六章 今を生きていく - 1/6

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 ロシナンテはすっかり深い闇の中にいた。
 息苦しさに咳き込んだことや、誰かにやけに一生懸命に名前を呼ばれていることはうっすらと、ひとつ幕を隔てた奥で感じていたような気がするが、それも遠ざかる。
 まともに目を覚ましたときにはロシナンテはぼんやりとしたまま周りを見回した。我が家のように見慣れた海軍の軍艦のキャビンの天井が見える。ベッドの横の椅子で大柄な男性がうつらうつらとしている。
「──センゴクさん?」
 ベッドサイドに座ってうつらうつらとしているその人を見て、ロシナンテは彼の名を呟いた。その声にすぐに目を覚ましてロシナンテの名前を呼ぶ。随分と皺が増えて、御髪まで白くなっている。
──ああきっとまた随分お忙しかったのだろう。
 最近はロジャー海賊団の件で海に出っぱなしだった。
 腕を伸ばして彼の腕をタップする。
「起きたかロシナンテ」
 センゴクにほっとした顔をされる。
「おれ、またドジ踏みましたか……?」
「ん?」
「疲れた顔してます……おれもちゃんと海兵になれたら、お手伝いしますね……」
「なんだ、お前はとうに海兵だろうが。さては寝ぼけてるな、おれが帽子をかぶせてやっただろ」
「そう……、あれはうれしかったなァ……おれ、かいへいに……」
 ロシナンテのそう大してたいしたことも無い人生にとってあの日は今までの中でも一二を争うほど晴れがましい日だった。
 あの春の日。センゴクが大将として正式入隊の証をロシナンテに預けてくれたのだ。
 あの冬の島で一人の子どもを守りきったあの日まではあれが一番誇らしい日だった──。
 そこまで思い出してもう一人、センゴクの反対側の手を握っている気配がしてそちらに頭ごと目を向けた。
 一人の青年が顔にありありと心配を塗りたくった顔でロシナンテを見つめていた。
 帽子の下で堅めの短い髪を四方八方に散らして、目の下にたっぷりとクマをつくった二十代半ばの青年だ。
 彼はロシナンテの手を物騒なタトゥーの入った手で握っていた。脈を測っていたような手の形をしている。
「コラ……さん」
 船室のゆらゆらと揺れるランプの下で、健康的に日に焼けた肌が何よりもロシナンテの目を引いた。
 あの無機質に白い珀鉛の病の兆候はすっかり彼から取り除かれている。
「……おまえ、病気が……、ロー……」
「コラさん……!」
 この青年は、確かにあの時別れたローなのだとロシナンテにすとんと納得する。
 海賊〝死の外科医〟トラファルガー・ローと、ロシナンテが宝箱にしまった子どもが初めてつながったような気がした。
 手配書で散々眺めたあの凶悪な面影はなりを潜めたその表情にロシナンテは目頭が熱くなっていく。
 そこでぼんやりとしていた意識が急速に息を吹き返してどっと今の状況が頭に流れてこんだ。
 大慌てで身を起こす。
「ロ、ロー……! お前、ローか! って、そうだおれ最後にまたドジッて! いやセンゴクさんおれのカメコは! ロー、文書渡してくれたんだな、ありがとォ!!」
「いってェよ! 落ち着け!」
 ぐるんとローの肩をつかんだままセンゴクに身をよじって尋ねる。
「無事海面で回収したよ。電伝虫を海に浸からせてやるなかわいそうに……」
「良かった生きてて……あの、データも」
「既に本部におくっている。あとは本部で精査待ちだ」
「夕方くらいです?」
「それくらいだな」
 慌てて飛び起きてセンゴクに矢継ぎ早に尋ねる。
 それに全て肯定をもらい、ロシナンテはほーっと息を吐き、その途端に広がった体中の痛みに思わずギャッと身を強ばらせる。
「いっててて……!」
 そんなロシナンテを小突くのは、先ほどの泣き出しそうな心配顔をあっというまにふてぶてしい顔に整えたローだった。その負けん気の強さは確かにあのローである。
