工場との取引でべっとりと糊口を凌いでいる竹里組。かつての任侠組から、極道でさえなく、ただの暴力団になって久しい、この界隈の支配者だった。
 表面上はお互いに手を組むと嘯いていたが、外資を嫌う竹里組の反感は強い。
 竹里組から、講和条約を持ちかけた矢先の裏切りで、今は本拠の遠いピーノが狼狽えている。あの男の所属もおそらくは。
「今のウチにがっぽがっぽ儲けるザンスよ。ピーノにも、竹里組にも売れば、儲けは二倍ザンス!」
 一松はじっとりとオーナーを睨んだ。
 このシフトでは、工員たちのストレスが今まで以上に溜まるだろう。時限爆弾という工員たちの鬱憤を、必死に導火線を伸ばしてやりくりしているのが一松だ。工場が壊れるような大爆発を起こさせぬように小規模に誘爆させて、被害を減らす。だが、一松の手腕を持ってしても、このシフトでは限界があるだろう。
──誰かが、鬱憤の捌け口になる可能性があるかもしれねえ。
 汚泥のように溜まり、腐りきった臭気を発するそれは、時に人を簡単に鬼に変える。どんな優しく思いやり深い人間でも、恍惚に顔を歪めながら人を虐げるのだ。鬼になる人達は、殆どいつも善人だった。
 特に、普通ならあり得ぬそういう風土がこの工場には根付いてしまっている。
 オーナーはそれを分かっているのだろうか。
 一松の不満の視線に気が付いていないオーナーは歩きながら書類を一松に渡す。
 後でほかの班長に渡す配布物に目を通して、一松は気づかれぬようにため息を呑み込んだ。
「それで、今日の通達事項ザンス。数日前から日本に手打ちに来ていたピーノ・ファミリーのカポがハメられたまま行方不明ザンス」
「へえ」
 気のない風を装って返事を返す。内心で高鳴った動悸を押さえるように無表情を決め込んだ。
「行方不明の幹部を見つけたら竹里組に恩を売れるザンス。みんなにも協力するように伝えてチョ。はっきりと勝敗が決まるまでは、一応両方から注文を受けるザンス」
 舌の回るオーナーの話を頭に叩き込んで、一松は形ばかり頷いた。
 オーナーと別れて工員たちの並ぶ広間に紛れ込む。
 行方不明の幹部。外資──イタリア系のマフィアの男。一松の頭の中はぐるぐると動き回る。
 一松が彼をマフィアと呼ぶように、彼はピーノ・ファミリーの人間だろうとは思っていた。しかし、イヤミの口振りから考えるに、彼はピーノ・ファミリーのカポその人かもしれないではないか。
──そこまでの人間だったとは。
 ぞくりと背筋が冷たくなったことをごまかすように、唾をもう一度飲み込んで、一松は班の点呼に向かった。厄介な男を拾ってしまったのかも知れぬと、道すがらに考える。
 それでも、オーナーに彼のことを教えようとは一切思わなかった。
 いつもの妙な体操の後、班長と工員に通達を配り、いつもの作業に戻る。生産ノルマが増えたことを告げた時の、工員達の一松を見上げる鈍く殺気だった目が、いつもと同じ以上に絶望的に暗かった。
 ラインが稼働始めた頃に、白々しい朝日は漸く登り切った。

 初日は急な生産数の増加に下請けの工場から運ばれてくる材料が足りず、いつもと大差のない時間にベルトコンベアーが止まった。ノルマはぎりぎりで達成できたが、明日は材料が十全に運び込まれ、ノルマは今日の分に追加分が上乗せされている。九時を過ぎる頃に、ラインが停止した。
「明日は七時半からラインを動かす。朝礼はなし。生産ノルマを達成するまで帰れねえし寝れねえと思っとけ、分かったかクソ共」
 罵倒混じりに激励を飛ばし、業務を終える頃にはとっくに日付が変わっていた。ぞろぞろと体を引きずるように引き上げていく班員たちを見送る。
 その中に、気になる背中を見つけた。少し待てと声をかける。
「は、はいっ」
 びくびくと脅えたように背中を丸める青年は、つい数ヶ月前にここに放り込まれた、まだ少年といって差し支えない若い班員だった。
 中年か初老が多い班員の中で、彼は不幸にも若かった。人の機嫌を伺うような卑屈な視線は、この数ヶ月で彼の顔にあらがいようなく張り付けられていった。入ってきたばかりのあの無垢な表情は彼から失われて久しい。
 その顔をじっと見て、一松は懐から財布を取り出す。その動作にさえ、青年は脅えた目を向ける。わびしい財布の中身から、数枚の札を引き出して青年に渡した。
「……今日は寮に帰るな。明日から忙しくなる。林を抜けたところにネオン街があるだろう。そこのマツノキっつうホストクラブで、客引きしてる男に『班長にホテルを頼まれた』って言え。そんで、やべえ時はそいつに頼め。冷てえやつだけど、懐に入ってきた雉を撃ち殺せねえ男だ」
 青年は脅えた目を怪訝そうな色に変えて一松をみた。信じられないものを見るかのような目から逃れるように、帽子のつばを深く沈める。一松は声を低めて、背を屈め、少年の耳元で囁いた。
「今夜は寮に帰るな。明日おまえが使い物にならないとノルマに支障がでる。明日からは大丈夫だろうが」
「あ、あ……」
 声にならない少年の呻き声に、一松は重苦しいため息を吐いた。自分の予想はやはり当たってしまっていたらしい。立ち作業は辛かった日もあったろうと思う。考慮出来るかどうかは、一松には分からない。
「ここで生き抜きてえなら、寮を早く出ることだ。寝坊するんじゃねえぞ」
 青年は、壊れた機械のように頷くと、備え付けの寮とは逆の方に逃げるように駆けていった。
──何をしてるんだか。善人ぶって、人様を救っているつもりかよ。
 頭の中の冷たい叱責に、一松は頭を振った。
 そんなつもりはさらさらない。善人ならば、きっと彼をこの地獄から逃がしてやる手助けをするだろう。自分がしたことは、地獄に休息を与え、より効率を求めているだけだった。むしろ終わりのない地獄よりも残酷な自覚はあった。
 若いというステータスは、人を鬼に変える。女日照りで、働きづめに働き、性欲だけが溜まっていく男たちは、善意を失うのだ。自分も、彼も、同じ地獄にいた。彼と違うのは、一松にはひとときの休息も望めなかったことだ。彼と違うのは、自分の体の醜さに、それほど望まれなかったことだ。後者は幸運だったのかも知れない。
 一松は暗い記憶を振り払ってシャワー室に向かう。
 誰も使わない小さなシャワー室の、極端な温度の雨を浴びて一松は工場を後にした。

 いつもの暗い路地を抜け、自分の部屋を見上げる。
 やはり見慣れない明るい窓。窓に写る人影が一松の帰りを待っていた。体を引きずるようにドアを開く。軋む音に窓辺に腰掛けていた彼が振り向く。
「おかえり」
 彼は微笑んで、一松を迎え入れた。途端にどっと疲れが背中にのしかかり、その重みで床が凹みそうだった。
 

「そうなのか……」
 夕食時に明日からのことを説明すれば、彼は心なしかしょんぼりと肩を落とした。
 拾った生き物は、死ぬまで面倒を見る。それができぬなら飼うべきではないという考えの一松にしても不本意な放置だった。
「しばらく工場内に缶詰になると思う。アンタのことは、センセイに頼むし、何かあったら連絡しろ」
「いや……今不用意に連絡を取ると、あいつらに居場所がばれてしまう……」
 首を振って断られ、一松はそうだったと思い出した。
 そもそも、彼が組織に連絡せずにここにいる理由も、身動きのとれない体で不用意に連絡をすれば命が危ないという理由だった。せめて生存報告だけでもと薦めたが、彼は首を縦に振ることはなかった。
