五 ことの起こり・後 - 2/2

治療

真っ赤に目を腫らした堀川が和泉守の手を握っている。新撰組の刀たちが部屋のあちこちに散らばり、刀を握りながら険しい顔で彼を見つめていた。
「……すまん」
 陸奥守は絞り出すように彼らに頭を下げた。
「陸奥守の所為じゃないよ。この馬鹿が限界まで我慢したのが悪いんだよ」
 彼の額を突いて大和守が肩を竦める。加州も頷く。
「……どうしたらよかったんだろうねえ」
 枕元に座る歌仙が途方に暮れたような表情で和泉守の頭を撫でる。
 和泉守は今、昏々と眠りについている。
 様子が段々とおかしくなっていたことは報告していた。傷が膿んでいくような速度で、和泉守の心がささくれ立ち、過敏になっていくのを陸奥守は側で歯がゆくも見守っていた。維新側の刀とやけに距離を取ったり、いつもなら気さくに話しかけにいく三日月や大典太を遠目に見ただけで踵を返したり、年の離れた兄弟の様に慕っていた歌仙兼定に怯えた様子を見せたり。
──それを必死に隠そうとしているのが何より痛ましかった。
 彼の心境を聞くことはできなかった。口にさせる事ほど惨いことはないだろう。
 故にこれは陸奥守の予想だ。
 堀川国広を見ると辛いらしい。陸奥守とて似たようなものだが、国広よりはまだ苦痛は少ないようだった。
 歌仙に至っては目に入れることにも耐えがたく、歌仙は直ぐにそれを察して離れに近寄らないようになった。新撰組の面々も同じだ。
 ついに三日目には主にさえも拒否反応が起こり始めて、流石に本人も驚いていた。
──全て、拒絶と言うよりは恐怖に近いものだった。
 和泉守の容態は波のような起伏がありながらもずるずると悪化していく。
 四日目には彼は一振り離れの中でじっと石像のように動かなくなった。この頃には誰も彼の側に近づくことは出来なかった。陸奥守は気配を殺して彼の側に居た。
 目を開き、障子の内側で居住まいを正している。
 破裂寸前の風船のような危うい衝動が彼の中に膨らんでいた。
 何かが彼を苛んでいて、それは彼の内側から溢れるものだった。身じろぎ一つすれば、それが彼を突き動かして刃を喉に突き立ててしまいそうなほど、その均衡は危うい。
 それを彼の鋼の理性が押しとどめているような危うさがあった。
 衝動と理性が拮抗し、気絶するように眠ることを選んだ和泉守を誰が責められるだろう。
 彼の昏睡と時を同じくして、和泉守と同様の刀剣男士が幾振りか昏倒したという情報が入る。
 その翌日には対処法も施療院より齎された。

