二章 顔を上げて  - 3/5

6
 航海も三日が過ぎ、運良く巡ってきたロシナンテの休養日は夏島の気候海域のど真ん中。眩いばかりの晴天だった。
 昨晩、艦を掠めたサイクロンが嘘のようだ。
 コビー艦はなんとか転覆せずにサイクロンの端を切り抜け、後処理に追われて泥のように眠った次の日の静養日は最高だった。今日も当番がありろくに寝れず、休めない海兵たちにはずるい! とブーイングを食らったが、こればっかりはロシナンテが決めたことではないので、同じ静養日組の海兵たちと悠々と休んでいる。
 これくらい出来ずしてなにが海軍本部の海兵だ、おれだって三日連続二十四時間一睡もできなかった航海あるし、というかつて左官であった頃の意識がちょっとだけ顔を出したのは否めない。
 むろん彼らもこれが処女航海という海兵はほとんどいなかったし、一夜二夜眠れぬことなどざらにある本部海兵なので、こればっかりは時の運だと誰もが分かっている。
 抜けるような青空と潮風の心地よい後部甲板の回廊に続く階段に、ロシナンテはのんびり腰掛ける。
 「新世界の洗礼をまた受けるとはなァ……」
 極寒の北の海などこの偉大なる航路後半のに比べれば凪の浅瀬だ。ちゃぷちゃぷの水遊びだ。この海を海軍本部の精鋭揃いの軍艦で渡るより、北の海を病人の子ども(かなり反抗的)を抱えて一人で小舟で航海する方が安全ですらある。
 昨夜のサイクロンで一人もクルーを海の藻屑にさせなかっただけ万々歳だった。
「煙草……は、ヘルメッポ少佐に止められちまったしな」
 十三年の寝たきり生活からリハビリを経て尋常でない回復を遂げたとはいえ、肺に煙は刺激が強かったらしく、あのあと何回か喫煙所で出会したヘルメッポ少佐から嗜められるついでに飴玉をもらった。
 かさり、と飴玉を取り出すときに紙の感触が手をくすぐり、ロシナンテは目を細めた。
 そのままぼんやり飴を舐めているとふと頭上から影が降り、厳しい声がかかる。
「コラっ! サボりかロシナンテ!」
「ぎゃあっ! ちっ、違いますよ!センゴクさん! 今日は静養日です!」
 驚いた拍子に階段からすっ転ぶ。飴を噛み砕いた挙げ句飴玉が丸ごと胃に滑り込んで悲鳴が上がる。詰まらせなかっただけ御の字だ。
 ケラケラと笑われながら腕を引かれて起こされた。
「それくらい知っとるわ」
「……人が悪いんだから」
 |艦橋《ブリッジ》から肩を回しながら看板に降りてきたらしいセンゴクは慌てたロシナンテにいたずらが成功したことに満足そうに笑っている。
 時折左右に首を回す様子から随分と肩が凝っているようだった。手にはお気に入りのおかきの袋がある。食うか、と袋を渡されてありがたく幾つか口に放り込んだ。
 ぼりぼりとおかきを噛み砕く音が響く。
「センゴクさんは一休みですか」
「半隠居の老人でもやらんといかん事が多い。まったく……」
 ため息は重く、ロシナンテはその重さに十三年の月日を感じる。どうしようもない月日を感じるたびに、ロシナンテの胸はずきりと痛んだ。
 それを拭い去るように、おかきを飲み込んだロシナンテはセンゴクを呼ぶ。
「センゴクさん」
「ん?」
「こっち座ってください。肩でも叩きますよ」
 センゴクの目が丸くなってロシナンテを見上げた。
「えっ、嫌ですか?」
「……いや。……嫌じゃないさ。頼む」
 珍しく素直に驚いた顔は直ぐにはにかんだ微笑みに変わる。センゴクは将校コートを脱いでロシナンテの前の階段に腰掛けた。
「うわ、固ェ! ちょっとセンゴクさん、硬くなりすぎてません?」
「しばらく現場に出ないとこの有様なんだ。あ゛ー、そこそこ。上達したな、ロシナンテ?」
「そうですか? そりゃよかった」
 肩たたきのテクニックはリハビリ中に盗んだものだ。地獄のようなリハビリにもメリットがあったものだと嬉しく思う。
 まだロシナンテが海兵であった頃、否、海兵になるよりも前に彼の庇護下にあった時分に全力で彼の肩を揉みほぐそうとしてヘトヘトになった思い出が蘇る。
「……懐かしいなァ」
 ぽつり、とセンゴクの口から海兵としての角の取れた柔らかい声が溢れる。大きな背中が、強張りを解いて丸くなった。
 海軍将校〝仏〟のセンゴクが、ただのどこにでもいる、ロシナンテのもう一人の父に変わる。
 その背中がほんの少しだけ小さく見えてロシナンテは彼の背に降り積もった月日を思う。彼の重荷を分けてもらえる海軍将校になるどころか、重荷を背負わせてしまった。
 それでもなお、ロシナンテにとっては大きく広い背中だ。