 別の世界に生きているのだなあ、と一松は改めてこの男を恐ろしく思う。ピーノ・ファミリーの行方不明の幹部(カポ)かも知れぬ男。
いとも簡単に、人に引き金を引けるのだろう、マフィアの男。
 この部屋で、口元を緩めながらカップラーメンを啜る男とはかけ離れているが、あの日のサファイアの色をしたぎらぎらした双眸には似つかわしい。
 一松とて命の危機は幾度も覚えがある。しかし、命を狙われぬ為に備えたことはない。
「納期が終わったら、二日休みが貰えるはずだから。……体が空いたら、なるべく顔を出すよ」
 出来るか解らない約束を取り付けて、一松は彼に目薬を差し、包帯を変え、彼の隣でぬかるんだ泥のように眠った。彼の吐息と拍動と、微かにふれあう肌の温もりは、どこか夢の中の安心感を思い出させた。

 
 翌日からは、目が眩むような忙しさで日々が過ぎていった。
 ホテルに誘導した青年は、久しぶりにぐっすりと眠ったのだろう、すこしだけ血色のいい顔で一松に頭を下げた。
 想定外のトラブルでラインが止まった時は一松が機械を修理して事なきを得たが、その日から数日寝ることも出来なかった。機械修理は、かつて隣人に教わったものだった。
 一松も、時折ラインの穴を埋めるために班員に並ぶ羽目になる。作業能率を逐一細かく計算し、著しく下がった工員を休ませ、能率を上げる。限界を見極め、働かせ休ませ、部品が長く保つように。
 人を見る一松の目は血走って濁り始めた。人を監視する作業に休みはない。工員が働き続ける限り、一松も働かねばならなかった。
 下請けからの納品数が切れて眠る時以外はほとんど立ち通しで、班員の苛立ちもピークに達していた。 
 何日かに一日は、彼に食料を届けるために家に戻った。シャワーを浴びて帰り、彼の横で泥のように眠る。
 彼はずっと一松を待っていた。
「おかえり」と、どんなに遅く帰っても目を覚まして一松に告げた。
 少しでも何か食べるようにと、目が見えていないとは思えない手さばきで、隣人に差し入れられた梨を剥き、一松の口に無理矢理突っ込んだことさえあった。噛めば滲む梨の甘みの芳しさが、暫く舌の上から消えなかった。
 ライン作業が終わった日、検品作業もまた、丸一日をかけて行われた。
 検品作業はラインの班長の仕事だったが、ほかの班の班長に見捨てられた一松は、黙々と夜を徹して倉庫に籠もった。
 手伝ってくれたのは、あの若い班員と、その班員と同じようにかつて休息を手渡した青年たちだった。
 無事に検品を終えれば、嵐のような日々に、終止符(ピリオド)が打たれた。
黄色い太陽が上がる朝だった。
「班長、あとは俺らで納品しておきますよ」
 と、例の若い班員が提言する。
「いや、出荷するまでが仕事だから。てめえらに任せて万が一があったら、東京湾に沈むのはてめえらだぞ」
 あながち冗談ではない脅しをかけると、震え上がりながら青年たちの口元がかすかに緩んだ。
 苦笑でもなく、皮肉でもなく。まだそのように笑う気力があるのだと、一松は彼らを眩しく思う。
 遠い日に、麦わら帽子越しに見上げた太陽をみるような寂しい気分だった。

 倉庫の品物を、運搬トラックに積み込むまでを一松はしっかりと見守った。それが終わると、表情に出さずとも思いっきり安堵が押し寄せる。
 それ以降のことは、運び屋に任せてしまえばいい。
「……お疲れ」
 一松のねぎらいに、青年たちはわっと歓声をあげた。
「検品手伝ってもらって悪かったね。これ、お小遣い。今日も寮には戻るな。……そろそろ手持ちが尽きるからもう庇えないよ」
 青年たちになけなしの金を渡すと、顔を暗くさせ俯いた。
 一気に現実に引き戻してしまったのだろう、気の弱そうな青年は今にも泣きそうだった。自分の班のあの少年は、渡された金を握って一松を見据えた。
「この金で、部屋を借りたいんです。いいですか」
「好きにしたらいい」
「みんなで、住みます。そしたら金もそこまでかかんないし、先輩たちのはけ口にならずにすむし」
 一松はただ宣言を聞いていた。
「勝手にしたら。ねえ、ウチのラインは明日と明後日は休みだけど、ほかのは違うだろ。もう朝礼だよ」
 犬を追い払うように手を振ると、青年たちは蜘蛛の子を散らすよう駆けだした。元気だねえ、と感慨深くその背を見送る。自分もあの年の頃にはこうだったろうか、と思い出して自嘲した。違う。あのころの自分はぼろぼろの雑巾だった。今でもそれは変わっていない。
 班員の少年が、深々と一松に頭を下げて工場をでていった。
 さて、本当に帰ってくるだろうか。部屋を見つけるといいながら、工場を抜けるのかもしれない。仲間の分の金があれば、遠くへ逃げられるだろう。
──どちらでもいい。金を渡した以上、それからのことは僕は知らない。
 仲間を裏切って一人で逃げるでも、仲間と共に地獄を生き抜くのでも、どちらも簡単な道ではない。あの青年がどちらを選ぼうと、一松はどうでもよかった。
 一松は班員の遠ざかる背が消えるまで見送って、のろのろとシャワー室に入った。
 素足に冷たいタイルに鳥肌を立てながら、漸く帰れると安堵した。張りつめていた緊張が、ふつりと緩む。休みにはなにをしようか。漸く、休みだ。まともにご飯が食べたい。廃材を拾ってきたちゃぶ台を囲む想像をして、ごく当たり前のように目の前に彼を想像した自分に小さく笑う。ご飯を食べて、彼の隣で眠るのだ。
 早く帰りたくて、そそくさと服を脱ごうとした瞬間、背後から羽交い締めにされて一松は背筋が凍り付いた。
 薬品の匂いの染み込んだ作業着の匂いが鼻につく。
 腕から逃れようともがくと、耳元で臭い息を吹きかけられた。
 聞き覚えのある男の声は、一松の所属するラインの別の班の男だった。一松よりも年かさだが、一松の後輩だ。竹里組の幹部に親戚がいることを笠に着て、班長を勤める一松を目の敵にする、荒々しい男だった。
「俺らにも、ごほうびをくれよ班長さんよ」
 男が顎を引くとシャワーブースから男がぞろぞろと現れた。揃いも揃って、饐えて倦んだ目をしている。中には、一松の班員さえ紛れている。
「てめえら、何をしてやがる。仕事はどうした!」
 男は喚く一松を壁に叩きつけ、手首をひとまとめに掴み上げた。膝頭で腹を蹴り上げられる。
「依怙贔屓はよくねえよな」
 男が、陰鬱な妬みと僻みを含んで一松を嘲笑した。一松を取り囲む男たちのいくつもの目は、たまりきった疲れで腐り果て、血走り、沼の底から空をみる鯰よりも惨めに苛立っていた。
 しくじった、と咄嗟に一松は舌を打つ。他の工員に気づかれるほど露骨にしたつもりはなかったが、どこからか嗅ぎつけられていたらしい。
 舌打ちが気にくわなかったのだろう。腕を掴む男とは別の男が一松の腹にまた拳を叩き込んだ。ついでに頬を張られる。シャワー室の古く黴だらけのタイルの上に、胃液が垂れた。胃酸が冷たいシャワーで流されて、排水溝に渦を巻いて飲まれていく。まるで自分の末路のようだった。
「俺たちにもご褒美くれても、罰は当たらねえよなあ」
 別の工員が、恨みの籠もった声で一松の頬を片手できつく掴んだ。
 怒りは若者たちではなく、一松に向けられていた。振りかぶられた腕が見える。二発目は頬骨にしたたかにぶつかった。
──ああ、逃げればいいのに。
 タイルに額を打ち付けられて、朦朧とする頭の中で、一松はそう思った。
