ハッチポッチパッチとサファイアの眸の男 - 4/4

後章 Scatola di Schrodingerシュレディンガーの箱

「ハッチポッチパッチを呼べ」
 苛立った男の声で、自分の蔑称が聞こえて、一松はぎくりと肩を強ばらせた。
 一松がそこにいたのは全くの偶然だった。ただ、不穏な音を立て始めた機械を修理する為の設計図を事務室に取りに来ただけだったというのに。
 一松は楽園のような箱庭の平穏が終わったことを知った。

 与えられた二日の休みを信じられぬほどのんびりと終えて、この日一松は、いつになく満ち足りた気分で工場に出勤した。朝礼も打ち合わせも軽く終え、人生で一番といっても良い程の上機嫌でラインを見回っていた。体に残る鈍い痛みも気にならない。
 一松を蹂躙した工員達は怪訝そうな顔で一松を見たが、全て無視して終身名誉班長の仕事に従事した。一松の班員であるあの若者は、休日を終えても工場に出勤してきた。そっと視線を寄越して軽く会釈をした。それだけで、彼がやるべきことをなしたことを一松は知った。
 どうやら休日は工員達を活気づけたようだった。休日開けの憂鬱さはあれ、いつもの倦み澱んだ表情は多少人間味を増していた。納期を終えていつもの生産ノルマに戻り、工員達の顔に少しの余裕すら感じられる。
 一松はラインに目を配りながら、鼻歌でも歌い出したい気分だった。あの男に分け与えられた新たな鼓動に、確かにひっそりと心を躍らせていたのだ。
 だらしなく着崩した柄物のシャツを粋だと思いこむような道をはずれた男達が来るまでは。

 一松は咄嗟に音を立てぬよう息を潜め、事務室と応接室を直接繋ぐドアの隙間から応接室を伺う。事務室は応接室の左横にあり、一松の覗く隙間からは応接室が一望できた。息を殺して中を窺いながら、一松は自分の心臓が耳元まで競り上がってうるさく喚いているような心地がした。
「ま、松野終身名誉班長が何か粗相をしたザンスか?」
 事務室に隣接する応接間では、派手な豹柄のシャツの男が、オーナーに詰め寄っていた。椅子に座る工場長は困ったような顔をしている。豹柄のシャツの男の顔は死角になって見えなかったが、地位の高い幹部だろうと予想がついた。
 豹柄の後ろにはチンピラ崩れの組員が数人だらしなく居並んでいた。激しく音を立ててガムを噛むものや、たばこを喫んでいるもの、むやみに顎を上げて見下そうとしているもの。明らかに薬物依存が進行した目をしているものもいる。
「あのクソ野郎が、裏切り者だからだ」
 豹柄はドスの聞いた声でオーナーを恫喝した。
「ま、松野班長がダスか?」
 工場長が驚きに怪訝さを混ぜた声をあげた。一松も素っ頓狂な嫌疑に呆気にとられた。
「ああ。どうもおかしいと思ったんだよ。最初からあいつがあいつらを手引きしてやがったんだ。クソ継ぎ接ぎ野郎が一枚噛んでやがったんだ」
──何のことだ。
 一松は狼狽した。豹柄の熱り立りようは尋常ではない。気障野郎というのはあのマフィアの男で間違いはないのだろうが、一松が彼に会ったのはあの夜が初めてだ。手引きなどしようがない。
「俺たちだってバカじゃあねェ。おつむってもんがちゃんと在るんだ。騙くらかそうったってそうはいかねえんだよ。さもなきゃ、あれだけ痛めつけたあの男がピンピンしてる筈がねえ。あいつが裏切ったんだ」
 ピンピンしている?
 一松は不可解に陥りながら耳を澄ませた。豹柄は一松のいる場所にさえ漂ってきそうなポマードでぎらぎらと滑った角刈りの頭を指して鼻を鳴らした。押さえきれない激情で、言葉の端々に唾をとばしていた。
「これを見な。俺も改めて見たら目を疑ったぜ」
 豹柄はガムを噛んでいた男に指示して、鞄から一枚のファイルを引き出した。その紙を工場長とオーナーの鼻先に突きつける。
 一松は固唾を呑んでオーナーたちの顔を見守った。
「これは……」
 一松の場所からは死角になり、その紙の内容は見えなかったが、オーナーと工場長が目を丸くしたのが見える。
「これが確かな証拠だ。さあ、あのクソ野郎を出せ。命を救ってやった恩も忘れてこの様じゃあ、切り刻んで鮫の餌にしたって足りねェ!」
 男は怒りにまかせて机に拳を叩きつけた。耳障りな激しい音が応接室に響いた。
 オーナーと工場長が資料に目を通した後、目を見合わせる。
 一松は小さく息を吸い込んだ。
 どうすれば、いいだろうか。
 身震いしそうになる二の腕をかき抱く。恐怖する体と裏腹に、冷静な声が一松に囁いた。恐怖にかき消されそうになるその囁きに、一松は注意深く耳を澄ませた。
 一松の家にマフィアがいることはばれていない。奇妙な勘違いで一松を探しているだけだ。見つかれば殺されるが、一松を見つけてもあの男に危害は及ぶまい。
 そこまで算盤を弾いて、一松はごくりと粘り気の強い唾を飲み込んだ。からからになった喉に張り付いて、皮膚が剥がれるようだ。 
──死ぬことなんて怖くなかったはずなのになあ。
 一松はそっと自嘲してそろそろと立ち上がって、事務室のドアに向かった。応接室の前に見張りがいるような気配はなかった。
 工場長とオーナーは一松が出勤していることを知っている。彼らから自分を捜すよう触れが回るまでに工場を出なくてはならない。逃げなくてはならない。
「ま、松野終身名誉班長は、今日は休みザンス」
 一松は、耳を疑う台詞にドアノブにかけた手を止めた。間の抜けた疑問視が口から飛び出そうになって慌てて口を押さえる。
「なんだと?」
 豹柄の怪訝そうな言葉と、一松の内心が計らず合致した。
「そうダス。松野班長は、納期開けで今日はお休みダス」
 工場長がオーナーにきっぱりと口裏を合わせて、一松は更に面食らった。例の朝礼前の打ち合わせで、一松は二人としっかり顔を合わせている。
──工場は竹里組を見限った。
 一松は即座にその結論に達した。その理由は一介の班長である一松に計り知れるものではなかったが、ピーノ・ファミリーとの何らかの関わりがあるだろうことは察しとれた。
 一松は音を立てぬようにドアノブを回し、廊下を駆けだした。廊下の窓から玄関を覗くと、白いバンが扉を塞ぐように停められていた。
 表口から身を隠すように、配管が剥き出しになっている外へ出る。空はどんよりと重く垂れ込み、湿気た雨の匂いを風が運んでいた。
 このまま建物の隙間を縫って、外に出られるだろう。
 そう思った一松が、普段は使わない倉庫の角を曲がる。
