5
翌日は明け方から波が高く風が強い日だった。嵐になりそうでならぬ海に焦れるうちにあっという間に昼が過ぎる。
コビー大佐の指示で昨夜から悪天に備えっぱなしだった船員たちに班ごとの休息が言い渡されロシナンテと同じ班の他数名は諸手をあげて喜んだ。
すっかり打ち解けた新兵たちがロシナンテを誘う。
「ロシナンテさん、メシ食ってキャビンでトランプしません?」
「行く、一服してからな」
「帆を燃やさないでくださいね!」
「燃えてんのはおれだけだよ」
「それもそれで。人がいるときに喫ってくれよ」
「ドジって海に落ちないように気をつけて」
けらけらと笑う海兵に手を振って別れ、ロシナンテはいそいそと船尾の回廊に足を向ける。
驚くべきことにこの艦では喫煙所が設えらていた。甲板で煙草を吸っている海兵が少ないなァと思えば喫煙所を案内されてロシナンテはぎょっとするほど驚いた。
ロシナンテが〝死ぬ前〟は下士官から艦長に至るまで大体の海兵はあらゆる場所で煙草を燻らせていた。紙巻き葉巻の区別はあれど、大体が吸っていて、凪で停滞した日などは艦橋が煙で充満して火事かと大騒ぎになった記憶もある。潜入捜査時も海賊船でそんなことを気にするものは居なかったのでドンキホーテ海賊団でも喫煙に気兼ねはしなかった。
十三年という短くない期間は海軍という大きな組織さえも変化するらしい。なんて健康的!と思いながら酒保で漸く買い付けた安い煙草と、無理を言ってもらい受けた手配書をポケットから取り出す。
喫煙所になっている船尾回廊に回って、ロシナンテはあっと立ち止まった。思わず手配書をポケットにしまい直す。
金色の長い髪をまとめた青年将校が回廊の端で肩身が狭そうに身を屈めて煙草を燻らせていた。
「うげ」
彼はロシナンテを見上げてぎくりと肩をすくめ、きょときょとと周りを見回して慌てて胸を張る。
「ヘルメッポ少佐」
「雑用のおっさんかよ」
「おっさん……」
そりゃあもうおっさんだが、とがっくりと肩を落とすロシナンテに、ヘルメッポはひぇっひぇっと笑う。ロシナンテは灰皿に灰を落としに近づく。
「……ご一緒しても?」
「コビーに言わなきゃいいよ」
「あれ、禁煙中ですか」
「通算五回目の。明日から六回目の禁煙だ」
「そりゃ頑張ってください」
ヘルメッポの口元が変な形に歪む。何かを言い出そうとして、言いにくそうに言いよどんでいる。
ロシナンテの視線からは、サングラスの下の垂れ目がうろうろとさまよっているのが見えた。眉がへにゃっと情けなく八の字を書いている。
──腹芸が下手なのはこの子もかァ。なるほどサングラスがいるなこりゃ 勝手を思いながら彼が口を開くのを待つ。なんだか懐かしい気がするのは、素直じゃないのに素直なあの子を思い出すからだろうか。
ヘルメッポ少佐の煙草がちりちりと巻紙を焼く。
ちらり、とサングラスの下の視線がロシナンテを横目で見上げて、ぎょっと見開かれる。
「ぎゃあ! 燃えてる!? バケツ!」
「あッっつァ!!」
互いに肩で息をする。ロシナンテは灰皿の横に置かれたバケツの水でびしょ濡れである。
燃えたスカーフはあとで繕っておこうとポケットにしまった。
「なッ、なんなんだあんた……」
「おれはドジっ子なんだ」
真面目に応えると、ヘルメッポ少佐はがっくりと肩を落とした。それから口をとがらせる。
「……悪かったよ」
「へ?」
「疑うようなこと言って。再任用、なんだろ」
「聞いたのか」
「事情までは聞いてないけどよ。世界徴兵の雑用にしては海軍式に馴れすぎてたから変だと思ったんだ。敬礼とか……。本部とか政府からきた監査とかのやつかと……、あいつ目を付けられててもおかしくねェし……」
ヘルメッポ少佐がぼそぼそと言い訳する。それがひどく気まずそうで、ロシナンテは思わず吹き出した。
「コビー大佐が心配だったんだろ? 見てれば分かる」
「そんなんじゃねェよ!」
「はは、艦に極秘で監察に入るときは大体雑用じゃなくてそれなりに階級つけて入るさ。雑用だと動きにくいし、准尉あたりをよく使ったかなァ」
「は?」
「……おっと、これはあんまり言っちゃいけないやつだ」