意識が飛ぶ寸前に冷たい水が頭からかけられて、凍えそうになる。
「ああ、服は脱がすなよ」
 比較的古参の男が一松の服を脱がそうとした男を止める。
「汚くて、萎えちまう。売女さえこいつの相手は嫌がるぜ」
 処罰でプレスされ、薬指と小指を無くした男の手が、嘲るように一松の背中を張った。
「どういうことだ?」
 誰かが古参に問うた。
「やめろ、殺すぞクズ!」
 ろくな抵抗も出来ぬまま、一松は作業服を何本もの手で脱がされ、押さえつけられ、上半身を男たちの目の前に晒した。
 おぞましいものを見た男たちの、奇異と嘲弄の視線が一松に矢のように放たれて突き刺さる。
「なるほどな。こりゃ気持ち悪ィ」
 突き刺さる恥辱の痛みが背中を走る。一松は、男たちに知られないように、俯いて奥歯を噛みしめた。身を走る嫌悪感と、屈辱と、恐怖が体を縛って、抵抗することさえ出来なくなる。
「だからごった煮の継ぎ接ぎ野郎(ハッチポッチパッチ)って呼ばれてんだよ」
 古参が嘲る。男たちの下品な嘲笑がシャワールームに渦巻いた。それは確かに一松の蔑称だった。改めて聞くと屈辱で頭が煮えそうだった。
「勃たねェんなら、さっさと離せよ、クズども」
「女も抱けねえつぎはぎだらけの汚ねえ体を、抱いていただいてありがとうございます、だろう」
 わき腹を思い切り蹴り飛ばされる。
 憤りに任せてうつ伏せにひっくり返され、鼻をしたたかにタイルにぶつける。鼻から垂れた血が、タイルに流れていった。
「てめェらの粗末なブツに感謝するやつがいるかよボケ。シネ」
 媚びへつらうことだけは、一松のなけなしの、無駄でしかないプライドが許さなかった。この悪癖さえなければ、もっと楽に終わるのだろうけれど。
 一松の頭とは別に勝手に口が動いてしまうので仕方がない。 
 いつも行為が終わってから後悔していたが、改善の兆しは爪の先の垢ほども見つからない。その上、これは改善する気がなかった。
 男の足下に軽蔑を込めて唾を吐けば、見上げる男たちの顔が嘲笑から暴力的に歪み、赤い色を通り越しておもしろいほどどす黒い色に変わる。口元がびくびくと痙攣して残酷に歪む。
 それからはもう襲いかかる嵐のような暴力だった。口の中に鉄の味が広がり、何人もが続けざまに一松を蹂躙した。冷たいシャワーの雨が一松に延々と降り注ぎ、凍り付いた一松の芯をさらに強固に凍りづけにした。

 全てが終わった後、一松はのろのろと立ち上がった。もう工員の姿はない。
 シャワーを止めて、何とか体を流し、工場を出る。ずぶぬれで歩く一松とすれ違う、事情を察した工員たちは同情と哀れみと蔑みと、卑屈な安堵の視線で一松を見下した。事情が分からぬ工員たちは、一松に奇異の目を向けた。
──帰ろう。明日は休みだし。
 他に仕事を言いつけられぬように、必死に足早で工場を出る。足早だと思いこむその歩みが、亀よりも遅いことなど自分で解っている。
 ふらふらと工場の敷地を出て、深い防音林を抜ければ歓楽街の端に出た。その路地の陰でようやく足を止めて、崩れ落ちるように蹲る。身を隠すように室外機の陰に座り込んだ。
 足下に散らばって落ちている新聞に目を向ければ、贔屓にしている野球選手の野次が書かれていて苛立ち混じりにその紙面を丸めようと手を伸ばす。
 ひどく悔しげに、それでも朗らかに笑ってみせる贔屓の選手の顔が写っている。きっととても消沈している。それでも次を見据えて彼は不躾なカメラに向けて笑みを浮かべているのだ。自分も、そうなれたら。
 酷い気分だった。空々しく青い空が広がっているというのに、薄汚れた路地裏で惨めに転がっている自分が、ごみ以下の存在に思えてならない。使い古しの雑巾はこんな気分でゴミ箱にいるのだろう。なんて親近感。
──やばいな、寒い。初夏とはいえ冷水ぶっかけ続けるってどういう考えしてんだ。あいつらも風邪引いて給料天引きされればいいのに。クソが。くたばれ。
 連日連夜の疲労と不摂生、だめ押しのような暴力に、一松の頭がぼうっと痛む。
 立ちあがることもできずに座り込む自分は、いったい何に見えるのだろう。ぼろ雑巾。燃えないごみ。継ぎ接ぎだらけのぼろ人形。
「一松?」
 驚いた声がする。ぼんやりと霞む視界の中で、人影が一松を覗き込んでいた。
「ああ、酷い。熱が出ているよ。俺が肩を貸して上げる。立てる?」
「どうしたの──って、うわ、これで生きてるの、この人」
 二人分の声がする。聞き覚えがあるようで、聞き慣れない声。
 両脇を抱え上げられ、ずるずると足を引きずられてつま先がコンクリートに削り取られていた。
「大丈夫だよ。お疲れさま、一松。よく頑張ったね」
 耳元で囁かれる小さくて柔らかな声は、誰のものかよく知っているはずなのに、全く思い出せなかった。一松を労い、賞賛する声は、夢見心地の一松の耳にじんわりと染み渡った。
 薄らと目を開くと、懐かしい顔があった。懐かしい、と思うのに、名前がわからない。
「にいさん……?」
 一松が夢うつつに呟いた言葉は、青空の中に融けて消え、発した一松にさえ届かなかった。
 

 次に一松が目覚めたのは、見慣れた四畳半の自分の布団の中だった。ぼやける視界に、幾度か瞬きを繰り返す。
 左目が痛んで、ろくに開けない。それでも、いつもの見慣れた──この十数日で確かに少し変化した──白い日差しの差し込む古ぼけた壁紙はここが自分の城だと伝えている。
 何とか思い出そうとするが、路地裏で頽れてからの記憶がない。なんだか、誰かが居たような気がするが、ぼんやりと靄がかってその姿は思い出せなかった。
 作業服ではなく、一張羅の紫のつなぎを着ているので誰かに介抱されたのだろうが、それが誰なのか分からなかった。
 顔をずらせば、少し離れた日陰の壁に凭れて、俯きがちに座り込んでいる男がゆっくりと一松の視界を彩った。洗剤で洗っても落ちず、薄く残る腹部の血痕さえ目を瞑れば、てらてらとした上質の白いシャツと、一松の貸し与えた毛玉の浮いたスラックスというアンバランスな姿で、彼は静かにそこに存在していた。彼の左手が、自分の右手を握っていることにそこで漸く気が付いた。皮の厚い堅い手のひらに、自分の節くれ立った枯れ木のような手が包み込まれている。
 男は、一松が目覚めたことには気が付いていない様子だった。包帯がまかれ目元が見えない顔でも、黙り込んでいる彼のなにやら神妙な横顔に一松は驚いた。落ち着かない。見慣れない者を見ているような気分は当然で、太陽の昇っている時間帯に彼とじっくり顔をつきあわせたのは殆ど初めてだった。
 小さな部屋の中、一松は南向きの窓の下にひかれた万年床に横になって、男をとっくりと観察していた。
 彼は横たわる一松の頭上、窓の横の陰になる壁に凭れている。初夏の夕暮れ独特の明るい陰の中で、まるで彼自身が輝いているような錯覚を覚える。目元は包帯で覆われているが、よく整えられた凛々しい眉は、切ない皺を眉間に刻んでいた。
 彼の鼻筋と口元は、昔の一松と少し似ていた。自分が健康であったころ、あのような形をしていたように思う。窶れ衰えた今では遠い昔で、もはや自分の昔の顔はおぼろに霞んで思い出せない。けれど、きっとそうだった。どこか顔見知りの友人や、隣人の面影もあるような気がする。友人はメイクが濃くてよく分からず、隣人は素行が目立って顔がよく思い出せなかったが。
 一松の為に伸ばされた腕に、夕暮れの日差しが差し込んでいた。
