幕間 Volo Rossa
父に突きつけられたその銃口は震えていた。
まだあどけなくまろい輪郭を残す、鏡写しの顔が血の気を失って真っ青だった。
色褪せた唇が声も無く誰かに許しを請うように動いた。父は、愕然と目を見開き、銃口の中の暗闇を見ていた。もう助からないと、カラ松でさえ分かっていた。父は動けぬように拘束されて銃殺刑を待つ死刑囚だった。カラ松も死刑囚の息子として、拘束されて処刑を待っていた。荒縄で後ろ手に縛られ、足も動かせぬように縛られている。同じ顔をした兄弟が必死に止めねば、カラ松は先に地獄への切符を手にしていただろう。
父はやりすぎたのだ。手を出してはならぬ領分に手を突っ込んでしまった。
父はよく言っていた。深入りはするな、欲をかくな。俺たちは浮き舟だ、空っぽになって世界という海を浮かび漂って生きるんだ、と。
それでも、深入りしてしまった。情という名の恐ろしい手に暗い海の底に引きずり込まれた。
死は免れようもなく、父の前に迫っていた。その死をもたらす死に神は、自分と同じ顔をした兄だった。カラ松を見逃すためには、兄が父を殺さねばならなかった。信じたくもない悪夢のようだった。
「Daddy……」
思わず呼ぶと、銃口を見つめていた父の視線がカラ松の方に流れた。目の端に浮かぶ涙、笑みの形になり損ねた、歪な白い唇。敬愛した父は、自分の前で父であろうとし続けていた。安宿の黄色いランプに晒された父のその顔は強くカラ松の記憶に残っている。
「なあ、浮き草になりそこねたな」
芝居がかったその言葉が、父の最後の言葉だった。そのまま頭を垂れて、父は黙った。
「殺せ、おそ松。俺のための覚悟を見せてみろ」
兄の父が冷酷に兄に命じた。
「Va bene,Papa」
軽薄さを装った、微かに怯え震える兄の返答。その震えに気がついたのは、きっとこの小さな部屋で自分だけだった。
「待って、殺さないでくれ! おそ松! やめてくれ! 頼む、お願い、殺さないで……!」
咄嗟に日本語で兄の名を呼ぶと、兄は目を見開いて自分を見た。
「……覚えてるの」
そして、それは彼に覚悟を決めさせてしまう言葉だった。彼は一瞬で動揺を殺し、引き金に人差し指を掛けた。両手でグリップを握りしめる。黒地に金の装飾の荘厳な銃。間接が白くなるほどの強さで、兄は照準を定めた。
「ごめん。お前は許さなくていいよ、カラ松」
柏手を打つような独特な発砲音。目を開いたままの兄の頬に、父の血が飛び散った。ばちばちと父の後ろにあったテレビが撃ちぬかれて放電している。黄色いランプが赤く白く飛んで跳ねて明滅して、目が眩むようだった。
「良くやった。流石は俺の息子だ。その銃は記念にお前にやろう。そのガキもだ」
兄の父が満足そうに笑って、兄の頭をかき混ぜた。自分は呆然と絶命した父と、はにかんでみせる兄を視界に納めていた。涙さえ出なかった。
兄の父と、兄の父の部下が去っていく。兄は、表情の読めぬ顔でじっと父を見下ろしていた。
張り付いた指を引き剥がすようにして、兄は銃のグリップから手を放した。頬の血を拭う。壊れたランプが、鮮やかに赤く彼を浮かび上がらせた。その瞬間、ほんの刹那、ぞっとするような無表情が兄の顔に張り付いていた。
拭い去られたのは、父の血ではない。そのときまでは確かに有った兄の柔らかな心だったのだと、カラ松は頭を殴られたような衝撃で気づいてしまった。
「……帰ろっか、カラ松」
なにもかものすべてを覆い隠した兄がカラ松に微笑みかける。赤く明滅を繰り返していたランプが大きな音を立ててついに切れた。
分厚い緞帳が下りた舞台だった。部屋が暗い闇に沈む。拘束を解かれたカラ松は、諾々と兄に従うほかなかった。
カラ松は、その日を思い出す度に暴れ出したいような凶暴な気持ちになる。
兄は兄である前に、カラ松のボスになってしまった。あの日以来カラ松と兄は分厚い帳に隔てられている。
その帳を誰かが開けてくれる日を、カラ松はずっと待っている。