ごまかしにウインクをして煙草を吸い込む。ぐっと肺が変な風に軋んだ。
「……っゲホッ、ゲホゲホゲホッ!」
「お、おい……!」
むせかえる自分の背中を叩くヘルメッポ少佐に甘えて呼吸を整える。
「そ、それもドジか?」
「おれはドジっ子なんだ」
ヘルメッポ少佐の視線がいぶかしげな顔になる。
「久しぶりに吸ったからかなァ」
「じゃあもう吸うのやめとけよ、おっさん」
「おっさんって言わないでくれるか? 心はまだ20代なんだ」
ひえっひえっ、っと今度は素直に明るい笑い声が響いた。
「おっさん、おれと違って真面目そうだからすぐ雑用から昇進しそうだなァ」
もう彼の中で自分はおっさんらしい。ロシナンテはがっくり肩を落としながらも、まぁいいかと切り替えた。彼なりの親しみだろう。
「いやァ、コビー大佐とヘルメッポ少佐には及びませんって」
「コビーはそうかもだけどさ。おれァたまにこれが重い。おれなんかが背負ってていいか迷う。でも、あいつが……」
ヘルメッポ少佐の声が少しづつ小さくなり、彼は黙って煙草の煙を吸い込む。
「ヘルメッポ大佐も、麦わらのルフィに恩が?」
「はァ!?」
ヘルメッポは目を向いて煙草を取り落としかけた。サングラスを持ち上げてロシナンテを睨み上げる。
「なっ、何だってあんなやつら! 別に、別に! コビーがバラしたのかあの馬鹿!」
大慌てで否定しているものの、どうにも否定し切れていない。
「そういうのは軽々しく人に言うなっつってンのに」
ぶつぶつと文句を呟きながらヘルメッポ少佐は細い煙を吐く。
ロシナンテはポケットに折りたたんである手配書を思い出しながらヘルメッポ少佐に笑いかける。
「──おれも、そういう海賊がいるんで、ちょっと分かりますよ」
少し緊張しながら告白すると、ヘルメッポは大きなため息を吐いた。
「分かってるよ。別にコビーを疑ってるわけじゃねェ。それで誤解されンのが嫌なだけだ」
ロシナンテの緊張などつゆとも気がつかないヘルメッポ少佐は、目を丸くしているロシナンテに慌てて手を振った。
「──あ、おれが! おれがな!」
「……いい友達なんだな」
そんなんじゃねェと、とヘルメッポ少佐が口を尖らせる。サングラスをかけた耳が赤い。
その様子に、ふと後輩を思い出す。互いに切磋琢磨して上を目指していて、お互いの正義を大事にしていた。
監査が入るんですって。あることないこと貶められないか心配。と相談されて、こっそり手回ししてやったことも思い出した。少しでも気に食わないとすぐに上官だろうと噛みつく後輩にロシナンテは内心ハラハラしたものだ。
彼らの姿がヘルメッポ少佐とコビー大佐に重なって見える。
彼らはずっと正義を背負って駆け抜けている。
ロシナンテは含み笑いながら、目を細めた。
誰もが別の正義を持ち、海軍という組織はそれをひとまとめにひっくるめている。
ヘルメッポ少佐と話して初めてそのことに気づく自分に呆れる。ヘルメッポを呼ぶコビーの声に、彼はやれやれと首を振りながら月歩で喫煙所を去った。
ロシナンテはポケットからローの手配書を取り出してもう一度煙草に火をつける。
やはり、どれだけ眺めても彼への嫌悪なんてロシナンテの中にはどこにもなかった。
──おれにできることは、まだあるだろうか。
ふわりと浮かんだその思いをロシナンテは今までとは違う気持ちで受け止めた。
立ちすくんでいた足を、動かさなければならないような気がした。海の底に沈んでいても、水面に手を伸ばしても良いような気がした。
フゥーと咽せないようふかしただけの煙は、強い風にあっという間に散る。ロシナンテは回廊の壁に長身を預けた。
「……そっか」
生きているということは、いくらでもやり直せるということ。
ロシナンテは初めてそれに気がついたような気がした。
初めて目を開けたような新鮮な心地で内ポケットから折りたたんだ紙を取り出す。ぐしゃぐしゃになったそれをロシナンテはそれをびりびりに破いて空に放り投げた。空っぽになったその場所にこっそりと別のものを忍ばせた。
清々した気持ちで笑う。
「おれは生きてる。つまり――まだ死ななくて良いってことだ」