──一松は忘れていた。普段使わぬこの倉庫の陰は、サボタージュした工員たちの格好の隠れ場所であったこと。そして、工員の中に竹里組との繋がりがあるものがいたことを。
 

 角を曲がった瞬間に、熱さに酷似した衝撃が頭を揺らした。一瞬白んだ視界が傾いでいく。一松は気がつけば地面に頽れていた。
 数人分の靴が一松の視界に入り、しくじった事を覚った。
「丁度いい。探してたんだよ、班長さァん」
 嘲りとともに脇腹を蹴られて、蛙の潰れたような声がでた。納期明けのあの日に、一松を嬲ったムショ帰りの男とその取り巻きだった。
「──オジキを呼んでこい」
 男が命じれば、腰巾着が数人駆け出した。
「お前を差し出しゃ、俺はこんなゴミ溜めからおさらばさ」
 男は下卑た笑みを浮かべた。
「離せ、クソ野郎っ!」
 激痛と眩暈を堪え、床に爪を立てて男から離れようとする一松を、男の足が乱暴に縫い止めた。踏み付けられた背中が痛い。
「ざまあねえなァ。いつも偉そうに命令しやがる班長さんが這いつくばってよォ。ふんぞりかえりやがって、気に食わなかったんだ」
 男はけらけらと笑って、背中にさらに体重をかけた。もがく虫にピンを刺す少年のような、遠慮のない残酷さ。
「がッ……! 死ねよマジでクソが!」
 一松が絶叫に近い声で罵るが、男はへらへらと笑うだけだった。
「久しぶりだな、ハッチポッチパッチ」
「ああ、オジキ」
 オジキと呼ばれた豹柄は這いつくばった一松を見下ろした。
 果敢に顔を上げた一松は、豹柄の目を睨み返す。一松はその目を真正面から見てしまった。薄いサングラスの下の酷薄な目は、一松の人生の中で最も陰惨な日々の象徴だった。
「名付け親の顔も忘れたか?」
 目を見開いて、がたがたと震え始めた一松に、一松を踏みつけていた男は怪訝そうな顔をしていた。そんなこと、一松の視界には入っていなかった。
「あ、あっ……」
 雷のような峻烈な恐怖が一松を支配した。忘れたはずのあの日の自分が一松の奥底から鮮やかに蘇ってきて、一松の体を縛り付ける。
 一松はこの男を知っている。
「威勢がいいな。初めてお前の皮を剥いだ日のことを思い出すよ」
 豹柄は口元を残虐な愉しみに歪めて、一松の顔の前にしゃがみこんだ。横暴に顎を掴み上げて、豹柄は一松の目を覗き込んだ。
「俺の車で高校まで迎えにいってやったよなあ。お前のお父さんに、慈悲を与えさせてやったなあ。そしてお前の命を救ってやった。覚えてるだろう?」
──忘れるはずがない。
 声にならない悲鳴をあげて、一松は逃れるように思い切り身を捩った。暴れる一松に、背中の足が外れる。一松は犬のように荒い息で、縺れる足を必死に動かした。めちゃくちゃに駆けてあの男から離れようと藻掻いた。配管の下を潜り、タンクの横を抜けて、忌まわしい過去から逃れようと足掻く。
「おいおい、生きがいいな」
 背後から面白がるような声が追いかけてくる。忌まわしい過去は人の皮を被って悠々と闊歩している。
「あっ、松野班長!」
 タイプライターのような軽い射出音がしたのと、あの若い班員が一松を見かけて声を掛けたのは、全くの同時だった。
 班員が目を丸くして手を伸ばしているのが、ひどく間延びして見えた。
 何本もの赤く灼けた鉄杭に、体中を串刺されたような激痛。そして体を抉られるような衝撃。一松の目は限界まで見開かれた。特に脇腹に感じる熱さに、咄嗟にその箇所を手で抑える。心臓が激しく脈を打つ。足がついに縺れた。身体が地面に向かってゆっくりと落下していく。
──一生懸命に生きていたんだな。
彼の慈しむような声音が耳元ではっきりと蘇った。
 アスファルトの黒い地面が迫る。
 闇に沈む彼のサファイアの眼差し。おかえり、ただいまの低く柔らかな声。ころころと変わる彼の豊かな表情。
 松の木は歪んでいる方が価値があるんだよ──隣人の哲学的な言葉。怪我を親身に見てくれた隣人の、狂った昼間。
 がつんと拳を付き合わせた、血と泥に塗れたホストの晴れやかな顔。
闇を切り裂いた白い光線。スタジアムの夜空に飛んだ、野球選手のホームラン。
 どす黒い血を吸い込んだ、四号機。
 毎夜のように蹂躙され、変わらぬ激務で倦み疲れたライン作業。使い古しの雑巾を見下ろすような男たちの無機質な顔。
 冷たくなる体。のたうつ痛み。膿の匂いのする自分にたかる蝿の羽音。切り裂かれたぼろ雑巾。
 蹴り飛ばした重たい木箱。憎しみに駆られた父の顔。無理矢理乗せられた車に纏わり付いた煙草と消臭剤の混ざった匂い。帰れない日常。
 嬲り殺された六匹の猫。親猫にまとわりつく六匹の子猫。
 深い靄のかかった記憶のその向こう。
「みんな、みんなあ! 死ぬなよ、生きてろよ、おれが助けるからな! おれが助けを呼ぶからな! それまで生きて待ってろ!」
 聞き覚えのある、懐かしく頼もしい子供の声。顔に血が流るのも構わず、その背が道路の向こうに去っていく。大丈夫、みんな生きている。なら僕も生きていなくては。
 その背を見守って、一松は重たい瞼を閉じた。一松の手を握りしめるまろい手のひらが震えている。その手のひらの主が、涙をこぼしながら一松に呼びかけた。
「いやだ、死ぬな一松! いやだぞ、なあ!」
──眠いだけだよ、大丈夫。心配性だなあ、お前は。
 一松の耳に聞こえる苦痛に満ちた汚い悲鳴が誰のものかと思えば、自分の喉からのものだった。
 アスファルトに強かに叩きつけた額の音が、廊下に響いた。視界がぐるぐる回り、意識が遠のきかける。
 傾いだ体が床に落ちる、ただそれだけの時間だった。濁流のような半生が一松の脳裏をかけずり回ったのは。
「はんちょ……っ」
「あ、ぐっ……っ!」
 声もなく慄いた若者に、一松は遠のきかける意識を無理やり引き戻した。若者に向かって一松は手を振った。なけなしの義侠心が、一松を限界まで動かしていた。
「離れろ……、早く」
「でも、班長……っ」
 若者はひどく狼狽えていた。視線はうろうろと方々を彷徨い歩き、それでも一松の側を離れようとしない。さざなみのように一松の意識は引いては返し、眠気のように脳を蕩かしていく。
「行け……っ」
 一松は、我ながら鬼のようだと自負する一睨みで若者に歯をむき出した。
 ひ、と小さく悲鳴を上げた若者がきびすを返してどこかに駆けていく。若者が去っていく方向とは逆側から、革靴がアスファルトを叩く靴音が聞こえてくる。
 一松の意識は、そこですとんと闇に沈んだ。

「おら、起きろ」