 腕まくりされたシャツから覗く彼の肌理の細かな肌の白さは、真珠のように柔らかに夕暮れの朧な薄桃色の明るさを受け止めている。柔らかな産毛が輝いていた。
 腕以外は日陰にひっそりと沈んでいる。彼が元々着ていた白い襟の中に隠された首筋のたくましさ。それを強調するゴールドのネックレスは落ち着いた色で柔らかな光沢を煌めかせていた。
──見ろよ、一松。生きてきた世界の違いが、よく分かるな。こいつはこんなに裕福に生きているのに、俺ときたら。王様と乞食のようじゃないか。
 ふと過ぎった冷たい自虐的な言葉に、一松は我に返った。
 実際、彼が幸せに生きてきたかは知らない。自分よりは裕福であったかもしれないが、抗争に巻き込まれて、あまつさえ命を狙われた人生が、幸せなのかどうか、一松には全く判断はつかなかった。
 それよりも、無心で彼に魅入っていたことに気づき、一松は矛先のない羞恥を覚えた。感情をごまかす様に身を起こそうとして、ひどく痛む体に思わず呻き声をあげる。つながれた彼の手に力を入れてしまう。
「起きたか!」
 すぐに枕元の男が、一松の声に反応して、さっと顔を上げた。
「なあ、なんで──」
 喉が渇いて掠れてしまい、言葉が中途半端に途切れる。しかし、一松の言いたいことは伝わったらしく、彼は一つ頷いて答えた。
「センセイが連れてきてくれたんだ。センセイと、あと、ホストの兄さんが二人で。アンタの友人なのか? 怪我は二人で手当をしてくれたんだと思う。俺の目がこんなんじゃなかったら、手当してやれたんだがな」 
 彼は枕元で汗をかいているペットボトルを指さした。指先はペットボトルからずれていたが、大体の位置はわかる。一松は自由になる方の手でペットボトルをつかみ、片手でキャップをあけて飲み干した。
「いい友人に恵まれたんだな」
「あ、ああ」
 恵まれた──という言葉は一松には耳慣れない単語だった。「恵まれない」ならば、工員たちが毎夜のように恨み節で唸っているが。
 彼の緩んだ口元から出る言葉は、工員の恨み節よりよほど心地が良かった。羨みではなく、慈みを込めた言葉のように聞こえたからかもしれない。彼以外に自分が恵まれているなどと羨まれれば、スパナで顎を砕いてやっただろう。
 一松は身を起こすことを諦め、布団に逆戻りして、ぽつりと呟いた。
「あいつとは、好きな野球選手が同じなんだ」
「そうなのか! 誰なんだ?」
「知ってるかな、最近は二軍になってぱっとしないから。……アカツカ球団の十四松選手だよ。すぐに一軍になれると踏んでるけどね」
 横目で彼を伺いながら答える。一松が驚いたことに、そのとき、彼の口元に浮かんだのは純粋な驚きと、それから花開くような喜びだった。
「そうなのか! 十四松選手が好きなのか!」
 手放しで喜ぶ彼に、一松は面食らった。彼にとっても贔屓の選手だったのだろうか。それにしては、まるで自分が誉められたように喜んでいる。
「知ってるの?」
「ああ、勿論だ。あいつは俺のきょ──じゃない、うちの系列の会社がスポンサーに付いている選手だからな」
「マフィアも会社経営なんてしてんの」
 怪訝そうな一松の質問に、彼ははっきりと肯定した。
「クリーンな金も必要だからな」
 だから、彼に直接会ったこともあるし、彼のサインももらったことあるぞ、と鼻をならす彼に、一松は思いっきり食いついた。痛む体も忘れて、のけぞるように顔を上げて、彼を見上げる。
「マジで」
「マジだ。ちゃんと俺の名前入りだぞ」
 自慢げな彼に、一松は陸に打ち上げられた魚のように口を開閉した。一松にとって、十四松という選手は、ただの贔屓の選手というだけではない。
 彼は、ホストの兄さん──源氏名はトッティといい、本名は知らない。一松は源氏名で呼んでいる──と、自分の命と心を救った選手だった。
 一振のスイングで、高い金属音をたてて空高く真っ直ぐに舞い上がった核弾頭のような白球で、そしてその後のカメラに向けた満面の笑顔で、あの選手は少なくとも二人の人間を救っている。ドン底の中で一松ががむしゃらに生き延びることができたのは、かの選手に因る部分も少なくない。
「どうした?」
「……いいなあ」
 思わず漏れた純粋な羨望に、彼がぽかんとした。そして、少しの驚きから覚めて、彼はふわりととろける様な微笑を口元に浮かべた。
「ちゃんと組織に帰れたら、アンタに十四松のサインを贈るよ」
「え、本当?」
「マフィアは義理には拘るんだ。一度口にしたからには守ろう。でも、一つ教えてくれよ。どうして、そんなにファンなのか。十四松はもちろんいい選手だけど、そこまで有名じゃないし、凄い人気がある訳じゃない。アンタも野球狂ってわけじゃないだろうし」
 一松は、ぐ、っと息を詰めた。理由を話せば長くなる。
 何より、彼が一松のバックグラウンドのような部分に踏み込んだ質問をしたのは初めてだった。お互いにお互いの名前すら知らないような関係のまま、この男は一松の人生から去っていくのだと思っていたのに。
 一松の不安混じりの戸惑いが伝わったのか、彼は首を傾げた。
「……教えてくれたら、十四松選手のサインに加えて、サイン入りホームランボールをつけよう」
「分かった。そんなに大した話じゃないけどね」
 言葉尻に食い込むように手のひらを返した一松に、彼はくすくすと笑い声を上げた。
「……あれはいつだったかな。プレスし損ねた奴を埋葬して、身投げでもしようかって思い詰めてたときに、あいつのプレイを見たんだ」
「プレス?」
「『四号機を点検せよ』ってね。仕置きだよ。前の工場長の時は良くあったんだ」
 さすがの彼も、絶句したようだった。
 口答えした輩、反抗的だった輩、壊れてしまった輩──点検せよとの命令で、工員が点検しているとき、四号機は作為的な誤作動を起こす。指の一二本ですむか、四肢を持って行かれるか、それとも死ぬか。
 一松はあの時、一段深い地獄を知った。
 真っ赤だった四号機がだんだんと黒くなっていく。人の命を挟み込んだプレス機の掃除をして、一松は地獄を知った。もう二度と、まともな世界に戻れないと覚悟した。前の工場長と、オーナーの肉塊を見るあの冷たい目は、目を閉じれば鮮明に一松の脳裏に焼き付いている。天井からぶら下がる養父の死体を見る男の眼と、敗血症で死にかけた自分を見る医者の眼と同じ色をしていた。
 どしゃぶりの雨の中でどろどろに濡れて、死ぬことしか考えずに歩いていた。
 そんな、時に十四松選手の横顔が目に飛び込んだ。居酒屋のテレビだったのか、電気屋の店頭テレビだったのか朦朧として覚えていない。新型テレビの鮮やかな画面の中で、彼は真っ直ぐにピッチャーを見据えていた。
──あ、この回でどうしても打ちたいんだ、こいつ。
 と強烈に思う。横顔に、無性に引きつけられた。九回裏、ツーアウト満塁、点差が二点。誂えたようなチャンスで打席に立つその選手から、一松は目が離せなかった。実況、解説がスピーカーから耳鳴りのように喚き立てていたが、殆ど聞き取れなかった。後から思えば耳が馬鹿にでもなっていたのかも知れない。ただ、彼から目が離せなかった。
 一投目、飛んでくる白球を十四松は空ぶった。
落胆する観衆に一松は無性に腹が立った。
──こいつらは何を見てるんだ。こいつは見てるんだ。確実にホームランを打つために、必死に球を見てるじゃねえか。やってやれ。見返してやれ!