「おっ、おい急に動くな。アンタあの数時間でまた傷増やして縫ってんだから……」
「へへ……本当にお医者様みてェだ。ちょっと顔見せてみろ」
「本当に医者だよ。おい、勝手に帽子取るんじゃねェ」
 この口うるささと小生意気さにも確かに幼い頃の面影がある。
 うんうんと頷きながらひょいと帽子を脱がしてくしゃくしゃに顰められた不機嫌そのものの青年の肌をランプにかざす。
 額に手を当てたり、喉に触れたりするロシナンテに彼はされるがままになっていた。
「本当に肌がきれいになってる。タトゥーもイカすじゃねェか! 熱もない、喉も腫れてねェし、呼吸音も正常だな!」
「もうとっくだよコラさん。風邪なんてこの十年引いてねェ」
 ローの頭をかき回すように撫でて、そのままセンゴクに向き直る。首を引っ張られたままローが文句を言う。
「へへ、センゴクさん見てくださいこいつがローです。生意気でしょ」
「知っとるが」
「ロー、この人がセンゴクさん。おれの恩人」
「知ってるよ」
 二人がそろって呆れた顔をする。
 それがまるで、なんとも信じがたい奇跡のような光景でロシナンテの鼻の奥がツンと痛んで鼻を啜った。
 センゴクは淡く苦笑するとロシナンテの腕を叩いて立ち上がって部屋を去る。
「さて、私はまだちょっと仕事があるんでな。ロシナンテ。起き上がれるようになったら艦長室へ来るように」
「はッ!」
 ベッドの上であまり格好の付かない敬礼にセンゴクは鷹揚に頷いてドアを閉めた。

 その途端にふっとローが肩の力を抜くのが分かった。
 ベッドからもぞもぞと動いて彼の方に寝返りをうつ。
 そこには帽子の縁をぐっと押さえて、歯を食いしばって泣くまいとしている青年がいた。
「……ロー」
 目の合わない肩を引いて、少し起こした肩口に抱き寄せる。あまり抵抗は無かった。それで許されたような気持ちになる。
 あの頃はすっかり腕の中に収まる大きさだったのが嘘のように育った子どもはすっかりロシナンテの腕には余る大きさだった。がっしりとしていて、ちゃんと鍛えられた成人の体格をしている。あの頃の白樺の枝よりも細く、ロシナンテが片手で掴み上げられた子どもが、こんなにちゃんと生きている。
 じわりと肩が熱く濡れる気配がして、ロシナンテも鼻をすすり上げた。
「……大きくなったなァ……」
「うん……あんたのおかげだ」
「ドフィ、止めてくれてありがとうな……。ドレスローザ、救ってくれて……」
「ああ……おれが勝手にやったことだし、おれひとりのことでもねェ……」
「うん、でも、ありがとう。ありがとうなぁ……」
 堂々として誠実な言葉にひどく感銘を受けるが、ぐず、と鼻をすする音ときたらどちらの音かもわからないのでお互いに格好は付かなかった。
 掛け布団のカバーで鼻をかんで、ロシナンテはローの背中を叩いた。
その背中に問いかける。
「ロー、今、楽しいか? 辛ェこととか……ねェか?」
 ロシナンテのおそるおそる尋ねた問い掛けにローはがばりと顔を上げて、ロシナンテを見上げた。
「ああ」
 ロシナンテはその顔に目を丸くした。
「ああ、もちろんだ。ありがとうコラさん」
 まだ目に涙の残るまま、ローはくしゃりとガキのように笑う。
 あの旅の中の最後の時でも見たことの無い、さっぱりとした素直な笑顔だった。
 ロシナンテの緩みに緩んだ涙腺は当然、ウォーターセブンに聞くアクアラグナの如く決壊し、反対にローが苦笑しながら宥めに回る。
「よがっだ、よがっだァあ!」
「もう泣くなよ。あんたのおかげでいい仲間にも出会えた。気のいい馬鹿ばっかりだ。あんたに紹介したい。世界一のおれの艦も」
 その呆れたような慈しむような顔で、その仲間と母艦がローにとってどれだけ大事なのかロシナンテにはすっかり分かってしまった。それもまた嬉しい。
 本当に嬉しかった。
 それからしばらく、ローとの話が弾み、泣いたり笑ったり、時に怒られたりと船室は大賑わいをしていた。