 顔に水をかけられて、一松は覚醒を強いられた。頭ががんがんと割れるように痛みくらくらと揺れていた。手足は冷たいというのに、わき腹は焼きごてを当てられているかのような激痛を鼓動の度に一松に主張していた。上半身の作業着が脱がされて、生ぬるい空気が直接肌に当たる。横目で確認すれば、腹部の傷は銃口が掠っただけだったらしい。血は止まっている。しかし、体中の痛覚がシグナルを騒ぎ立てていた。
 一松の両腕は後ろ手で椅子に結わえ付けられ、足も椅子の前脚に縛られていた。身動きのできない状況で、暴力を待ち受ける状況はぞっとしないものがある。
 しかし、その痛みと水の冷たさが、気を失う前、パニックに陥った一松の頭を冷やした。
──ああ、情けねェ。結局捕まっちまったじゃねえか。
 一松は彼らに知られぬように息を吐いた。工場長とオーナーの奇妙な気遣いを無にしてしまった。
「やっと起きたか。ハッチポッチパッチ」
 一松の前髪を掴みあげて、豹柄が一松の顔をのぞき込んだ。
 この豹柄は、かつて一松を捕らえた男だった。高校から連れ出し、継ぎ接ぎだらけになって生き延びた一松を面白がり、「ハッチポッチパッチ」とあだ名を付けて工場にたたき込んだ張本人だった。工場に入ってから、借金の返済は賃金から直接さっ引かれ、会うことがなかったから忘れていた。否、忘れようとしていたのだ。あの男は、一松の忌まわしい過去の象徴だった。
 視線を動かして周囲を見回す。見覚えのある事務室だった。竹里組のオフィスの一つだ。何かの契約にサインをするときに、ここに連れ込まれた記憶がある。
 豹柄の他に、先ほど応接室にいた男が四人と、他の下っ端らしい構成員が揃って薬物でこけた頬と青い唇でにやにやと凶器を弄んでいた。
「何のよう、ですか」
 目の前の豹柄を伺うと、豹柄は忌々しげに一松の頬を張り飛ばした。
「しらばっくれんじゃねえ。テメエ、ピーノ・ファミリーのスパイだろう」
「ピ、ピーノ・ファミリーなんて知らな、知りません」
 本心から否定するが、思いこんだ豹柄にその訴えが届くとは一松も思わなかった。案の定、豹柄は一松の訴えを鼻で笑い飛ばした。
「こっちには証拠があるんだよ。なあ、おい。どう落とし前つけてくれるんだ? てめえの所為で、うちのシノギが潰されてんだよ。一昨日のでもう半分だ!」
 唐突に激高した豹柄がオフィスの机を蹴り飛ばした。机の上に積まれていた乱雑な書類がばらばらと床に散る。
「あのときに、仕留め損ねたのがケチのつき始めだ。バケモノが。目を潰して撃ち殺したはずなのに、なんで生きてる」
 豹柄がぶつぶつと愚痴を連ねる。追いつめられた狂気を妊んだ男の口調に、一松は肌を粟立たせた。正気とは思えない様子だった。怯えを払うように口を開く。
「俺を、どうする気なの」
 豹柄の首だけがぐるりと回って一松を見据えた。品定めをするような視線に一松の胃の腑が縮みあがる。豹柄は奥歯を鳴らしながら一松の鼻先に顔を突きつけた。
「言っただろう。ハッチポッチパッチ。裏切り者には、死だと。お前の父さんもそうやっておまえに殺されたんだろう」
「お、俺は組のもんじゃねぇだろう」
「黙れェッ!」
 恐ろしく激高した豹柄が、唾をとばして一松の剥き出しの腹を蹴り飛ばした。わき腹の銃創に響いて、一松は汚い悲鳴を上げた。
 豹柄は、舌をつきだして荒い息を吐いていたかと思うと、机の上に散乱していた注射器を手に取った。捲り上げられた腕に見える、夥しい注射痕。
 売人自身が薬物に手を出したのかと、一松は愕然と豹柄が注射器を腕に刺す姿を見ていた。
 それは失望にも似た驚きだった。絶対的な強者として一松の人生を狂わせた男の惨めな姿は、一松の恐怖心をぬぐい去るには十分だった。
 豹柄は息を詰めて、深いため息を吐き、恍惚とした表情を浮かべる。周りの男たちはにやにやとぼやけた笑顔で薬物を打つ豹柄をただ見ていた。
 荒い息を整えた豹柄は、打って変わって愉しげに一松の目の前で注射器を振った。鋭い銀色の針に一松の血の気が引く。
「──ああ。冥途の土産におまえも一本やっとくか?」
 一松は頭がもげそうなほど激しく首を横に振った。視線は無色の先走りを垂れ流す針の先端に釘付けになっている。
「そんなボロッキレにそんな上等のやつはもったいねえでしょう」
「そうそう、冥途の土産にゃあ、鉛玉で十分ですよ」
 指先で凶器を弄ぶ取り巻きが、調子よくやんやと囃し立てる。あからさまなごますりに、豹柄は気を良くしたようだった。
 この空間が修復のしようもなく壊れきっていることを、一松は理解した。どぶの底にこびりついたヘドロよりも醜悪な、人とも呼べぬ薬物の奴婢が、雁首を並べて享楽に浸っている。もはや一松など目に入っていないような、刹那的な浮かれようだった。
──なるほど、工場長とオーナーが見限る訳だ。
 かつてここに引き立てられてきたときの、膝が震えて吐き気がするほどの恐ろしさの余韻など、もはやどこにも見あたらなかった。
 一松はしばらく彼らを睥睨していたが、痺れを切らして声を掛けた。
「俺をどうしたいんですか」
 豹柄が、一松を奇妙な目で見下ろした。暫く思案した末に、一松の額に銃の形をした指を突きつけた。
「そりゃ、テメエを拷問して、情報を手に入れて、さくっと殺して、あいつらに首を贈ってやるんだよ。あいつらのやり方に合わせてな」
「なにを勘違いしてンのか、マジで分かンねぇんですけど。俺はピーノ・ファミリーと本当に無関係ですよ。拷問したって何も知らねえし。なんにもならねぇことを請け合います」
「まずは前みたいに皮を剥ぐか。そろそろまた肝臓を切ってもいいんじゃねえか? 再生したろ」
「だから、俺はなにも知らねえんですって!」
 一松が吼えると、豹柄はどろりと倦んだ表情で一松の首に手を掛けた。なにを失言したのか一松には見当がつかないが、豹柄の琴線に触れてしまったようだった。先ほどの上機嫌はジェットコースターのように下降し、怒気をはらんだ不機嫌さで一松の首を絞めた。
「前からお前のその気取った顔を、ぐちゃぐちゃにしてやりたかったよ。組の命令がなけりゃ、殺してやったものを。……いつもいつも、お前はどうして諦めねえ? 何故お前はまだ生きてんだ? 気に食わねえ。気持ちが悪ィ。死んだ方がマシな人生してる癖によォ……」
 豹柄が何を言っているのか一松には皆目見当が付かなかった。一松は全てを諦めて生きてきた。期待を持つことさえ止めて、ひたすらに呼吸を止めぬようにぬかるみを這いずって生きてきた。
──死んだ方がマシな人生にしたのはテメエらだろう!
