(前略)
「──もう二度と、我が海へ来ることはまかりならんぞ、ハーデス」
冥府と現世を分かつ青銅の門のその向こう。
闇より深い深海の暗黒の中で一人輝く海の王は冥府の王に彼の神器たる黄金の三叉槍トリアイナの切っ先を突き付けて言い放った。青く燃え上がる目に広がる嫌悪の凄まじさといえば、はるか昔のティターン神との大戦、ティターノマキアを想起させるほどであった。
「その奈落の牢獄の底で、寂寞と虚無の夢と共に孤独に暮らしていろ、醜悪なる冥府の主よ。おまえにはもううんざりだ」
「いいだろう、海を統べる神よ。愚かなる弟よ。この青銅の門は二度と貴様の手で開くことはないだろう。海と冥府は今分かたれた」
冥府の王は荒ぶるタルタロスの暴風にも動じず、一筋の髪も揺るがさずに海の王に応じた。
冥府の王が高らかに告げると、青銅の門は海も冥府も揺るがすほどの音を立てて固く閉ざされた。
以来、それ迄は隣り合い、親しく混じり合っていた海と冥界は固く分かたれ、冥府の王は決して地上へ現れることはなくなったという。
その為海で死んだ人間たちの魂は、遠い旅をして冥府へ向かわねばならなくなってしまったのだった。
『ギリシア神話〜冥府と海が別れた訳〜』ムーサ書房
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