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「なんって海だよ!」
ロシナンテは悲鳴を上げて必死に小舟の横に突き出した浮きを押さえた。
一番島から三番島までの海流と打って変わり、四番島と五番島はいつも高波と渦潮と急に向きを変える突風とべた凪の海が取り巻いている。
一秒ごとに風が変わる海。その上人一人吹き飛ばしそうになるほどの風。新世界でもそうそうないほどにめまぐるしい海だ。
「だから、わしらしか渡れん海じゃった」
孫にもう年だと言われていたのは一体なんなのかとロシナンテが吹き飛びかけるコイフを押さえながら考える横で、老翁は高笑いをしながらヤードを引いている。
流石に帆の扱いはロシナンテに一任され、老翁の指示に忠実に船底のネズミのように三人のれば満杯の小さなアウトリガーカヌーを転がり回った。
兵学校時代に吐くほどしごかれていなかったらとっくに海に落ちていただろう。四番島の海域に突入して十分もすればロシナンテはもう嵐の中の海兵に成り果てた。
「楽しいなァ! 坊ちゃん、早く帆を張れ! 二秒後に三時の方向からひっくり返しの風だ」
「イエッサー!」
「次は南!」
「イエッサー、クロックポジションで言ってくれ、爺さん!」
「南ったら南じゃ! 十秒後の風を受けたら次は帆を畳まんとひっくり返るぞ。その次はアウトリガーを押さえろ、横っ面に大波じゃ」
アウトリガーを左足で押さえながら片腕で帆を抱き留めて抱え、もう片方でヤードを引く。
自分がヤードの一本になったかのような荒技を繰り返し、ロシナンテは目が回るような心地で四番島にたどり着く。
老翁に指示された磯の狭間の砂浜にカヌーを乗り上げさせた。
誰にも知られずにこの島に来るにはこの方法しかないことはわかっていたが、それでも疲労のあまり浜にべたりと身を預ける。カニがロシナンテの腕を哀れむように横切っていった。
「……死ぬかと思った」
「やるのう。おまえさんのドジで二、三回は転覆するとおもっておった」
「転覆したらおれァ死ぬ。能力者なんだ。知ってるだろ」
磯から老爺を睨み付ければ、老爺は高笑いを立てた。慌ててしーっと合図をすると老爺は口をつぐむ。
「聞こえたらどうするんだよ」
「ああ、そうじゃったな。年甲斐もなくはしゃいでしもうた」
老翁は頭を?いてカヌーのベンチに腰を下ろし孫の持たせた弁当を頬張り始める。
「次に五番島に渡れるのは日が傾いてからじゃ」
「わかった。それまでに戻る」
「島親の〝幹部〟には気をつけろ。元々は名のしれた海賊じゃ。〝内科医〟〝麻酔医〟それから五年前に〝外科医〟が加わって、島親の忠実な手下じゃ」
ロシナンテは老翁の言葉に目を丸くした。
──五年前?
その情報は、ロシナンテの知らぬ間にこびりついていた懸念を溶かした。わずかばかりの疑いと不安を抱えていた自分に今更気がつく。〝外科医〟はローではない。
五年前なら、伝聞のかぎりではまだ新世界には入っていないはずだ。ロシナンテが深々と安堵の息をついたのをどう思ったか、老翁は口一杯に弁当を頬張りながら箸を振る。
「かつては四皇に次ぐといわれた実力者ばかりだが、今は見る影も無い。腕っ節はあるかもしれんがな」
「おれは戦闘にきたんじゃねェよ。そういうのは英雄の仕事。おれみたいのはその手伝い」
ロシナンテは苦笑して胸元の防水箱に手を添えた。
「英雄が動ける土台作りが、おれの役目なのさ。本来は」
老翁が肩をすくめる。ロシナンテは息をついて立ち上がった。
ロシナンテはフェザーコートを羽織りなおしてうんと伸びをする。胸元から防水箱を取り出して磯の岩陰から顔を出す。
カニを潰しかけて強かにはさまれるドジを踏みつつ、三番島の方角に目を凝らす。
遠くに白い箱のような建物が見えた。
「あれか」
「ああ、あっちがアルの表向きの工場じゃな。左に酒房、右が製薬工場」
「スモーキーたちが案内されるのはあっちだろうな」
この島の一大産業となり上がった花の加工工場であり、エルガニアの小規模ながら良質な製薬工場。
そして──アルカニロの麻薬工場の隠れ蓑。
「あっちを調べても何もでやせんわ」
老翁の言うとおりだ。しかし、ロシナンテは一番大事な場所がどこにあるのかを知っている。
「だが、アルカニロや幹部の目はあっちに向くだろ? その隙に工場へ潜入するのがおれの役目だ」
ロシナンテは乾いたコートを羽織直す。
「さて、まずは麻薬工場か」
低く呟くと、工場を背にして山の奥へと歩き出した。