 こみ上げた怒りに、一松は豹柄を睨みつけた。
「その顔が気に食わねェ!」
 一松の首を絞める力が強まる。何かに取り憑かれたかのように、ぶつぶつと不可解な怨嗟をまき散らしながら、豹柄は一松の首をぎりぎりと絞めた。
「あ、がっ、ぎっ」
 もがく一松の獣のような声に、取り巻きが嘲笑う声が遠く聞こえる。
「言えよ、折れろよ。知ってること全部吐け。さもなきゃこのまま絞め殺す」
「し、ら、ないっ……っ」
「ピーノとはどういう関係だ。あの幹部の目的はなんだ。あいつらの拠点はどこだ!」
「わ、がんね、えよッ」
──マジで知らねぇっつってんだろうが!
 内心で口汚く罵りながら、酸欠に喘ぐ。
 一松の知っていることなど、彼らの捜すピーノ・ファミリーの幹部が自分の部屋で今頃自分の帰りを待っているだろうことだけだ。
 その事さえ、なけなしの無駄でしかないプライドとこみ上げる怒りに便乗した反抗心が一松の口を塞いだ。この悪癖さえなければ、一松の人生はもっと楽だったかもしれぬ。
 だが、一松は彼らに命乞いをする気が、もはやさらさらなかった。
 ほんの一ヶ月前の自分ならば、居きるために彼らの足下に跪き、命乞いをしただろう。以前彼の靴を舐めたことさえある。なけなしのプライドを折り、知っていることをすべて話しただろう。
 それが今、一松にはどうしても出来なかった。まるで人間のような意地を張りたかった。死という絶対的な恐怖さえ乗り越えようとしているようだった。
 呼吸を求めて喘ぐ体と乖離して、一松の思考は恐ろしく穏やかになりつつあった。
「チッ。クソガキがいきがりやがって」
 豹柄は忌々しげに手を離した。肺に入ってくる空気に咳込む一松の額に、堅い銃口が突きつけられた。冷たい鉄の感触が額からじっとりと伝わる。
「話さないなら撃つ」
 銃口が一松の体の中心を彷徨いた。
──誰が言うかよ。喋っても殺す気のくせに。
「足。手。腹。胸。何発でお前は死ぬかな」
「なにも、知らねぇんだよ。本当に」
 銃口が脇腹の傷を抉り、一松は苦渋に満ちた悲鳴を上げた。
 逃げられぬ死神の足音が、ひたひたと背後に迫っている。命を刈り取る鎌の切っ先がもう一松の喉元に迫っていた。それが分かる。
 それなのに、あの夜、彼に突きつけられた銃口を前にして感じた寂しさも感じなかった。不思議と満ち足りた気分だった。
 泉から水がわき出すように、思わず頬が緩んで、口元が綻ぶ。
 豹柄が気味悪そうに一松の笑顔を見ていたが、一松は気にもならなかった。
 自分の命が尽きたとしても、彼や隣人や、ホストはあの青い空の日を覚えていてくれるだろう。一松は、意地を張り、プライドを持ち、たった一つの思い出の為に命を懸けることが出来る人間になってしまった。
「気が狂ったんじゃねえのか。もう殺しましょうよ」
 豹柄と同じような顔で一松に怯えた取り巻きが催促した。
 撃鉄が、かちりと軽い音を立てて起こされる。引き金を引き絞る。銃口の黒い穴の奥で、死神の目に射すくめられているような感覚がした。
 一松は、死神から目を逸らして、しっかりと目を閉じた。
 銃声を待ち受ける。生きる時間が黄金のように光るような感覚。
 しかし、引き金が引かれる直前、見計らったように凄まじい破壊音が、事務所の中に響きわたった。
Buona seraこんばんは!」
 直後に、良く通る、挑戦状を叩きつけるような声が事務所に転がり込んだ。
「アンタ……っ!」
 蝶番を壊し、吹き飛んだドアの向こうに、俯いたまま凄まじい殺気をほとばしらせるのは、何も知らず、家で寝ているはずの彼だった。
「テメェは、ピーノのっ!」
「──ピーノ・ファミリー、Giappobe支部のカポは、この俺さぁ!」
 彼は勢いよく顔を上げたかと思うと、豹柄に銃口を向けた。目を覆う包帯は取り払われ、色調の変化した虹彩が爛々と露わになる。
「俺に用があるなら、直接きたらどうかな。Fifone臆病者!」
 地を這うような低い声と身じろぎもせず敵を見据える深く鋭い目付きの強さに事務所が支配された。
「班長を返してもらいに来たぜ」
「何でここにいるんだよ!」
 一松は彼に怒鳴る。彼は、ふっと気障ったらしく口角をあげた。
「班長さんのところのLittle Boyがホスト君のところに駆け込んだんだ。班長さんがヤバいってな。ホスト君が部屋に来てくれて、こうして助けに来ることができたわけさ。日本ではこういう言葉があるんじゃないか? 情けは人の為ならず、ってな」
 あのとき踵を返したあの若者が、その足でトッティの元へ駆け込んだというのか。一松は、思いも掛けない若者の恩返しに、一瞬呆然とした。
「さあ、命が惜しければ素直に班長さんを渡せ」
 右手で銃を構えたまま、左手で豹柄に促した。
「……一人で来たのか、ピーノの小僧」
 一松の額から銃口を動かさずに、豹柄が片頬を引き上げた。
 肌をぴりぴりひりつかせる、張られた弦のような緊迫感に、一松も緊張が伝染して強ばった。
「多勢に無勢。飛んで火にいる夏の虫だな」
 豹柄は優位を確信した笑みを浮かべる。豹柄の視線に応えて、取り巻きが彼に襲いかかった。
 彼はとげとげしく舌打ちすると、身を翻した。殴りかかってきた一人のナイフを持つ腕を握り、引き倒して鳩尾に膝を入れる。その男を放り投げるともう一人の左頬に拳をたたきつける。
 まるで踊っているような、鮮やかな動きだった。
 一松は、自分に突きつけられた銃口さえ忘れて、その動きに目を奪われた。洗練された動きで、銃を持った男の腕をへし折り、銃を奪った。床に弾を撃ち尽くして床に捨てる。あっという間に五人を叩きのめし、額に浮いた汗を拭った。
 残った数人は、彼の強さに警戒して、周囲に円を描く。
 彼は鷲のような鋭い目で、周囲を油断無く見回した。
 いつのまにか自分の視界から銃口が消えていることに気が付いた。