 むくむくと、膨れ上がったのは彼への好奇心と、妙な信頼だった。そのときはその選手の名前さえ知らなかった。
 二投目、白球は芯から少しはずれた音を立ててファールになる。
 悔しそうな、彼の食いしばった表情が大写しでスクリーンに並んだ。
 三投目は投手のボールで、彼はしっかりと見送って終わった。
「ねえ邪魔なんだけど、おっさん」
 四投目に入る直前に、低い声で、一松に難癖を付けたのが、自分とそう大差なくぼこぼこに顔を腫らして破れたスーツに泥まみれのスラックスを漸く履いているような姿の青年だった。酒臭くて、頭から血が出ていて、腰のベルトが切れていたことを覚えている。
「うるせえ、今からこいつがホームラン打つんだよ」
 嗄れた一松の声に、男がふっと視線を画面に向けた。四投目を、全身全霊で待ち受ける大写しになった彼の姿に、あっというまにその男──トッティが魅入ったのが分かった。
 奇妙な連帯感で、その姿を見守る。十四番の背番号を背負う背中と、帽子の下で見開かれた目がひたすらにチャンスをものにしようと待ちかまえている。
──あ、打つ。
 と、一松は何の根拠もなくそう確信した。思いこみでも、期待でも、希望でもなく、それは1+1の答えのように明らかな事実として一松は確信した。それは隣の男も同じだったらしい。
 ピッチャーが振りかぶって投げる。投げられた白球は白い残光を残して投手の手を離れる。ぐんぐんと距離を詰める白球。一駒写った彼の横顔が、笑ったように見えた。
「特大さよならホームラン!」
 隣の男が怒鳴りながら拳を振り上げた。スイングよりも速かった。
 ど真ん中を捕らえた金属バットの、心地いい金属音は、今でも記憶の中に鮮やかに残っている。銀色のバッドのスイング、風切り音。自分の顔に当たるように感じた、一陣の風と熱気。ぐんぐんとスタジアムの夜陰を切り裂いて月まで飛んでいく白い球の軌跡。静まりかえったスタンドが、刹那の沈黙の後、噴火する。バットを投げ捨てた選手が、ヘルメットを脱いで太陽のような笑みを浮かべた。画面いっぱいに向日葵の花がさいたようにみえた。悠々とダイヤモンドを回りながら手を振っている。
 カメラに手を振る彼と目があった気がした。
「打ったあ!」
 嗄れた声で、青年がはしゃぐ。
「ああ、打ったな!」
 自分の声もずいぶん嗄れていたが、口調はひどく盛り上がっていた。
 隣の男が、頬が痛むのもかまわずに変な顔で笑う。自分も興奮が醒めやらぬまま、隣の男と拳をがつんと突き合わせた。
 驚いたことに、その瞬間一松の中から、先ほどまでとぐろを巻いていた鬱々としたものがさっぱりゼロになっていた。
 後から聞けば、その時、トッティも本当に死んだ方が楽になれるんじゃないかと思い詰めていたというから、さらに驚いたものだった。 
 然るにそれ以来、二人はあの選手の熱狂的なファンになった。野球のルールさえ覚束ないながらに、十四松選手の動向をあらゆるメディアを駆使して追い、出来る限り応援している。そして、それ以来トッティとも細々と交流が続いている。
 二人の夢は、いつか彼の雄姿をあのドームで、この目で観ることだ。

 そこまで話し終えて、一松は気恥ずかしさに彼の手を離した。
「そんだけだよ」
 一松が言うと、彼はしみじみと応えた。
「それは十分劇的なシーンだと思うぜ。まるで舞台の中の出来事のようだ。その試合は……十四松が、十九歳の時の、日本シリーズで、代打に立ったときだな」
「そうだったの?」
「あいつの出た試合は全部録画してあるんだ。あのときのさよならホームランは、特に覚えてる」
 一松は再び驚いた。一松もトッティも、ビデオデッキなど持っていないので録画はできない。一松に至ってはこの前アナログ放送の終了でテレビが砂嵐映写機と化してしまっていた。実に彼が羨ましいが、これ以上彼を羨んで自分が惨めになるのは避けたい。一松は漏れかけた羨みを喉の奥で握り潰した。
 代わりに、彼に問いかける。マフィアだという彼は、自分などより余程劇的な刺激には事欠かないだろうと好奇心が疼いたからだ。
「アンタは何か、そういうことないの?」
「俺か? そうだな……、救われたっていえば、ダディが兄貴に殺されて、俺が救われたことがあってな」 
 一松はポップコーンを頼んで、レアステーキ二人前が出された客の気分になった。
「俺、劇的なこととは聞いたけど、そういうクソ重くて血腥いサスペンス映画は、ぜんぜん求めてない。なんでそういう話になるわけ」
「ははは、昔の話さ。でも俺が救われたのは事実だから。生き別れの一卵性の兄貴でな、ばらばらに引き取られていたんだが、俺が殺されそうになった時、必死に俺の命乞いをして、助けてくれたんだ。かっこよかったよ、そのときの兄貴は」
 軽い笑い声を立てる彼に、一松はぞっと肌を粟立たせた。笑って話すようなことなのだろうか? 彼にとってはもう笑って話せるようになってしまった出来事なのだろうか。心底住む世界の違いを見せつけられたようで、一松は頭を振った。興味がないと言えば嘘になるが、血の滴るステーキは胃にもたれる。
「ったく……。ああ、話したらまた喉がかわいた……」
 一松は痛む体を押して、ゆっくりと起きあがってシンクから水を飲む。彼はさりげなく立ち上がるのに手を貸した。
 飲めたものではないカルキと錆臭い水だが、乾いた喉に染み渡った。
──そういえばこんな話を人にしたの初めてだな。
 それどころか、これほど長く人と話をしたのも覚えている限り初めてだった。
「大丈夫か?」
「何が」
 布団に腰を下ろして、彼の横に足を伸ばして座る。深い息をつく。気が紛れることが無くなると、やはり体の痛みがぶり返してきて身じろぐ度に呻き声が漏れた。
 その呻き声が気になったのだろう、彼が問いかけてきた。
「なあ、いつも、こんなことをされているのか?」
 静かで気遣わしげな声だった。
「そんなに頻繁じゃないよ。今日は少ししくじってね。久しぶりにボコボコにされたんだ」
「やり返さないのか」
「相手が一人ならやり返すけど。流石に班員の半分以上の首を切ると、工場が回んない。班員以外も混ざってるし」
「そうか……。なあ、俺、センセイを手伝って、アンタの体に触れたんだ」
 慎重に切り出された話題に、息をのむ。今まで、彼はこのために会話をしていたのだと、一松は確信した。ゆっくりと鍵を開け、ドアノブを回し、扉を開いて、この核心へたどり着くための会話だったのだ。
 枕元に置き去りにされた彼の手が、いつの間にか拳になっていた。この男が、何にふれて何を知ってしまったのか、一松はその瞬間に感付いていた。
