五章 歩き出して - 1/12

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 ロシナンテは颯爽と三番島の山向こうの、奥深い歓楽街を歩く。港街のある湾から一つ離れるだけであっという間に何もかもが地に落ちる。人も、心も、ここには何の価値もない。
 太陽はまだ東側にあり、この町はまだ眠っている。
 活気に溢れていた二番島と打って変わって、夢うつつに酒瓶を抱えながらへらへらとした男や女がたむろしているのが三番島だった。その港町の裏側。
 ここは、海賊の墓場だ。
 海賊のための港町──その一歩奥にはびこる地獄。立ち寄っただけなら見えない場所。
 道ばたで眠っていたり、へべれけで道ばたでうずくまっていたりするものたちは、一様に精彩を欠いた目をしている。
 湾の端にはぼろぼろのジョリーロジャーを掲げ、帆は畳まれたまま朽ちていくような海賊船がいくつか並んでいた。まだ朽ちていない船も、繋留しているヤードにいくつかフジツボがついている。
「兄ちゃん、酒をおごってくれよぉ」
「……断る」
 片目に眼帯をした男に足を捕まれてロシナンテは冷たく吐き捨てて振り払う。眼帯に刺繍されているのはジョリーロジャーだ。
 一層縋ってこようとした男をコートを翻して避けた。へへへ、とそれでも機嫌が良さそうに空の酒瓶を抱える男は道ばたで寝息を立て始める。
「……落ちぶれたなァ、ジム」
 ロシナンテは一瞬その男に目を向けて低く呟いた。眼帯の男には届かない。
 かつて意気揚々と北の海ノースブルーから偉大なる航路に足を踏み入れた男の面影はもう失われている。コラソンとして武器を交えたことさえある海賊団を率いた船長はもはや見る影もない。朽ちた帆と浮かんでいるばかりの船を見て想像したとおりの姿だ。
 フーッとため息の代わりに煙草を吹かして風に散らされる。
「ピエロのおじさん、わたしはどう。安くしとくからさァ」
「いらねェよ。……風が強いぞ、服は着ろ」
「なんだァ残念」
 ざんばらの赤い髪を強い風に靡かせる女はがっかりした顔で踵を返す。
 地に足の着かぬふわふわと雲を歩く女は自分のすみかなのだろう掘っ立て小屋の中に帰っていく。あの女もまた、名の知れた海賊船の船長だったの。
 ああ、まるで懐かしいあの街だ。
 ロシナンテの思い出の中で血を流す記憶はこんな地獄が煮詰まったような場所だった。
 あの場所を記憶して海兵として立身した自分の心が騒ぎ立つ。正義のありかはどこにあるのかと。
──だが、今ロシナンテは海兵の服を脱いでいる。
 白い制服を派手な柄シャツに。かつて羽織った白いコートの代わりに、黒い羽のコートを纏った。
 歪む口の代わりに、口が裂けるほど笑った形のうルージュを。こぼせない涙の代わりに目元に道化の涙を刻み、視線を悟られぬように黒いサングラスを掛ける。
 かつてドンキホーテ海賊最高幹部の席に掛けた男が地獄の底から蘇っていた。

「……チッ」
 街をぐるりと巡ってロシナンテは苛立たしげに舌打ちをした。港の影で朽ちていくばかりの船の規模に比べて街で見かけた人数はあまりに少なかった。
 死んでいるならばまだマシだろう。もっと酷い可能性も容易に想像が付く。
 港町に戻ったロシナンテは昔は教会だったのだろう古い石造りの酒場のドアを開いた。
 日差しも陰り、埃の舞い上がって薄暗い朝のバーは静まりかえっていた。奥のバーカウンターに何脚かのハイスツールが並んでいる。まだ酒も飲めなさそうな年頃の金髪の窶れた顔の青年がじっとりとロシナンテを見上げる。へらりとした愛想笑いに苛立ちと諦念が混ざっていた。