「……本当に」
 彼もまた自分と同じ遠い日の記憶を思い出しているのだろうか。
「今お前に背中に乗られたら潰れるな」
「ドジってすっ転んでセンゴクさんの鳩尾に頭から突っ込んだの思い出しました」
「あれは痛かった……、背が伸びていた頃だから余計に」
「本当ですか?」
「武装色で庇わなかったのを褒めて欲しいところだな」
「それはガープさんにやられました」
「なに?知らんぞ」
「大泣きしてたらセンゴクには秘密にしとくれって、アイス奢ってもらったんで。もう時効です」
「時効なんぞあるかア!」
 ははは、と笑い声が重なる。
「ロシナンテ」
「はい」
「……いい顔になったじゃないか」
「ええ、おれは今ちゃんと生きてるんだなァって実感しまして。なら、おれのできることを生きてるうちにやらないとなって」
「そうか……」
 センゴクは後ろ手に手を伸ばし、くしゃりとロシナンテの髪をかき混ぜた。
「精一杯、お前のやりたいように生きろ」
 はい、と頷いて、ロシナンテは堅い養父の肩を労う。しばらく柔らかい色をした沈黙がおり、ロシナンテは少し息を詰めた。
「だから、センゴクさん。おれちゃんと|リ《・》|ハ《・》|ビ《・》|リ《・》しようと思います」
「──そうか」
 驚くでもなく、センゴクは頷いた。
「お前ならそう言うと思っていたよ、ロシナンテ。あの件についてはどうだ?」
「……それはちょっと考えさせてください」
「いいだろう」
 センゴクは将校コートを肩に担いでさて、と立ち上がる。
 仕事に戻るのだろうか、と見上げていたロシナンテに養父はにんまりと意地の悪い笑みを浮かべて振り返る。
「ひェ……」
 その顔はあまり見たいものではない。なんでそういう顔ばかりガープ中将とよく似ているのだろう。
 ゼファー先生はよオし! 見所あるから叩きのめしてやろう! って顔はしなかった。
 反射的に及び腰になる自分の肩をがっしりと分厚い手が押さえつける。
「ならこっちの|リ《・》|ハ《・》|ビ《・》|リ《・》も必要だな?」
「……ひい」
「ちょっと付き合え。訓練をつけてやろう」
「ひぇ…」
「ひぇ、とはなんだ。ロシナンテ!」
「はい! ありがとうございます!!」
 よし、いい天気だから前甲板だな! うきうきしながら肩を回すセンゴクにロシナンテはとぼとぼと連行されていく。
──それでも何故だろう。
 いつの間にか、ロシナンテもまた口元を緩めて浮き立った顔をしていた。

「まずは初めの型から行くぞ。お互い能力はなしだ」
「はい!」  将校コートを主砲台にかけたセンゴクが腰を落とす。海軍本部式の近接戦闘型の訓練の型のはじめだった。センゴクに相対してロシナンテも構える。
 なんだなんだと手が空いた海兵たちが集まり、目を輝かせたりわっと盛り上がったりしている。
 気恥ずかしいが、元海軍大将とのマンツーマン訓練などそうそうお目にかかれるものではないのだから彼らの気持ちはよく分かった。
 年かさの海兵に至っては賭け事をしてるような気がする。
「何してんだ……?」
「センゴク大目付もガープ中将と似てらっしゃるんだねえ、ヘルメッポさん」
「ええ……?」
 艦橋から顔を覗かせたヘルメッポとコビーが褒めているのか貶しているのか判然としない会話をしていた。
 センゴクは気にも留めずにゆっくりと拳を正拳に突く。その拳がずずッとなめらかに武装色の覇気を纏った。
 流れるような型に、無性に懐かしくなりながらロシナンテもそれに応じて武装色の覇気を込めた手刀で避ける。
 キンッとおよそ人の鳴らす音では無い高く鋭い音が前甲板に響いた。
 続いて身を翻したロシナンテの回し打ちをセンゴクが肘で受ける。
「左手の覇気が遅いぞ!」
「はいッ!」
 センゴクの前蹴りを両手で受け止めて下がる。
 センゴクが打てばロシナンテが受け、ロシナンテが打てばセンゴクが躱す。それぞれその瞬間だけ覇気を込めて攻撃し、防御する。
 流れるような攻防一体の型を一通り終えると、ロシナンテはもうすっかり休日気分が抜けていた。
 途中からはセンゴクの指摘に返事をする余裕もなく、型と共に覇気を操る。
「よし、肩慣らしはこれくらいか」
「はー、ッはい……」
 型を繰り返した数回で荒い呼吸を整えたロシナンテにセンゴクは苦笑した。センゴクに至っては指摘をする余裕をもっている上に、息の一つも乱れていない。
「リハビリで地獄をみたというのは嘘じゃ無かったようだな」