 反射的に言い返す。
「たいした事じゃねぇ」
 これ以上深く突っ込んでくるなと、牽制を兼ねて告げた。警戒と怯えが、一松自身でさえ思いも寄らぬほどにその声に滲んでいた。一松の手のひらが、無意識のうちに己の二の腕を掴んでいる。
 しかし、彼の包帯の下の視線が、凸レンズに収束した光のようにじりじりと一松を苛んだ。全く納得していない上に、どうしても聞きたいという熱望が一松の肌を灼くようだった。
「……なんでそう、聞きたがるの」
 数十秒も保たずに一松が根負けすると、カラ松はあっけらかんと即答した。
「アンタは俺の恩人だから」
「俺はアンタに深入りするつもりはないよ」
「俺もない。……俺に深入りされて、デンジャラスな闇の顎にさらされるのはアンタだし。でも、アンタが今までどう生きてきたのか、俺は知りたい。アンタを知りたいんだ、班長さん。アンタの境遇を面白がるつもりはない」
 コミュニケーションの駆け引きの大本は、相手を知りたいという欲求だという。そんな欲求を自分に向けられたのは、一松の人生の中で始めてのことだった。高校を中退してから入った工場は皆訳ありばかりで、互いの過去を詮索することは暗黙のタブーになっている。
 彼に出会ってから、久し振りなことや、初めてなことが、なんと多いことか。ぼろ雑巾を繕われている気分は、ぼろ雑巾の側からすれば、針が刺さってちくちくと痛い。
 彼は一松の思いの他に辛抱強かった。視線の合わぬにらめっこが、二、三分続いたところで、一松は匙を投げた。
 そもそも、自分の出自を彼に知られたからといってどうだというのか、と思い直す。個人情報などあってないようなもので、悪用するにも何も持たない一松相手に使い道などない。そう理屈を付けると意地を張っているのもばからしくなって一松は一つため息を吐いて、口を開いて話始めた。
「俺ねえ、親を交通事故で亡くして、施設で育ったんだよ。兄弟は別の施設に引き取られたらしいんだけど、覚えてないんだよなあ」
 一松が覚えている最初の記憶は、施設の隅で子猫たちを撫でているシーンだ。キジトラの毛並みの子猫。見分けがつかぬほど六匹の子猫たちは、親猫にすり寄って甘えていた。一松は施設でただ一人、親猫に許されて子猫を撫でることができた。施設の教師や、子供たちは親猫に威嚇されていたというのに、一松は親猫に許された。その優越感と誇らしさと愛しさといったら。
 切なくて愛らしくて、転げ回る子猫たちへの強いあこがれの気持ちを覚えている。その記憶の所為で、いまも一松は猫が好きだ。
 それ以前の記憶は白いもやがかかっているようになにも思い出せない。暖かで、幸せでにぎわしかったように思う。幼少期の記憶などそういうもので、一松は別段気にした事はなかった。
「だから猫が好きなのか」
「まあね。友達だと思っているよ。たまにオヤツをあげるくらいだけど」
 あの六匹の子猫たちは、一松が施設をでるその時までずっとそばにいてくれた。成猫になってもいつも連れ立って施設に来る六匹の兄弟猫は、猫としては奇妙な育ち方をしていたものだった。
「その猫は、今は?」
「もう死んじゃった。お墓も作ったよ」
「あ、すまない」
「いや、気にしないで」
 あの時は涙さえ出ず、黙々と一人で穴を掘って揃って埋めてやった。
「施設出た後で、借金背負っちゃってね。一生かかっても払えって工場にぶち込まれたんだ。体の傷はそのときのものだよ」
「どうして、そんな借金を?」
「親のものだよ。俺も片棒担いだから、自業自得」
「……アンタの、皮膚が」
「うん、皮膚と、臓器と、血と、髪と、売れるもんは全部売ったよ。それでやくざに付けられたあだ名がごった煮の継ぎ接ぎハッチポッチパッチ。アンタの目が見えるようになったら、驚くかもね。それでも東京湾に沈まずに済んだんだから、ラッキーだったのかも」
 一松はからからと嘯いた。ラッキーなどと、思ったことは一度もない。
──あのとき海に沈んでいた方が、きっと楽だったのだ。
 中身を売り捌かれた後の人間は、綿を抜かれたぬいぐるみで出来たぼろ雑巾だった。
 消毒の怠惰で膿爛れる皮膚。包帯に張り付いて、血と体液がばりばりと乾く。蠅がたかる。饐えたような薄暗い病室に蔓延する膿と消毒液と死のにおい。病室に響く音のでないクラリネットのような自分の呼吸と、ゴミを見るような闇医者の足音、自分にたかる虫の羽音。
 継ぎ接ぎだらけの体。傷口に忍び込んだ菌が体を犯して、体の真芯から自分を破壊していった。目を閉じれば鮮やかに一松を殺しにくる。
 彼は唇を戦慄かせて、ぽつりと呟いた。
「辛かったんだな……」
「はァ?」
 彼の言葉は、一松の矜持を逆撫でした。険の強い声で、一松は凄んだ。かっと頭が沸騰する。
──俺を哀れむつもりかよ。
 哀れまれることは、一松のなけなしの矜持に障る。目をつり上げて怒鳴りつけようと横を向いて、一松は針でつつかれた風船のように怒気を霧散させた。
 彼の整った手のひらが、探るように頼りなく動く。その手は一松の手のひらを見つけると、きつく握りしめた。せっかく巻いてある目の上の包帯が、どこから来たものか明らかな水で湿っている。
 じわじわと彼の包帯を湿らせている涙に、一松は狼狽えた。
「なんでアンタが泣いてるの」
 一松の狼狽えた問いかけに、彼の手は一松の手をさらに強く握りしめた。まるで駄々をこねる子供のような声だった。
「だって班長さんが、そんな風にいうから」
「ええ……、駄々っ子かよ……」
 すっかり怒気も毒気も抜かれて、一松はため息を吐く。
 一松の怒りが融けたことが分かったのか、労うように、彼の親指が一松の手の甲をさすった。するすると擦るその指先がひどく熱い。じわじわと緩やかに熱が移るようで、一松は追いつめられたような気分になった。
「よくある話でしょうに」
 彼は、ああ、と吐息のように頷いた。
「裏の世界にはよく転がってるさ。もっとひどい話だって聞いたし、見てきた。でも、何でだろうな。アンタの話で、俺は殺されるかと思った。心臓が握りつぶされるかのように痛んだ。こんなの初めてだ」
 彼のもう片方の手がさらに重ねられる。そのまま持ち上げられた一松の手は、祈るような格好で彼の額に押し当てられた。
 彼の震える低い声が、魂が震えるような切なげな吐息を孕んで、一松の耳に届いた。先ほどの駄々っ子の声とはまるで違う、優しく悲しい声。
「辛かったろう、しんどかったろう。……痛かったろうなあ」
 噛んで含めるような彼の切な声音に、一松の心臓は引き絞られるように軋んだ。
