六 漸深層/寂寞
こっちだ、と引かれる手が、唐突にふと離れる。離れると言うよりは消えてしまったような頼りなさに思わず彼を探せば、目の前にくっきりとした人影が現れた。
髪を結うこともせず背に流し、身なりを整えることもしていないような着流し一つで、彼は暗闇の仲でさまよい歩いている。ふらふらと首を振りながら、何処を目指しているのか分からぬ覚束ない歩き方であった。
恐る恐る近づくと、彼の声が届く。
「……国広ォ」
ぞ、と陸奥守の背筋が凍った。彼の足下を見れば、彼は素足だった。その素足が、着物の裾が、泥土で汚れすり切れている。
ずっと歩いていたのだ、ずっと探していたのだ。諦めきれず、されども必死に縋るほどに希望も持てぬまま。
陸奥守は立ち尽くした。
「国広ォ……」
黒々と諦念が滲む頼りない声で、彼は彼の相棒を探している。
「清光ゥ、安定ァ……長曽祢さァん……」
首を振るのは、この闇の中に彼らを探しているからだ。足が汚れているのは彼らを探しているからだ。
喉元まで来ていた声が出る前に消える。ひくりと喉が動いたのが分かった。
陸奥守は、彼の気持ちが痛いほど分かる。
分かってしまうからこそ、掛ける言葉が見つからぬ。
──肥前の……。南海先生……。
喪われた彼らを探した日がある。喪われた事を信じたくなくて彷徨った夜もある。
和泉守はふらりふらりと彼らを捜し歩く。見つからぬと分かっていながら名を呼ぶ。迷子の子どものように彼は探し歩いている。
こんなに深く、傷ついていた。
つんと鼻の奥が熱くなって溢れた涙が頬を濡らした。
「……和泉守……」
涙声で彼の裾を掴んだ。彼の歩みが止まる。振り向いた彼が俯く陸奥守を見下ろした。彼の顔を見ることが出来なかった。
陸奥守の頭上から途方に暮れた声が、小雨のようにぽつぽつと降り注ぐ。
「……いないんだよ。誰も居ねェんだ。たしかに一緒にいたはずなのになァ。長曽祢さんも、清光も、安定も。……国広もいねえんだ……」
ぼたぼたと陸奥守の目頭から涙が海に融ける。
上の空の声が、陸奥守に尋ねる。
「みぃんなオレを置いて行っちまった。……どこにいるんだろうなあ。どこに行くんだろうな……、オレを置いて」
肥前忠広と南海太郎朝尊が顕現して以来、楽しい日々を過ごす中で陸奥守もまた何度そう思っただろう。
今は楽しい。
だが、全ての戦が終わり、刀剣男士が不要くなった時、彼らは何処へいくのだろう。
彼らだけではない。うつし世に本体の無いものたち。
加州清光や大和守安定、長曽祢虎徹、堀川国広の新撰組の面々。御手杵や薬研藤四郎、蛍丸、包丁藤四郎、今剣、岩融、小豆長光、ほかにもほかにも────本丸で友誼を結んだ彼らは何処へ帰るのだろう。もう二度と会えなくなるのだろうか。
するりと彼の浅葱だんだらの袖が陸奥守の手の中から抜けていく。
彼の口が再び、彼を遺して消えたもの達を探しはじめる。
この中で見失ったらもはや彼の姿を捉えることはできなくなるだろう。案内役の和泉守は虚像が──彼の絶望が──崩れてからしか現れない。呪いを解く──気を逸らすことができるのは今しかない。
だが、何を言えよう。彼に掛ける言葉を必死に探しながら、彼を追う。
彼の声が失われた仲間を探している。
かつ、と何かに躓いて足下を見る。
躓いた固い何かに手を伸ばす。冷たい鋼の感触。折れた刀の破片だった。ざりざりぎちぎちと折れた刀の破片を踏み越えながら彼は歩む。喪われた刀を求めて。
──戦場を知る、一振りのこった刀の深い業を垣間見る。
陸奥守は涙を拭って顔を上げる。彼をもう一度捕まえる。
「和泉守兼定!」
涙も涸れた虚ろの目が陸奥守に向けられた。