 豹柄の銃口は彼に向けられている。そして、彼はその銃口に気が付いていない。
 一松はほとんど無意識で動いていた。彼に向けられた拳銃と、引き絞られた引き金と、狙いを定めるためにゆらゆらと動くフロントサイトだけが視界に入っていた。
 スイッチを入れた機械がオートで動くように、自分が何をしているのか、考えもしなかった。
 ただ、とっくに手を縛る縄が緩んでいることだけが分かっている。
「テメエッ!」
 豹柄の焦った声が耳をすり抜けた。
 ぬっと手が銃に伸びた。銃身に触れた指先が、魔法のように動いてスライドの上を滑った。手首を返す。ものの三秒もせず、豹柄の手の中にあった拳銃がばらばらとみぞれのように床に降り注いだ。
 豹柄がざっと血相を変え、手の中に残ったグリップで一松を殴りつけた。パイプ椅子が床に倒れ、一松も床に放り出される。
「──俺を舐めンな」
 一松はニヤリと笑って、豹柄に中指を立てた。
 あれほど恐ろしかったのが嘘のように、一松は彼に対しての恐怖を失っていた。
「Bravo! 班長さん! だが無茶はしないでくれ!」
 豹柄が一松に気をとられた瞬間を見逃さず、彼は豹柄に椅子を投げつけた。ヒットした椅子が豹柄に勢い良くぶつかり、豹柄は崩れ落ちた。
「ヒヒッ」
 一松は喉をひきつらせて笑う。随分すっきりとした気分だった。
 最後の一人のみぞおちに拳をたたき込んで、彼がようやく振り返った。
「──無事か?」
 暴れ倒した息を整えて、彼は一松の側に膝を付いた。足の縄を解いてもらい、一松は凝り固まった筋肉をほぐした。
「体中痛いけど、生きてるよ」
「酷い怪我だ。……生きてて良かった」
 彼はほっと安堵のため息を付いた。
 包帯をとって、蛍光灯の下で剥き出しになった彼の顔を、一松はまじまじと見つめた。いつかどこかで見たことがあるような、既視感がむくむくと膨らむ。
「班長さん?」
 彼が小首を傾げた。
 一松の胸の中で膨らんだ好奇心と、やり遂げた爽快感が、一松を大胆にしていた。
「──ねえ、アンタさあ」
 名前はなんて言うの。
 そう訊こうと顔を上げる。
 だが、その言葉を口にする前に、目の前で苦悶の表情を浮かべる彼に一松は言葉を失った。
「っ、ぐうっ……っ」
 苦痛の滲んだ声に、一松は肝をつぶした。
「お、おい、お前、やっぱりまだ目が!」
 光から目を守るようにうずくまった彼の背を支える。その背後に、刃が迫っていた。
 彼が痛みに目を押さえた隙を突かれた。
「──っ!」
 彼の背後で振りかぶられたナイフが、蛍光灯を反射して白く光っている。咄嗟に伸ばした手で彼の体を抱き寄せた。割れたサングラスの下の、豹柄の鬼気迫る顔が迫る。
 彼に振り下ろされるナイフと、彼の間に体を滑り込ませた。一松はきつく目を閉じる。
 しかし、いくら待ってもナイフが一松に届くことは無かった。
「はい、それまでよぉ」
 とらえどころのない、のびやかな声が割って入り、肉と骨を殴打する独特の音が聞こえた。
「ははっ、吹っ飛んだ吹っ飛んだ」
 一松は目を開いて、その声の主をみた。
 ナイフを持っている豹柄を足一本で蹴り飛ばしたのは、彼と同じ顔で人を食ったような笑みを浮かべ、艶のある赤いシャツに三つ揃いのイタリアンスーツを着込んだ青年だった。スラックスのズボンに手を突っ込んだまま優雅に足をおろす。
「俺の大事な弟になにしてくれちゃってんのぉ」
「あ、兄貴っ!」
「ん? 俺、おじゃまだった?」
 彼の兄の目線で、いつの間にか彼の腕が自分の背に回されていたことに一松は気が付いた。
 一松は彼の背に回していた手を離すが、彼の手は一松の背から離れなかった。一松がどぎまぎしていることも知らぬ様子で、光から逃れるように一松の肩に目を押しつけている。
 赤いシャツの青年は、まじまじと一松と彼を見るとそっと目を細めた。
「一人で随分やっつけたねえ。安心していいよ、このビルはもう大丈夫だからさ」
「あにき、一人か?」
 光を遮断するように彼は一松の肩に顔を埋めたまま、彼の兄に問いかけた。
「一人じゃあないねえ。あ、入ってきていいよぉ」
 赤いシャツの彼の兄は、飄々と笑んで軽く手を振った。そのまま事務所の外に声をかける。
「班長さんっ! 大丈夫?」
「大丈夫!?」
 事務所の扉から顔を覗かせたのは、ホストと隣人だった。どちらの頬にも返り血がついている。
 一松と彼が驚いているうちに、彼の兄が隣人を呼んだ。
「センセ、一松とこいつの手当してあげて」
「まって、何で僕の名前……」
「全部後で話すよ」
 彼の兄はいたずら小僧のように白い歯を見せて一松に笑いかけた。その笑顔に呑まれ、一松はそれ以上食い下がることが出来なかった。
「さあ手当!」
 小走りで駆け寄ってきた隣人に、一松と彼が同時に声を掛ける。
「僕は、後でいいから」
「俺は後でいい」
 隣人は呆れ果てたようなへの字口で肩をきゅっとすぼめた。
「どっちも最優先だよ、バカ」
 隣人はいつになくはっきりした物言いで、一松と彼を小突いた。それでも、先に彼の処置を行うことにしたらしい。手早く包帯とガーゼを出し、手際よく彼の目を覆う。
 

 彼の兄とトッティは、事務所にある資料の山に向き合いながら話をしていた。
「ト……ええと。なんて呼んでほしいっていってたっけぇ?」
「トッティって呼んでよ。お兄さん」
 トッティは彼の兄にいつもの愛玩動物めいた笑みを向けた。苦笑した彼の兄は、トッティを手招く。
「この書類の中から、大事そうなやつ仕分けられる? 特に一松の債務の資料とかあるといいんだけど」
「いいよー。僕そういうの得意だし」
「だと思った!」
 彼の兄は顔を輝かせると、トッティの肩を軽やかに叩いた。
 そのまま彼は弾むように振り向いて、一松の目の前にやってきた。しゃがみ込んで一松と目を合わせる。
 一松をのぞき込むのは、黒々とした、マントルの底のマグマのような深い双眸だった。