 夢の通い路。古くからあるおまじないだが、今はそれなりに効果を出せる。
 施療院から遣わされた白衣の大倶利伽羅は淡々と術の説明をした。
「この呪詛の名は『ロトスの花』というらしい。ヨブ記とオデュッセイアにその元になったと思わしき名前があるが……、その話は報告書にある。読め。呪詛の効果だが、自害を図るか、昏睡するかの二択になる。この和泉守兼定の場合は後者だな」
 思いの外饒舌な白衣の大倶利伽羅は昏睡する和泉守の枕元に両手ほどの瓶を置いた。
 古代の地中海で活躍したという古めかしくも堂々とした三段櫂船が中で帆を張っている。百年は歳を経たそれは、今にも動き出しそうな躍動感に満ちており、陸奥守はこの船に自分たちとよく似た魂を感じた。
「オデュッセウスでは、これの元ネタに囚われた部下を船で引きずり出したという。同じ事をすべしとのことだ。見立ての詳細は報告書を読めばいい」
 手入れで直らぬものを治す為の施療院には、そういう術や知識に優れた刀や人が多く勤めている。
 寝ずの研究で漸く昏睡状態に陥った刀剣男士を目覚めさせることができたかと思えば、次は経過観察中の刀剣男士の状態悪化である。
 施療院も大変だったことだろう。
 事件記録を掘り返し、生き残りの刀にさえ聴取を行ってようやく呪詛の元を探り出し、さらにその解呪方法を突き止めた。
 大倶利伽羅は真っ赤に疲労しており、主が見かねて出させた一口団子に目を輝かせた。
 九十九の年を経た神代の帆船のレプリカを元にしたその術で、和泉守の呪いの渦中に飛び込めという話だった。
 既に最初に昏倒した刀たちは生還している。
「光忠の中に入った大倶利伽羅おれは蔵の中で燃えているところを引きずりだしたと報告した」
 陸奥守も、その場にいる刀たちも言葉を失った。それは、燭台切光忠のあまりに深い傷跡だ。きっと大倶利伽羅にとっても同じように。
 報告書に記されている事例を見て、主も痛ましく眉を寄せた。
 東京大空襲の夜を繰り返す御手杵。大坂城の中で燃えている一期一振や鯰尾藤四郎を兄弟たちが呼び返した例や、審神者に虐げられていた過去を見た例、ソハヤノツルキがまだみもしらぬはずの本科に罵られていたところに割り込んだ大典太等、克明に記される事例は生々しい。
 それを今まさに和泉守兼定も受けているのかと思えば、体中の血が凍り付くような心地だった。
 術の説明の前に、愁眉の大倶利伽羅が捕捉する。
「……だが、これは呪詛が撒き散らかされた直後に昏睡した刀の事例だ。良くも悪くも、ダイレクトに術を受け、同様に直接的に解いている。どちらにも精神の防御機構がほぼ機能していなかった。呪いは深くもあり、単純でもある」
「つまり、しばらく間が空いた兼さんは呪いが複雑になっている可能性があるって事ですね」
 大倶利伽羅は頷いた。
「呪いが軽いかもしれないが、和泉守兼定の拒絶によって複雑化しているかもしれない。まだこの例で解呪を試みた本丸がいないのでね」
 自分たちが試金石になるのだろう。
 主がしっかりと頷いてボトルシップを受け取った。和泉守を救う手立てがあるのなら、できる限りのことをする。主も自分たちも同じ気持ちであった。
 陸奥守は手を上げる。
「……主、わしに行かせとおせ」
 主は、少し逡巡して陸奥守に任せることを決めたようだった。歌仙と堀川には待機を頼む。
 歌仙は少し残念そうに頷いた。
「そうだね。……僕には見せたくないものがきっと多いだろう」
「僕も行きたい。行きたいけど……」
 堀川は目を真っ赤にさせながら和泉守の頭を撫でる。大切な宝物を愛しむ瞳で和泉守を見つめている。
「……僕と兼さんの根っこは同じでしょ。寄り添うことは出来る。支え合うこともできる。相棒だからね。……だからこそ今回は役者不足だ。陸奥さん、兼さんをお願いします」
 同じ傷をもっているからこそ。だからこそこの呪いに対しては堀川はミイラ取りがミイラになる可能性がある。そのことを、悲しくも堀川は理解していた。深々と下げられた頭に、陸奥守は慌てて手を振った。
「やめとおせ、大事な仲間の一大事じゃ。わしが出来ることならなんでもするぜよ」
「ええ。……大事な仲間、ですもんね!」
 青く大きな目を悪戯っぽく光らせて堀川国広がにっこりと笑う。
 何か藪を突いた気がして、陸奥守は慌てて主に術を掛けるよう頼み込んだ。
 決して無理はするな、と念を押される。主の表情は、今から陸奥守が土足で踏み込む彼の絶望の本質を理解しているようだった。
 大倶利伽羅も重ねて忠告する。
「易々と見せてくれるとは思うな」
 自分とて、そう簡単に人に心の奥の昏い部分を見せはしない。大倶利伽羅の忠言は確かだった。
 ちょっとした手順を踏んで主が船に術を掛ける。ものの心を励起させる力を持つ人の手で、瓶の中に風が吹く。
 帆が風を孕み、何百人もの手による櫂が海を割る。
 旅の途中、夢に囚われて動けなくなった船員を引きずり出したギリシャ神話の英雄の物語になぞらえた船が人の手でもって縁の海路へ漕ぎ出ずる。
 故にトリガーは海となる。
 主の声に従って目を閉じれば、とぷん、と水底に落ちた。