 喚きたいような、泣き出したいような、彼を殴り飛ばしたいような、彼を殺してやりたいような、抱きしめたいような、死んでしまいたいほどのごった煮の情動が、一松の中を荒れ狂う。
 それは激しく揺すぶられる感情のうねり。
 もの慣れぬ感情の逸りに、一松は酸素のない水槽の魚になって喘いだ。いっそ残酷でさえあった。彼がそう言わねば、一松は自分の境遇の不遇さから目を逸らし続けていられたというのに。
 頭の中でぐるぐる巡る言葉は、何一つ口からでることはなかった。
「……ばか、じゃねえの」
 と、落ち着かない震え声で突っぱねる。手を振り払おうと身を捩った。しかし、思いの外強い力に止められて腕は離れない。
 逆に腕をひかれ、彼が体を屈めるようにして一松の耳元で低く頼み込む。
「──なあ、班長さん。アンタの体がみたい」
 突拍子の無い頼みに、一松は絶句した。
「はあっ? おまえ、興味本位でみるもんじゃねえぞ」
 身をのけぞらせて声を裏返した一松だが、彼は至極真面目に頼み込んでいるようだった。
「興味本位じゃないって言った」
「それに見えないだろ、その目じゃ」
「触れば分かる。頼む」
 そのほかにも様々と一松は言い訳を繰り返したが、彼は頑として聞き入れなかった。寧ろ、途中から彼も意地になってきているようだった。
 テメエ、ゲイなのかと唸れば、そう思われたって構わないから見せろと言い切られ、流石の一松ももう言葉が出なかった。一松の手を握る手とは逆の手が、彼の懐に突っ込まれそうになっていることも、また一因だった。そこに何があるのか、一松は出会った初日から知っている。
「何なんだよお前……」
 言い争った疲労でぐったりとする一松の手を彼は引いた。投げ出された彼の足の上に一松は跨がる。二人の鼻先さえ触れ合いそうな距離で向かい合う。すっかり日も暮れて、差し込む月明かりだけが一松と彼をさやかに照らしていた。
 彼は手探りで一松の服を脱がしていった。唯一の私服といってもいいつなぎのチャックを下げられる。その下には何も着ていなかった。大きな打撲に湿布が貼られている以外は。一松は湿布を剥がして、ちゃぶ台に丁寧に乗せた。
 つなぎを腰まで引き下げて、一松は彼の前で一糸纏わぬ上半身を晒した。彼の目が見えていたら、きっと羞恥でどうにかなってしまっただろう。彼の目が、あの嫌悪と嘲りに染まったら一松は死んでしまいたくなっただろう。
──彼の目が見えなくてよかった。
 と、一松は思う。
「いいか」
 彼が静かに告げる。
「どーぞお好きに。ゴミは動きませんから」
 一松は渋々そう応えた。月の光でくっきりと浮かぶ自分の体を見下ろしてみて、本当にぼろ雑巾のようだと思う。
 彼の手がゆっくりと上がる。まずは、確かめるように一松の頬を挟み込んだ。その手の暖かさと、かさついた皮の厚さの弾力を感じる。
「へえ、髭があるんだな。無精ひげは剃った方がいいぞ」
「へいへい。いつもは剃ってますよ」
 彼の親指の先が頬を滑り、口元を確かめるように擦った。口紅を塗る女のように唇の上を彼の人差し指が通り抜けた。そのまま、目の下を親指がなぞる。一松はこそばゆさに体の力が抜けた。目を閉じれば、瞼の上を指がそっと触れていく。
 そのまま、彼の指先が上に上がり、一松の髪の毛を梳く。心地の良い暖かさと、人に触れられている緊張感と、優しいくすぐったさを堪えながら一松はされるがままになっていた。まるで親に頭を撫でられているような感覚は、不思議なほど一松に心地よさをもたらした。
「毎日髪の毛を洗って帰ってる割には、きしきししてるな」
「有り合わせの石鹸で全身洗ってるからね」
 彼が信じられないと口を尖らせた。髪の毛のきしみを何度も確かめられて、さすがの一松もばつが悪いような気分になった。
「匂いさえ落ちればいいからさぁ」
 言い訳がましい一松に、彼はおかしげに頬を緩めた。
「だから班長さんからは石鹸の匂いしかしないんだな」
 撫で回すように髪の毛を梳いていた手のひらが、ゆっくりと耳元に降りる。皮の固い指先が、整った爪先が一松の耳殻に触れた。
「ん、ふふ」
くすぐったくて笑い声が漏れる。
「あ、おい動くなよ。分からなくなる」
 彼が苦言を呈した。
 そのまま彼の手が耳の下を通り、一松の項に触れた。項に出っ張った骨に触れられ、心地よさに目を細めていた一松がぎくり、と体を強ばらせた。
「ん?」
「そこだよ」
 彼の雰囲気がふと険を増す。
「ここらへんか?」
 項から、背骨を辿って彼の指が一松の背中の中程まで降りる。膨らんだ継ぎ目に指が触れて、彼の動きが止まった。
「……ここなんだな」
 ぺたりと彼の手の平が一松の背中に張り付いた。
「班長さん、俺の肩に頭乗せてくれないか。よくわからない」
 言われたとおりに彼の肩に顎を乗せる。彼の怪我に触らぬ様にしながら彼に体重を掛けると、彼の口元がゆっくりと微笑んだ。
「そうそう、上手だな」
「馬鹿にしてンのか」
「まさか、そんな」
 白々しい口調で、彼は肩を竦めた。
「なあ。幾らで売れたんだ?」
「さあ、たかが知れた値段だと思うよ」
「アンタの皮膚を手に入れた奴は幸運だな。殺してやりたいよ」
 男は軽薄さを装って激情を押し込めた口調で、一松に囁いた。
一松が驚いて二の句を継げずにいるうちに、いつの間にか彼の手のひらが一松の背中を撫で回していた。暖かく、かさついた手のひらが、ゆっくりと猫を撫でるように一松の肌に触れていた。切り剥がされた皮膚の残骸と、本来の皮膚の境目を確かめるように彼の手が背中を滑る。十年のうちに幾度も切り剥がされた皮膚の境目を引き金を引く彼の整った指先がそっとなぞる。
 擽ったいような、皮膚の下がぞわぞわとする感覚に小さく身じろいだ。
「ああ……」
 思わず気の抜けた声が一松の喉から知らずに漏れた。いつの間にかくったりと力が抜けて、彼の太股に腰を落としている。彼の傷は脹ら脛だったので、彼は何も文句を言わずに彼を太股に乗せていた。
 隙間なく合わさった彼と自分の胸が、同じリズムで緩やかに鼓動を刻む。彼の鼓動を分けて貰って、錆付いていた一松の心臓が動き始める。
 彼から何か奇妙な力が放射されているようだった。彼の内から溢れ出した何かが、一松の体の奥底の、さらに奥までするりと潜り込んでくる。そんな不思議な力が彼にあるように思った。
 他人に暴かれた事のない、一松の底の底までその手が延びてきて、一松の取り残された幼い心をそっと慰撫する。
 そうして、一松もまた彼の手に手を伸ばし返し、彼の心の奥底を覗き込んでいた。セックスよりも深い交歓に、一松は熱に浮かされていく様だった。
