七 海底/無力 - 2/2

七 海底/無力

荒れる海の中、うねりが陸奥守を彼の心の深潭へと導く。
(……すまんにゃあ。和泉の……)
 陸奥守は最後にみた彼の表情を瞼の裏に浮かべて心から詫びた。やめてくれ、と悲痛に歪んだ彼を抱き寄せてそのまま留まっていられたならばどれだけ良かっただろう。
 だがそれは出来ない。
 どれほど、彼がそう望んでも陸奥守はそれに頷くことはない。
 案内役の彼こそが“和泉守兼定”そのものだと、陸奥守は分かっていた。
 何しろ彼だけがかれじしんを持っていた。
 虚像は刀を持ってはいない。
 そのうえ自分が「案内役」であると嘯く彼が導くのは、呪いに犯された傷から遠いものばかりだった。
 それを陸奥守に見せてまで、陸奥守や他の誰も踏み込ませたくない大きな痛みがあるのだろう。
──戦にしか己の価値を見いだせぬと思い込んだ僻見。
──前の主に最期まで共ができなかった惜別の情。
──再会の歓びの中で生まれる寂寞の思い。
 どれも彼の魂に刻まれた傷だ。
 それでも、それらは呪いによって膿爛れた傷ではない。
 これらは彼の中で飲み下し、あるいは修行の度の中で折り合いを付けて帰ってきたものだ。陸奥守に見せてもまだ良いと思える恣意的に選択された傷だ。
 もっと、もっと深い場所を陸奥守は暴かねばならない。
 それがどれだけ、彼を傷つけようとも。
(……嫌じゃ。本当はおまんの傷らあて見とうない。……おまんのことをこれ以上苦しめとうない。もういやじゃ……それでも)
 治癒を望む本能は陸奥守を呼び、知られることを拒絶する本心案内役は陸奥守を遠ざけようと足掻く。
 陸奥守は彼の心を撥ねつけた。
 どれほど傷ついただろう。陸奥守には想像してやることさえ出来ない。見ないでくれと叫ぶ彼を撥ねつけて、土足で踏みこもうとする自分のなんと醜悪なことだろう。
 それでも、陸奥守はそれを選んだ。選択したことに後悔はない。
(すまんにゃあ、和泉の。これはおまんの為やない。ましてや本丸の、主の、この戦のためでもない。……わしのわがままじゃ)
 滲む涙を、陸奥守は乱暴に拭った。
「和泉の!」
 声を張り上げる。
 遂にうねりはぽん、と陸奥守を放り投げた。彼の心の一番悲しく昏い場所。果てない海溝へ、陸奥守は抵抗もなく身を投げる。
 海溝に満ちるは獣の咆哮──否、彼の嘆き。
「わしはおまんと明日が見たい」
 落ち行くまま、海溝の底に陸奥守は手を伸ばす。
 体中にのしかかってくるような闇のなか、海溝の底に彼はいた。
 刀を抱えた幼子が泣き腫らした青い双眸で陸奥守を見上げた。

 

 