 なにもかもを見透かされてしまうような目だというのに、何一つ彼への不快感はなかった。彼とよく似た、表情だけが違う顔は、どこか懐かしい。
「おい、手当の邪魔だよ」
 隣人が彼の兄を気安く小突く。すると、先ほどの神妙な表情ががらりと変わって小僧のように唇をとがらせた。
「へえへえ、すみませんねえ」
「あんたたちも、そろそろ手を離してもいいんじゃない?」
 隣人のじっとりとした視線に、一松は自分が彼に抱き寄せられたままだったことに気が付いた。羞恥で顔が赤くなるのを感じながら、慌てて離れようとすると、豹柄になじられた傷が痛む。彼の方が苦しそうな顔をするものだから、一松は呆れてしまった。
「……ああはいはい。どうぞお好きに」
「別にイチャイチャしてるわけじゃないぞ! これは班長さんをだなあ」
 彼が一松を抱えたまま、あたふたと弁明する。その慌てっぷりが見事で、一松は思わず吹き出した。
「ふ、ふっあはは」
「笑うなよお……」
 凛々しい眉を下げて彼が情けない表情を晒した。
 隣人と彼の兄は、そんな一松たちに、顔を見合わせていた。
 和やかな時間は、にわかに騒がしくなったビルの周りの喧噪で途切れた。
漏れ聞こえる車のエンジン音と、荒くれ者の罵声。トッティが窓の陰から覗いて、鋭い舌打ちをした。
「竹里組が総動員してる。バレたみたい」
「……さすがジャッポーネ、薬漬けで死にかけでも忠誠心は遺してるってわけね」
 彼の兄が、気絶していたはずの豹柄に冷たい目を向けた。
 半死半生の、一松とそう変わらぬ有様で豹柄はうっすらと目を開いていた。
「へ、へへへ……っ、ざまあ、みろや」
 携帯端末機を片手に、血だらけの豹柄が優越感に浸った顔をしていた。
 一松をはっきりと見つめて、目元を憎悪に染めた。彼の奥底に、いったいなにが渦巻いているのだろう。
「死んでしまえ──」
 花火のような軽い銃声が、豹柄の言葉と命を止めた。ぐにゃりと歪んだ笑顔のまま、脳漿と血を壁にまき散らして息絶える。
 一松が恐る恐る銃声の出所に目を向けると、彼の兄はまだ薄く煙の立つ銃を構えたままだった。表情は抜け落ちたように喪われ、だからこそ彼が受けた虚無感がひしひしと感じられた。
「あ、兄貴、っ」
 彼が何かを言おうとする前に、激しいガラスの割れた音が事務所に響いた。
 五人がその音の方を見ると、隣人が割れた窓の前でにっこりと微笑んでいた。
 ガラスを割ったのは、隣人だった。先ほどまで一松が縛り付けられていたパイプ椅子を、用済みだとばかりに床に投げ捨てる。窓の外の喧噪が夜風に流れて事務所に入ってくる。
「どうぞ?」
 なんでもないことのように、隣人は夜風の吹き込む割れた窓に彼の兄をエスコートしたい。
 呆気にとられていた彼の兄は、隣人とガラスを交互に見て、それから薄皮が剥がれていくように劇的に、虚ろな無表情を崩した。泣き出しそうな顔で笑み崩れる。
「かなわねえなあ……」
 泣いていないのが不思議なほどの声だった。その声を聞いた彼は、酷く驚いたようだった。
 彼の兄は、銃を左腹のホルスターに納めると、右から別の銃を取り出した。それを見送って、隣人は満足げに頷いた。
 肩越しにトッティに声をかける。
「トッティ君。そろそろいいかい?」
「うー、うん。あとこれだけ」
 紙の束を一抱え持ったホストは、散らばった床の資料を指さした。
「OK。上々」
「……すぐ戻る」
 包帯の巻かれた彼の顔が、一松を優しく見下ろした。
「ありがとう。頼む」
「言われずとも」
 一松はやりきった顔で戻ってきた隣人の膝に頭を乗せ、彼の背を見送る。
 彼は目が見えぬとは思えぬほど自然に彼の兄の前に佇んだ。
「俺が始末をつける」
「いいや、そんな必要なんてないよ。……俺ねえ、お兄ちゃんだから、弟の頼みを叶えてやれるのが、嬉しいの。今度こそ、ちゃんと守ってやりたいの。おまえの、大事なものも。俺の大事なものも。お前がやるのはこれだけだ」
 おそ松と呼ばれた彼の兄は、右のホルスターに入っていた銃をカラ松に差し出した。
「さあ! 兄弟、天を撃て!」
 おそ松は天井を指さして、芝居がかった口調でそう宣った。
 カラ松は、しっかりと頷くと隣人が叩き割った窓枠に足を掛けた。落ちぬように彼の兄が彼を支えた。
 彼は黒に金の彫金が施された美しい拳銃を天に向けた。まるで映画の一幕のような美しい絵に一松はほう、と息を吐いた。
「格好いいって思っただろう」
 隣人が笑いを含んだ声で一松をからかった。
「べつに……」
 彼が引き金を引けば、柏手を打ったような独特な破裂音が、天に登る。
 カラ松と交代で、窓枠に身を乗り出したおそ松は大声を張り上げた。
「戦争の始まりだ!」
 二人の背中は凛と張っている。それは確かに何かの合図だったのだろう。
 彼の号令に、どっと湧く窓の外の喧噪。怒号、打撲音。発砲音まで聞こえてくる。
 しかし、外の喧噪から切り離されたように、この事務所だけが穏やかな時間が流れていた。
──もう大丈夫だ。
 体の奥からわき出してきた根拠もない安堵感が、疲れ切った一松にじんわりと染み渡っていく。
 さざ波のように寄せて返す柔らかな眠気が、あらがいがたく一松に押し寄せてきた。頭を預ける隣人の膝に、沈んでいくような心地がする。
 黙りこくった一松に、彼がすがりつく。全く柔らかくもまろくもない手のひらが、一松の手を握りしめた。
「あっ、おい、なあ! し、死ぬなよ。いやだぞ、なあ!」
「──眠るだけだよ、大丈夫。心配性だなあ、お前は」
 全く同じことを、いつかどこかで言ったことがあるような、今と昔が二重写しになっているような感覚に、一松は眠気を覚ました。
 彼も、一松の手を握ってきょとんと驚いた表情を浮かべていた。