 ロシナンテはその視線を無視して誰も居ないバーカウンターに直接腰を下ろした。ロシナンテにはハイスツールは小さすぎる。
 はぁ、とあからさまな溜息を吐いた男はグラスを拭く手を止めずにロシナンテを見上げる。
「……店じまいしてるよー、薬が欲しいなら教会行け」
「レッドベリー五つとホワイトベリー六つのカクテル。お前出せるか?」
 青年が手にしていたグラスを取り落としかけて、慌ててテーブルに置く。ロシナンテの言葉に、反応した青年は信じられないと小さく呟く。
「どうだ?」
 ロシナンテが促すと、青年は慌てて頷く。その目に先ほどまでじっとりと渦巻いていた倦んだ色が消えていた。
「だ、っ、だ、『出せるけど、ブルーベリーは切れてる』」
「ああ。お前が……」
「──おれは?の孫だ」
 青年の応答にロシナンテは頷く。
「……感謝する」
 その意味が通じていることにロシナンテはほっと内心で胸をなで下ろした。
 この島の協力者との合言葉。
 かつてドンキホーテ海賊団への潜入任務中に築き上げたコラソンとしての人脈。それらをいくつかの組織に作り上げたロシナンテの〝協力者〟──それがロシナンテの〝策〟だった。
 十三年連絡が途絶えたままだった自分を待ってくれているかは一か八かだったが、一つ目の段階はクリアしたらしい。
 青年はきょろきょろと周りを見渡し、誰もいないことを念入りに確認して表のドアを閉じる。カウンターに手を突き、ぐっと身を乗り出してロシナンテに迫った。
 その目はきらきらと興奮に輝いている。
「ア、アンタ本当にじいさんの客か!?」
「ああ。〝?〟に会いに来たって伝えてくれるか? ずいぶん待たせちまったが、策は整えてきた」
 青年は一瞬呆けたような顔でロシナンテを見上げ、それからじわじわと笑みを浮かべて目元の涙を拭った。
「よかった……、じいさんずっと待ってたからさァ! おれはここを動けねェが、この島をぐるりと回った逆側の浜に住んでるよ。あと、これ──」
 青年は胸元からペンダントを引き出してロシナンテに手渡した。手のひら一杯に埋まる鍵の形に、ロシナンテは頷いた。
「確かに鍵だ。じいさん、悪いのか」
「まあもういい年だから……」
 青年はさっさとバーカウンターの奥水や肉、料理やらを持ってきて包みだす。
「これはおれの分だった飯。店で出すものじゃないからじいさんと食べてくれよ」
「〝?〟の後継も大変だな」
「……アンタがきたからおれが継がなくてすむんじゃあないかと思ってる。おれ昔船乗りになりたかったんだ……」
 囁く青年は肩の荷が下りたようなほっとした顔をしていた。ロシナンテはふっと息を吐いて化粧ではない笑みを浮かべる。
「そうだな。船乗りは良いぜ」
 青年はふっと笑う。ロシナンテはバーカウンターの裏口からこっそりと抜け出す。
「あぶねェ!」
 裏口に積まれていた酒樽に脚を引っかけてすっころぶ。危うく樽をひっくり返し掛けてロシナンテの肝が冷える。
「ドジッた……」
「危ねェよ。それ、海賊に出す酒なんだから!」
 青年の低めた声にぎょっと樽を見上げる。確かに二番島で見た酒とは別の焼き印が樽に押されている。
「あ、それで思い出した。ここにいるの、船長ばっかりだろ。ほかの船員、どこに運んでる?」
 こんこんと樽を叩きながら尋ねると、青年はその樽を蹴り飛ばす。ロシナンテのために周りを見ながら裏口を開けて、声を低めて答えた。
「酒漬けになったやつは、四番島に。帰ってくるやつはいない。──今日の昼過ぎに多分、次の船が出るよ」
「了解、ありがとう」
 ロシナンテはひらりと手を振るとそのまま島の裏側へと向かった。
