三日月ブルーの煩悶 上 - 10/10

#8
 主の様子がさらに変わったのは、件の三日月の問いかけを聞いてみた時だった。
 口止めもされておらぬこと故、主がそれを聞いた瞬間に凍り付いたような顔をしたのを見て大包平共々冷や汗をかいた。
「三日月宗近が……?」
 どうしてそんなことを教えたのだ、と詰問されたが、さすがに「本丸の刀は皆知っていることを、三日月だけに教えぬのはどうなのだ」と大包平が諭せばぐっと黙る。
 歳こそ若く幼いが、主はもののどおりの解らぬ子供ではない。苦い薬を飲んだような顔で、鶯丸と大包平を見つめた。
「あの三日月宗近に何かあるのか、主」
 鶯丸の問いかけに彼女は慌てたように首を振る。
「ううん、何でもない。私が折り合いをつけなきゃいけないのはわかってる……。でも、あの刀は……」
 二振りはそのまま、三日月と仲良くしてあげて。と主はそのまま二振りを追い払うように自室に戻る。
「これはもう、長期戦だな。のんびり行こう」
「……地味な仕事は得意だ」
 古備前が顔を見合わせて肩をすくめる。
 主が善良な人間であることを、二振りはよく知っていた。
 時薬さえ効けば、彼女も三日月も打ち解ける日が来るだろう。

 鶯丸が、その口論を聞いたのはそれから二週間が過ぎようという夜だった。
 主が三日月に近づくことこそ依然として少ないが、新たに仲間に加わった恐ろしく強く、そしてのんびりとした気質の三日月宗近は本丸の一振りとして受け入れられていた。
 時薬を煎じる他にないと古備前の二振りが考えたように、他の仲間たちもそう思ったらしい。
 その夜、気持ちの良い初夏の風を楽しもうと、鶯丸と大包平は少しだけ障子を開けて寝ていた。ぴっちりと閉じれば高度な防音機能が機能する障子だったが、それがもったいないほどの夜だった。
 そよそよと入ってくる青葉の香りと、かすかに聞こえる虫の音は心地よい。大包平の健やかな寝息も合わさって、良い夜だった。
──何を企んでるの!?
 そんな夜を切り裂く、キン、と尖った女の声に微睡んでいた鶯丸は思わず目を覚ます。
(主?)
 そっと寝間着を整えて、布団を抜け出す。傍には己を佩く。ちらりと大包平を見れば、すでに目を覚まして気配を殺していた。
 障子の隙間から耳をすませば、低く答える太刀の声。──三日月宗近だ。
「何を、とは」
「しらばっくれないで。月橘鏡についてなぜ聞いたの」
「……聞いたなあ」
「それは私の家のご神体の一つだ」
 三日月は黙って答えない。その態度に、主の方がさらに激昂する。
「なんで貴方が知ってるの!」
 詰問する主に、三日月はうろたえたような声で応じている。
「なにも……知らぬよ。何も、主が案じることは……」
「嘘だ!」
 主がこれほど大きな声を出すのを、鶯丸は初めて聞いた。
「なんで貴方が私の家から盗まれたご神体のことを知っている! あれは、今はもう私しか名を知らないものだ!」
 鶯丸は目を見開いた。
「答えなさい、三日月宗近!」
 主の言葉は、それすなわち言霊だった。
 刀と主は主従の誓いを立てる。そういうシステムが構築されているし、本丸によっては書面や盃事で結ぶところもあるらしい。刀を刀剣男士たらしめる根幹の一筋は、その違いにあるといっても良いだろう。特にこの本丸の主はその霊力ゆえに言葉に強い力を宿すこともできる。それを、彼女は初めて刀に行使した。
 刀は主に従い、主は刀を従える。
 主が名を呼び命じることは、刀にとって絶対に近しい命令であった。
 細い月の薄明かりの中で、三日月は苦しげに眉を下げた。
「…………いえぬ」
 大包平が鶯丸の横で息を呑んだ。
「主の言霊に逆らえるとは」
「……いや、何か言おうとしている」
 三日月は苦しげに肩で息をしながら、それでも腰の刀に手をかけることはしていない。
 今、本丸中の刀たちがそっと刀を手に彼らの周りにいることなど分かっているだろうに。
「主……、いえぬのだ」
「答えて!」
 今にも泣き出しそうなほどの主の命にも、三日月は悲しげに笑うだけで答えない。
「……あなたも、私を殺そうとするの? 叔父上やお祖父様や、ほかのひとみたいに? 私が、罪人だから!」
「違う……! ちがうのだ、主」
 三日月宗近は首を振りながら、主に語りかける。
「本丸を、主を、俺は守りたい。それは前の主、”青山”名にかけて本当だ。だが、俺はあれの、あの馬鹿ものの意地を裏切れぬ……あれが本当に守りたかったものが分かったから──」
──青山。
 相続された刀が、前の本丸の情報を伝えるのは滅多にないことだ。特に本丸の暗号符口にすることは皆無と言っていい。
 鶯丸の中で一つの仮説が立つ。
 あの三日月は言霊に逆らっているのではない。
──何か、言えぬ理由があるのではないか。
 その中でこぼした暗号符は、彼の零した最大限のヒントだったのではないか。
 主が踵を返して去っていくのを見届けて、刀たちの気配が一つ、一つと消えていく。蜂須賀の気配が彼女に近づいている。
 鶯丸も寝直そうかと思った瞬間、隣の大包平がからりと障子戸をあげて中庭に降りる。
 憮然とした顔の大包平が肩に担いで連れ帰った三日月は、真っ青な顔で気を失っていた。