 一松と彼を見ていた彼の兄が、堪えきれないとばかりにけらけらと吹き出した。一松に膝を貸すチョロ松も吹き出す。資料を拾い終わったホストと、一松と彼が怪訝そうに笑う二人に目を向けた。
 彼の兄は、軽い身のこなしで、トッティにハンカチを渡し、メイクを取るように言う。くるりと回転して、隣人のメガネを外した。一松の作業帽を放り投げた。
 そうして、デスクの上に悠々と腰を下ろした。
「さあて、俺の優秀なソルジャーズは薬漬け組を叩きのめしてくれると思うからさ、みんなでちょっとお話しよっか」
 彼の兄は、何かを包み込むかのように両腕を広げた。
「俺はピーノ六代目セスト。オソマツ・ピーノ改め、松野おそ松。カラ松、一松、トド松、そしてチョロ松。会いたかったよ、弟たち!」
 彼の兄──おそ松は四人のばらばらな関係の人間を順繰りに見回して、満悦な笑みを顔いっぱいに浮かべた。その笑顔を見たのは、初めてではない。
──ぱちん、とバラバラだったパスルに、おそ松の手によって最後のピースが嵌められた。薄ぼんやりと白い霧の向こうにあった図柄が一松の前にくっきりと聳え立っていた。その横に、六人が同じように並んで完成したパズルを眺めていた。六つ子の兄弟、同じ遺伝子を分け合って生まれた、唯一無二の共同体。
 長男のおそ松。三男のチョロ松。四男の自分。末弟のトド松。五男は、自分とトド松が懸命に応援していたあの十四松選手。
──そして、彼は次男のカラ松に相違なかった。
 一松は夢を見ているような、はたまた夢から目覚めたような気持ちで周りを見回した。
 それは他の二人にしても同じだったようで、まるで初対面のように、あるいは長い別離を経た家族として顔を見合わせた。
「似てるとはさあ、思ってたんだよね」
 と、トッティ──トド松が呟いた。
「この、契約書とかさあ」
 トド松が腕に持った契約書をひらひらと振る。その証明写真の中で仏頂面をしている高校の頃の一松は、たしかにトド松ともカラ松とも、隣人──チョロ松とも、おそ松とも鏡写しだった。なるほど、これを見たから、一松をスパイだと思ったのだろう。
「チョロ松は知ってたよね」
「まあね。お前が居なかったのが堪えたよ。おそ松」
「そういえば、せん──チョロ松兄さんはいつ正気に戻ってたの?」
「正気の俺だってちゃんと俺の中にいたよ、一松。はっきり人格が統合したのは、ついさっきおそ松に呼ばれてからだけど」
 チョロ松は照れくさそうに頭を掻いた。
「なんで忘れてたんだろう……」
 トド松が不思議そうに兄弟たちを見回して呟いた。
「……あのときの話をしようか」
 おそ松は話し始めた。
「もう覚えてると思うけど、あの日俺たちは父さんと母さんと一緒に旅行に行こうとしてた。……あの事故が起こったのは、本当に偶然だった。長雨で緩んでいた地盤からの土砂崩れだ」
 鮮明に、当時がよみがえってきた。震える手のひらを、カラ松が握る。
「車は崖から転がり落ちた。父さんと母さんが俺たちのことを命懸けで守ってくれたから、落ちた車から這いだすことができた」
「──そう、あのとき動けたのはおそ松兄さんだけだった」
 トド松が夢うつつのように言葉を引き継いだ。
「だから、おそ松一人が助けを呼びに行ったんだ。俺と一松とチョロ松とトド松は、頭を打っていて動けなかった」
 カラ松がさらに引き継ぐ。
「十四松は足が変な方向に曲がっていて、おそ松兄さんには付いていけなかった」
 一松も、自ずと口が動いていた。
「──そう。俺はお前等を置き去りにして助けを呼びに行った。森の中を走って、何故か森の中に停まっていた高級車に助けを求めた。……なかなか信じてもらえなくて。やっと信じてもらってその人たちを事故の現場に連れて行ったときにはもう、みんな別々に搬送されていた。俺は、そのまま、イタリアに拉致されて、その人の養子になった」
 おそ松は小さくため息を吐いた。チョロ松がおそ松に促されて口を開いた。
「俺は、記憶を失った訳じゃなかった。でも、養子先で梅之宮晶に改名させられたんだ。変な名前だったら虐められるからって。それから、その名前で呼ばれるたびにどんどんと俺とアキラが乖離していった。結局あんな感じになったんだ」
 チョロ松の話を継いだのはトド松だった。
「僕は、頭を打って記憶が全部無くなってた。病院の後すぐに施設に入って貰われた。中学を卒業するころに、家に妹が生まれたんだ。……その妹のために、高校卒業と同時に家を出た。……記憶がないことも、今の今まですっかり忘れてたよ」
 トド松がカラ松の肩をつついた。
「あ、お、俺は、世界中を回るAttoreに手伝いとして貰われたんだ。役者というか、ほとんど本職が詐欺師だったんだけどな。すぐにマドリードに渡って、暫く世界中を巡った。イタリアで、クスリに手をだして、ピーノ・ファミリーに粛正されたんだ。……ごめんな、兄貴」
 カラ松の手が、小刻みに震えている。一松は応援するように彼の手を握った。
「へっ」
「……ずっと謝りたかった。お前にオヤジを殺させてしまったこと」
 おそ松は目を見開いて素っ頓狂な声を上げた。
「それ、俺の台詞だろぉ? お前のオヤジさんを、俺のわがままで殺したんだぞ」
「でも俺の命を救ってくれた」
「……俺のこと恨んでないの」
「感謝こそすれ、もう恨んでない。お前のおかげで、一松とも、みんなともまた会えたから。おそ松こそ、俺のこと……」
 カラ松の贖罪は、勢い良く飛びついてきたおそ松の抱擁で途切れた。
「カラ松ぅ、カラ松ぅ!」
「ごめんな、おそ松、ありがとう!」
 両目からはらはらと涙をこぼしながら、二人は今までのわだかまりを溶かすように肩を組んだ。
 トド松とチョロ松がやれやれと視線を交わしあった。
 一松はカラ松をそっと窺った。目を包帯で巻かれた彼に、視線が絡むことがないのが幸いだった。
 脳裏に浮かぶ、あの夜の柔らかな手のひらが、心臓を握りつぶす手にすり替わる。