「もう嘘はつきませんよ……。でも、やっぱり鈍りましたね……」
「スタミナ以外は変わってないと思うぞ」
「それ昔から弱かったって言ってます?」
「言っとらん言っとらん」
 センゴクは楽しげに肩を回して再び腰を落とす。
「能力は使えるか?」
「五分程度なら。長時間はちょっと負担が……」
「無理にならない程度にしろ。そうだな、三分」
「はい。よろしくお願いします」
「遠慮せずかかってこい」
 センゴクは近くで呆然と攻防を見つめていた若い海兵に三分の計測を頼む。
 ロシナンテは一呼吸おき、自らの体を叩いた。
──〝カーム〟 囁く声が、能力の発動と共に消える。
 センゴクが頷き、手招いた。
 それを合図にロシナンテは足を蹴り上げる。リーチを生かして鞭のように足を回し、生み出された衝撃波はセンゴクの覇気に弾かれる。そのまま剃でセンゴクの背中に回る。長い腕がセンゴクの首を絞めようと蛇のように伸びた。
 その間に、靴音どころか衣擦れの音、空気を動かす音さえもしなかった。
 ナギナギの実の無音人間であるロシナンテは、全くの〝無音〟で動くことができる。
 すなわち、ロシナンテは完全なサイレント・キリングの使い手であった。
 しかし、センゴクはそのことを百も承知している。
「ふむ」
 腕に伸ばされたロシナンテの腕を逆手につかむと、フンッと勢いよくマストに投げる。
 あわやとコビーが手すりに足をかけたが、ロシナンテはメインマストにぶつかる前に空中で|踏《・》|み《・》|と《・》|ど《・》|ま《・》|っ《・》|て《・》、逆に空中からギロチンのように覇気を込めた踵落としをセンゴクの頭上に振り下ろした。
 センゴクは両手をクロスしてそれを受け止める。
 音も無く覇気のぶつかる火花が散る。
「足癖が悪くなったな!」
 笑うセンゴクに今度は足を捕まれて甲板に投げられる。叩き付けられなかったのはセンゴクの慈悲と、甲板を割らない為だ。
 受け身を取ったロシナンテは、思わず口元を緩ませて応えた。
『これでも数年海賊してたもんで!』
「ばかもん、聞こえんわ! ほれ、掛かってこんか。私は一歩も動いとらんぞ」
 ドジった! と慌てるロシナンテだが、センゴクに手招かれて顔つきを変える。
 リーチを生かしたロシナンテのサイレント・キリングをセンゴクはことごとくいなしていく。
 永遠にも思える短い三分が終わったあと、ロシナンテは息も絶え絶えになっていた。
「よォし、終了!」
「あ…ありがとうございました…ァ!」
「次は能力なしで5分!」
「は、はァい!」
 ロシナンテは悲鳴のような返事を上げる。
 それを見ていた海兵たちがぞっとした顔をしていたのも無理なからぬことである。

 能力を使わない組手も終え、ギブアップしたロシナンテが長い手足を伸ばしてバタンと倒れる。
 だらだらと汗を流して空を見上げているロシナンテを、センゴクは満足そうに見下ろして、観客と化しているクルーに声をかけた。
「誰か他にやりたいやつはおるか?」
「はいはいはいッ! 僕やります!」
「あっ!おいコビー!……お、おれも次……」
「はっはっは、二人まとめてでもいいぞ」
 ヘルメッポの手を引いてコビーが艦橋からワクワクした顔で飛び出していった。
 汗を拭う気力も失せたロシナンテを見兼ね、順番待ちをしている海兵たちが水を持ってきてくれる。
「お疲れ様!」
「ロシナンテさん凄いな!」
「おー、ありがとな。センゴクさんのスタミナどうなってんだ……」
「音がしなかったのってロシナンテさん能力者?」
「おれはナギナギの実の無音人間。〝安眠〟においておれの右に出るものはいねェ!」
 宣言すると、海兵たちはどっと笑う。
「そりゃあいいな!」
「嵐の夜にかけてくれよ」
「嵐が来たときに眠ってていいならな」
 けらけら笑う陽気な海兵たちにロシナンテは苦笑して請け負った。
 ふと、どうでもいいよ! と言い返す幼い声が耳に蘇った。
 そうだ、無音人間ジョークはあの子にはウケなかった。もう少しジョークの勉強でもしていたら、少しでも笑顔にしてやれただろうか。
 あの子の笑顔をロシナンテは知らない。
 海兵と聞いてどう思っただろう。
 ドフラミンゴをどうして止めてくれたのだろう。
 強い潮風がようやく乾いたロシナンテの金色の前髪を荒らしていく。胸元の裏側のポケットに忍ばせたものに触れて想う。
──会いたいなあ。合わす顔もねェけど。でも、生きてるうちにもし、会えたなら。
 快晴の空。水平線に伸び上る積乱雲は崩れかけていた。