「……オレはこの戦が終わるのが恐ろしい……、そう思うオレが疎ましい。また、一振りきりで過ごす日々が怖い」
感情をそぎ落とした声が訥々と陸奥守に訴えかける。
彼の孤独を思う。
己のそれとも重なる絶望に、自分は何を言えるだろう。
これはもう嘘も方便──とごまかしは効かない。陸奥守もまた、心をさらけ出さねばならない。
ず、と鼻をすすって陸奥守は顔を上げた。
「和泉守兼定!」
「……ひとりぼっちだ」
「ほうじゃの、ひとりぼっちじゃ。わしらぁ、この戦が終わった日には一振りっきりじゃ……!」
けんど、と陸奥守は言葉を絞り出した。
「……けんど、おまんは居るろう」
喉がひっくりかえるような声で、陸奥守は和泉守の腕を掴んで告げる。
「おまんが居てくれるろう。いつかの日にも、わしは一振りにはならん」
和泉守の目が一筋光を得て陸奥守を見返した。漸く自分を見た和泉守に、陸奥守は繰り返す。
「戦が終わる日がいつかはくるじゃろう。……けんど、おまんがおる。わしは、戦が終わっても一振りぼっちやない。……わしはそう思っちゅうき……」
なんと情けない心情の吐露だろう。陸奥守は自分でも恥ずかしくなるほどにたどたどしい。子どものような訴えにも、和泉守は黙って耳を傾けている。
「そっ、それに、千年長らえちょったらもう一回肥前のや先生に会えるかもしれん。こん戦が終わるばあには、いろいろかいろ変わるかもしれん。そうにかあらんちや」
山姥切国広だって関東大震災で焼失しているという言説を裏切って見つかったのだし、天下五剣の数珠丸は数百年ほど居なくなっていたのだそうだ。
当の自分も、長い間伝・龍馬佩刀であった。歴史の流れの中で、自分たちがどのように転ぶかなどわかりはしない。
もしかしたら陸奥守の知っている肥前忠広や南海太郎朝尊がどこかから見つかる日が来るかも知れない。
新撰組の面々とてこれからどうなるかなんて誰もわかりはしないのだ。
それが未来というものの可能性であり、未来というものの内包する希望である。
陸奥守吉行が見据える“明日の世”は、朝日の昇る水平線のような眩いもので満ちている。そうあって欲しいと、陸奥守は祈っている。
「おまんにも、わしが居るよ。……そう思ってくれるとわしは嬉しい」
彼の冷たい掌を握りしめて陸奥守は顔を真っ赤に染めながら告白した。愛しているだとか、好きだというよりも余程恥ずかしい告白である。
おそるおそる様子を窺えば、和泉守はびっくりした顔で陸奥守を見ている。
「お前……」
彼はようやくいつものような不遜な表情で、目を眇めた。見えにくいものを見るような、初めて見るものを確かめるような視線に陸奥守は彼の手を離して手扇で顔をあおぐ。
「……お前ほんと」
和泉守はくすりと笑みを浮かべた。陸奥守が思わず息を詰めるほど、それは柔らかく慈しみ深い眼差しを陸奥守に向けていた。
「じゃあその日まで折れてくれるなよ」
「お、おん。おまんもにゃあ」
「……ははっ」
二代目兼定によくよく似た、とろけるような微笑みのまま、彼は闇夜に解けて消える。
それでもまだ、陸奥守は海の底に居た。
目に焼き付いた表情を、現実でも見たいものだと考えながら、陸奥守は向かってくる幼い足音に目を向けた。
「終わったか」
「和泉の」
彼は初めの頃よりもずっと疲れて見えた。もう刀をもっているだけでも億劫そうに陸奥守の手に手を伸ばす。
──その手を、陸奥守はとってやることはできなかった。
彼の手から逃れて距離を取る。幼い彼がひどく驚いた目を向ける。
「あ……」
「……和泉の、いかんよ」
うなりを上げた水流が、陸奥守を巻き込んでふき飛ばした。
小さく細い手を伸ばした案内役が、悲痛な顔で陸奥守に、止めてくれ、と悲鳴を上げた。