 変わらず握っていた手を、一松はするりと解いた。
「一松……?」
 カラ松の不安げな声に、一松は応えるすべを持たなかった。
「……カラ松兄さん」
 ひさしぶりに舌で転がした呼び名は、舌にしっくりと馴染んだ。 
 その事が、何故かひどく衝撃的だった。

 結局、一松は工場勤めを続けている。
おそ松から衣食住を保証するからイタリアに来い、来なきゃ嫌だという魅力的な誘いがあったが、その代わりに工場の風紀の更正と、工員の待遇の改善を願い出た。
 一松がこの工場で働き始めてもう長い。辞めるには人生の大きな割合をここに割き過ぎていた。それになにしろ、一松は終身名誉班長である。
 訊けばオーナーと工場長は、やはりおそ松と取引をしていたらしい。一番の取引先となったピーノ・ファミリーはその権限を振りかざして工場を少々強引に改革した。
 そのおかげで、一松はまだ日がくれて間もない時間に家路に着くことができる。
 あの日、そのまま十四松の家に招かれて兄弟水入らずの日々を一松の怪我が治るまで続け、両親の墓参りにもそろって行った。
おそ松はそれぞれの進む道を選ばせた。その日以来、一松はカラ松とは会っていない。
 あの日の別れから、一度も点くことはない家の電気は、一松の心のようだった。暗くて、よそよそしい。あの夜の慕わしさを兄弟に感じる罪悪感が一松を責めたてた。
「チョロ松兄さんももう引っ越したしな……」
 さっさとおそ松の勧誘の手を取って、引っ越していった兄の姿を思い出して少しうらやましく思う。
 あの人ほど一松は身軽ではなく、あの人ほど切実に、気が狂うほど兄弟を求めていたわけではなかった。今となっては、欠けていたピースがはまった充足感で心がゆったりと安定しているが、ピースが欠けていることさえ一松は知らなかったのだから。
 トド松は、おそ松に学費を立て替えて貰って専門学校に通い始めた。十四松と再会して、滂沱の涙を流していたトド松は、十四松付きの整体士になりたいと、きらきらと大きな目を輝かせていた。「マフィアに金を借りるなんて闇金より恐ろしいね!」などと宣うが、今までの彼を知っている一松が驚くほど彼は生き生きとしていた。
 夏の盛りのうだるような暑さの和らいだ黄昏時の道を、一松はとぼとぼと歩きならトタンの立て詰まった路地を曲がる。いつものように暗い部屋を見上げようとして、一松は目を疑った。
 口がぽかんと半分開いたまま、自分の部屋を凝視する。
──なんで明るいの。
 可能性が、脳内を暴れ回った。
 生まれたばかりの心臓が早鐘を打ち鳴らして、体中の血液が沸騰するようだった。
 自分でも理解しきれない情動に突き動かされて、靴音の鳴り響く階段を全速力で駆け上がり、自室のドアの前にたどり着いて、立ちすくんだ。
 立て付けの悪いドアの隙間から洩れる灯りに、身が竦んだ。
 ドアノブに手を掛ける。いつもの冷たさに、唾を呑み込んだ。
──誰もいなかったら。
 自分が電気をつけっぱなしにしていただけかも知れない。もしかしたら、トド松が来ているのかも。
──あの人がいるはずない。
 耳元で囁かれるようにはっきりと再生された自分の思いに、はっきりと自覚した。
 分かってしまった。自分が何を待ち望んでいるか。
何故、これほど自分が緊張しているのか。
 この明るさを一松は知っているからだ。扉を開いた先にいる、彼の声をはっきりと覚えているからだ。
 期待すればするだけ、たたき落とされる人生だった。体も、心も切り刻まれた継ぎ接ぎのごった煮で、痛めつけられ、歪ませられ、それでもしぶとく生きてきた。歪んだ松の木が折れることがないように。おそ松の遺した言葉と、カラ松のあの泣き出しそうに一松の手を握る顔が、一松を生かしてきた。
 期待など縁遠いこの自分が、今、このドアの向こうに切望していた。
 重たい腕を上げて、ドアノブに手をかけようとしたときだった。
「班長さ──一松」
 ぎい、と蝶番をきしませて、向こうからドアが開いた。
 仕立てのいいイタリアスタイルのスーツに、皺一つない青いシャツを着たカラ松が驚いた顔からかわらない一松を見て、くすくすと笑った。
「おかえり、一松」
 カラ松は、目を細めて、頬に赤みの差した、照れたような顔で一松に微笑みかけた。
「……ただいま、カラ松」
 一松の噛みしめるような応えに、果たして気が付いただろうか。
 生まれて始めて、自分の望みが叶えられた瞬間に一松は今、立ち会っていた。
「入らないのか? 約束通り、イタリアンを用意したんだ」
「あ、うん」
 一松は敷居をまたぎ、玄関に入って後ろ手にドアを閉めた。
「なあ、カラ松」
「なんだ?」
 廊下を行く彼が、肩越しに振り返った。
「あのさ……」
 一松の声は、砂漠の旅人のように切なく渇いていた。
──ねえ、カラ松。僕はお前とあの夜のように、ずっと一緒にいたいんだ。
 脳内を駆けめぐるばかりで口から出てこない渇望に、一松は項垂れた。
「一松」
 促すような声音に顔を上げると、カラ松は一松の顔をのぞき込んでいた。
 すっかり良くなった目は、虹彩の変色だけをのこして大事ない。
黒からサファイアに変質して定着した彼の目が、一松をまっすぐに見つめた。
とろりと蕩けたサファイアの切ない視線に、一松は釘付けになった。
「……なんでもあげる」
 わかっているのか、いないのか。それでもカラ松は、全て理解しているような顔で、あの日と同じ温度の手のひらで一松の頬を挟み込んだ。
「なんでも、お前の望むままに。一松」
「本当?」
 カラ松は頷いた。
 その言葉に嘘は感じなかった。
 それだけで満足だった。
初めて重ねた唇は、手のひらよりも深く繕われたばかりの一松の中に潜り込んだ。

 

ハッチポッチパッチとサファイアの眸の男   完

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