 フェザーコートを風にたなびかせ、ロシナンテは三番島の海岸を歩く。
 海を見下ろすまだ新しい墓標が一つ、ぽつんと林の端に建てられているのを横目に見る。
 かつては漁村のあっただろう廃村にはもう人の気配は無い。
 うち捨てられた網、朽ちた竹かご、小舟は幾艘か沖に浮いているが、傾いているものは船底が抜けているのだろう。その乾いた砂浜にあわずかに花を咲かせる白い浜木綿が風に揺れている。磯の匂いばかりで生活の匂いはどこからもしなかった。
 けれど一人、浜にたたずむ腰の曲がった老人が岩に腰掛けて水平線を見つめていた。
 瞳は病なのか濁っており、手足は枯れ枝のよう。顔に表情はなく、色の抜けた髪はススキのようにふわふわと風に靡いている。
 浜の端にいたロシナンテはその老翁を見つけて立ち止まった。
「……爺さん」
 一瞬止まった足を動かし、ロシナンテは浜を歩く。
 老翁はロシナンテに気づいているのか居ないのか分からぬが岩で出来ているかのように動きもしない。ロシナンテは視界に入るように膝を折り、身を屈めて小さな老翁に声を掛ける。
「〝?〟、遅くなって悪かった。約束通り、おぞましい金環を絶ちに来た。この島をぶっ壊そう」
「?」
 老翁は耳を傾けて歯の抜けた口を開いた。
「飯ならもう食ったぞ」
「ちげェよ! 爺さん!」
 ロシナンテはずっこけて長い足を投げ出した。
「おれだよおれ! 覚えてねェか!?」
「この老いぼれに詐欺を働こうとはいい度胸じゃな!」
「防犯意識高ェのはいいことだけどさァ! この島でそれ意味あるか!?」
「いい夢見ろよ? そんなもん見とる暇あるか」
「おれだよ! コラソン! M.C01746、ドンキホーテ海賊団に潜入してた海軍本部ロシナンテ中佐! 元が付くが!」
「あー、ああ、ゴリ蔵」
「誰だよ! エルネスト爺さん、まさかボケたのかよ!」
「冗談じゃ」
 老人はカッカッと笑ってひっくり返ったロシナンテの足を蹴り飛ばした。
「……お久しぶりじゃな、ロシナンテ坊ちゃん。ずいぶんと遅い」
「ああ、すまない。──でももう坊ちゃんはやめてくれ」
 老翁の目が焦点を結ぶ。嗄れた声がロシナンテを詰る。
 ロシナンテはその断罪を甘んじて受け止める。
「長く待った……ドンキホーテ海賊団が壊滅したと聞いたときには、もうだめだと」
「ああ」
「生きていたのか、サンドラはもう死んでしまった……」
「ああ……すまない。往き道に墓を見た」
「この島で生き残っているのはわしとあのガキだけだ」
「さっきレスリーに会ったよ。アンタが言ってたとおり、お袋さんによく似た金色の髪の真面目な子だ」
「……本当にロシナンテか」
「ああ。おれはドンキホーテ海賊団最高幹部〝コラソン〟であり、元海軍本部ロシナンテ中佐で──ドンキホーテ・ホーミングの次男坊のロシナンテだ」
 老翁はその言葉を聞くや否や、浜を踏みしめて立ち上がった。エビのように曲がった背を伸ばす。
「わしの〝情報〟はこの島を救う役に立つか?」
「ああ、あんたとおれと、サンドラ姉さんの命がけの情報は、この島の闇をぶっ潰す策になる」
 老翁はぼろぼろと涙をこぼして空を見上げた。長い年月を思わせる涙に、ロシナンテの唇が歪む。
 自分が死んでいれば、この老翁はずっとこの島で連絡を待ち続けていたのかもしれない。
「あの馬鹿野郎の目を覚まさせてやれるのか。娘の──サンドラの無念を晴らせるか」
「ああ、そのために来た。長い任務ですまないが、あと一踏ん張りだ」
 ロシナンテがサングラスをあげて老翁に笑いかける。
 涙を拭った老翁もまたにやりと笑ってかくしゃくとした足取りで海へ向かっていった。
「それじゃあ、出航じゃ」