 ともすれば、涙さえ溢れてしまいそうな情動が一松の胸の内を震わせた。
 自分の心臓が鼓動し、体中に血を通わせていることを、一松は初めて気づいたかのような衝撃でもって受け止めた。
──ずっとこれを求めていた。待っていた。待たれていた。
 名前さえわからぬ相手に、理解されてしまう。それは恐ろしいことだった。それでもそれが心地よくて、目の奥が熱くなるほどに喜ばしい。
 気づかぬうちに、彼の手は一松を抱き締めるように伸ばされていた。一松も彼の頭を抱き寄せるように腕を回している。一松の頬に彼の髪がすりすりと寄せられていた。
 腎臓と肝臓を抜き取った手術痕に彼の指先が触れて、彼は囁いた。
「見えるよ。班長さん。目なんて飾りが無くても見える」
 低い声が一松の鼓膜を直接揺らした。その声の形をした、眩暈のような眠気が一松に襲いかかった。
「一生懸命に生きていたんだな」
 彼はそっと一松の頭を労う。一松が彼の声を聞いていたのはそこまでだった。
 ゆっくりと眠りが漣のように寄せては返す。
 眠りの中で一松はまた夢を見た。

 大きなレンタカーに一松はみんなと乗っていた。
 誰を指してみんな、と思っているのか一松にはわからなかったが、一松は確かにそのとき、みんなと車に乗っていた。
 誰かが窓の外を指さしてはしゃいでいる。誰かが、何かを見つけたようだった。わっと、窓に子供たちが集まる。同じそろいの服を着て、同じ髪型で、同じ背格好で、一松も気づけば同じ姿で後部座席に座っていた。一松を包む安心感と、絶対的なつながりが、そこに確かにあった。
それを、助手席と運転席の大人が──両親が、微笑ましげにバックミラー越しの眼差しを向けていた。
 窓に群がっているみんなの輪に入ろうと、一松が後部座席から腰を浮かせかけた時だった。
 パン、と目の前が白く弾けた。窓の青空がひっくり返る。アスファルトの道路に、けたたましく軋むブレーキ音。
 母の悲鳴。父の罵声。兄弟たちの伸ばす手のひら。恐ろしい顔の両親が、自分たちに覆い被さる。
 兄弟たちは手に手を伸ばし、団子のように固まった。放すまい、放されるまい。守らなくては。
 いったい誰を守りたかったのだろう、と夢の中の大人の一松は不思議に思った。 

「──オハヨウ、班長サン」
 独特な高音が耳元に聞こえて、一松は飛び起きた。視界いっぱいに広がる、メガネの男の顔に、一松は一瞬肝を冷やす。よくよく見れば、見慣れた隣人だ。
 奇妙な夢の余韻に浸るまもなく、飛び上がった拍子に痛む体に思わず呻く。それでも、昨日よりずいぶんと痛みが引いていた。
「あ、起きた起きた」
 一松の呻き声に、またここに居るはずの無い男の声がした。
「え、トッティ? センセイ?」
 備え付けのキッチンから、一松を振り返った男は、確かに十四松選手の応援仲間のホストだった。しっかりとメイクされた顔と安物の甘い香水の匂いは確かに彼だった。
「おはよう、班長さん」
 そして、マフィアはといえば、にこにこと微笑みながらちゃぶ台の一角を占領していた。目を覆う包帯は綺麗にまき直されている。ちゃぶ台に包帯があるので、センセイがまき直したのだろう。 
 それよりも一松には気になるところがあった。四人もの人間が詰め込まれているワンルームを眺め回して呟く。
「……クソ狭ェ」
「それ僕の台詞だからね! 昨日、行き倒れてたのを助けて上げたんだから、もうちょっと感謝してくれる?」
「トッティ君と、センセイが班長さんを運んできてくれたんだぞ」
 隣人でもあるセンセイは兎も角、ホストと彼は初対面のはずだったが、一松が眠っている間に気安くなったようだった。
「ああ……そう。それはどうも、ありがとうございました」
 照れくささが感謝を上回って、ぶっきらぼうに頭を下げると、ホストは頬を膨らませた。一松と同じような年頃の筈なのだが、彼のその表情は職業柄か、随分と板についていた。
「アンタんとこの子を世話してあげた借りだってまだ返してもらってないのに!」
「それはあいつ自身の借りにしといてよ」
 一松は肩を竦めて言い返す。
「あの子の借りでもいいけど、班長さんには貸しときたいんだよね。価値がありそうでさ」 
 あっけらかんと言い放つ正直な彼の言葉に、一松は呆れも通り越して感心さえした。
「まあいいや。勝手に貸しとくから、また返してよ」
「この前お前んとこのあつしくんの夜逃げ手伝った借りで一つはチャラにしろよ」
 反撃のカードを切ると、ホストはぐっと息を詰めた。口を尖らせるものの、それ以上言い募らなかったということはそれで納得したのだろう。
 気の置けぬ仲であるホストとの掛け合いは、ぽんぽんとテンポよく飛び交う。ホストのそういうところが一松は気に入っていた。
「しょうがないなぁ、そういうことにしておくよ」
 生意気をいいながら、彼は両手に皿を持ってちゃぶ台に並べた。フライパンで焼かれていたきつね色のトーストと、黄身がふんわりと黄色い卵焼き、そしてよく冷えた牛乳が魔法のようにちゃぶ台に並んで、一松は目を見開いた。
「アサゴハン!」
 センセイが諸手を上げて歓迎する。
「いい匂いだな、トッティ君!」
「まともな朝飯だ……」
「もー、アンタ達普段何食べてるの? 自炊とかしてる?」
「さすがトッティ。飯まであざとい」
 一松が呆然と呟くと、ホストはふっと目元を綻ばせた。
「ちゃんと食べなよねえ。……いただきます」
 ホストのかけ声で、一松は手を合わせた。ちゃぶ台の四辺に四人が座り、顔をつきあわせて手を合わせている。同じ呼吸で四人はまずトーストに手を伸ばした。
 バターの染み込んだパンの香ばしさを食みながら、ふと空を見れば、鮮やかに青い空が窓いっぱいに広がっていた。すっかり夏が近い、目に痛いほど白い雲がゆったりと空を歩いている。
「今日はいい天気だな……」
 一松の口から、似合わぬ言葉が漏れた。天気の善し悪しを気にしたのは、何年ぶりになるだろう。
「そうなのか?」
 包帯を巻いたまま、右隣の彼が窓に顔を向ける。
「ああ。本当だ。晴れてる」
 ホストが窓を見上げ、目を細めて呟いた。隣人も同じように空を見る。眩しいのか、目を細めていた。
 一松は箸を持つ右手を胸元に当ててみる。
 確かに拍動する鼓動は、もう一松が継ぎの当てられたぼろ人形ではないことを主張しているようだった。
この一夜は一松を変えてしまった。
 それから、四人は空を見上げながら朝食を食べきった。
時折落ちる沈黙も心地のいい穏やかさで、一松は時折猫のように目を細めた。