「和泉の。やっと見つけたがよ」
 案内役をしていた和泉守兼定がそこにいた。
 そこに降り立って、陸奥守は踞る幼い姿の和泉守の横に腰を下ろした。彼は陸奥守が近づいた途端に長い髪に隠れて、まるで黒い繭の中のさなぎである。
 強いて引きずり出すことはせず、陸奥守は黙って彼を見下ろした。小さな頭を撫でる。
 どうして案内役として出てきた彼は幼い姿なのだろうと思っていたが、ここに来て漸く理解した。彼は自らの思う未熟さの姿をしていたのだ。
 彼の嘆きは声なき声となって海溝に響いている。その密度も、圧力も先ほどまでのものとは違う。
 無理矢理に暴かれ、爛れた膿が自ずと溢れてしまっているのだろう。
 幾度となく繰り返したことだが、この呪いの悪辣さを陸奥守は再び憎んだ。
 自らの未熟と、力不足をこれほどに嘆いている。自分が二代目兼定であれば主の評価はもっと高かったのではないか。前の主の持つべきは、自分などではなくもっと価値ある、古い刀であったのではないか。
 刀が滅ぶ時代に打たれた自分は、生まれながらに“時代遅れ”の刀なのだ。最後の、終わりの、新しい刀など何の意味があるのだろう。
 それでも、自分は良い刀でありたい。主に誇れる刀でありたい。
 そういう葛藤を、彼は叫んでいる。
「和泉守兼定」
 陸奥守はそっと彼の名を呼んだ。
「おまんは、まっこと良い刀じゃ」
 だがそれだけ、だ。と海底に谺する嘆きが応える。時が違うと彼は嘆く。
「わしらあみんなそうじゃろう」
 黒い繭玉が激しくかぶりを振る。
「刀はみぃんな時代遅れじゃ。おまんだけやない」
 ぽんぽんと彼の背を宥めながら、陸奥守は彼に語りかける。彼はかぶりを振って否定する。
──ま、そうじゃろうにゃあ。
 簡単に説得できるようなものではない。陸奥守の言葉が通じるような傷ではない
 そういう、簡単なものではないのだ。自分が名刀であることも、子々孫々と愛されていることも、十分に分かっていてもそれでもぽっかりと血を流す傷がある。
 彼の心の奥底。彼自身すら自覚無くほろりと零れてくる苦しみを、他者がどうこうすることはできない。
 陸奥守は彼を赦すことは出来ない。それができるのは彼自身だけだ。
 それは歯がゆくも、仕方ないことだった。
「にゃあ、和泉の」
 小さな彼を抱き上げて膝に乗せ、陸奥守は彼に覆い被さるように抱きしめた。小さな身体がびくりと怯え、かたかたと腕の中で震えている。
「……わしらあ本丸が始まってからずーっと一緒に戦ってきたねゃ。ま、こじゃんと喧嘩もしたがやけんど」
 突然移った話題に、青い目が黒髪の隙間からきょとんと陸奥守を見上げる。それをまっすぐに見返して、陸奥守は笑う。
「前におまんの漬けた沢庵、まっこと美味かったねゃ。今は堀川が作りゆうけんど、またおまんも作っとおせ」
 堀川国広が本丸に来たときに食べさせてやるのだと歌仙と二振りで試行錯誤をしていたのをついこの間のように思い出す。
「そうじゃあ、この前うちんくに来ちょった研修生の初めての鍛刀、なんと毛利藤四郎なんじゃと。わしらぁあがぁに大坂城出陣しても出てこんかったがに……まっこと戦況っちゅうがは生き物じゃねゃ」
 本丸一丸となって大坂城を掘り進め、漸く得た毛利藤四郎が、先日めでたく修行と相成った。
 小狐丸が帰ってきたら彼も出立することになっている。二振りのための祝宴の支度は三条と粟田口合同で進めており、自分たちもたいそう楽しみにしていた。芸達者の揃う粟田口と三条だ。今から二ノ丸に檜舞台がしつらえられている。三条の演目は小鍛治だろうともっぱらの噂だった。
「……そうだな……。平野が篭手切と稽古してた」
 唖然としていた和泉守が、陸奥守の勢いに押されてぽつりと呟く。
「あ。この間来た青毛の若駒、名前もう決めたがかえ? おまんが命名権ゲットしたがやき、そろそろ決めてやらんと可哀想じゃ。おまんがとっと決めんき、三日月の月シリーズに加わりそうじゃいか」
 白毛の名月号、青毛の朔号に若月号と、今年に入っては全て三日月が命名権を得ている。
 先だっての江戸城で得た青毛の馬の命名権を巡る戦いを制したのはなんと和泉守だった。三連勝中の三日月を鼻差で差した競べ馬は大いに盛り上がり、本丸を大いに盛り上げたのだった。
 若駒の名を決めかねている内にこの騒ぎだ。目覚めた頃には十六夜月号などになっていそうだと笑う。
「……やだよ。トシ号か、土方号にすンだから」
「めった、おまんらあ以外乗り難い名前やいか!」
「オレも乗りにくいかもしれねえ」
 くすくすと和泉守が笑う。
 いつの間にか和泉守の姿はいつもの刀剣男士としての姿になっている。極める前のおろし髪は懐かしくも愛おしい。膝に乗った髪を梳きながら、陸奥守は自分たちだけの思い出話を続けた。
「こじゃんと前、資材も金も尽きたことがあったろう。あんときは土筆も蓬も芹も野蒜も採って食べたにねゃ」
「ああ。そうだったな」
「袴を取ると指が真っ黒になるき、加州が嫌がっちょった」
「そのくせ、アイツそういうの好きなんだよなあ。木の芽の天ぷらとか、野蒜の酢味噌和えとか」
「今年も全部採ったがよ。大千鳥と泛塵がまっこと上手いんじゃ」
「そうかあ……。之定の天ぷらが良いな」
「ほじゃのお。わしは燭台切のワイルドグラスの西風オムレツがえい」
「ンだよそれ……」
「野草の卵とじじゃ」
 ふはっ、と吹き出した和泉守がけらけらと思い出して笑う。
「燭台切のそういうところ好きだぜ」
 本丸は発足したばかり。主がまだまだ病弱で、金も資材も食材さえろくになかった時、所謂“貧乏メシ”に格好良い名前を付けてみんなを鼓舞していたのが彼だ。サニーサイドエッグライス目玉焼き乗せごはんやら、春野菜の和風リゾット野草の雑炊やら。みんなで涙を流すほど笑いながら食べた安上がりにも程があるご飯など、今はもう知らないものの方が多い話だ。
 そんなときから、陸奥守と和泉守は本丸で戦い続けてきた。初めの刀として、どれだけ本丸で和泉守や他の刀たちに支えられてきたか陸奥守は分からない。本丸での思い出は数えきれぬほど積み重なっている。
 勝利も敗北も、喜びも悲しみも共に駆け抜けて物語を紡いできた。
「──わしは、おまんのことを本丸で初めて知った」
 新撰組の刀は時代遅れの頭の固い連中だと、陸奥守はそう思っていた。仲良くなんてなれないとも想っていた。
 それでも、共に肩を並べて戦い、暮らし、同じ釜の飯を食う内にひょっこり惚れてしまったのだから、刀の生も分からないものだ。
 彼の髪を梳きながら、この滑らかな感触を知れた幸運を想った。
「……おまんが内番を好かんことも、新撰組の刀らあを大事に思っちゅう事も。がいなことも。味噌汁は辛めがえいことも、長篠で初めて検非違使に遭うてえらい目におうたことも、上田城で這う這うの体で大将首とったがも、戦場で夜明けを待った朝も──わしらあの本丸の、わしとおまんとの物語じゃ」
 目元の髪を払い、彼の頬を撫でる。柔らかくはないが、滑らかだと思う。
「知っちゅうがやろうけんど、わしはおまんのことが好きじゃ」
「おう、オレだって嫌いじゃねえよ」
 ふい、と顔を背ける仕草を照れていると理解できるほどには、自分はずいぶんと彼を知っている。自分の膝に甘えてくるこの刀を大事だとおもう心は、唯一無二のものだ。
「わがまま言ってもえい?」
「おー」
「おまん自身がおまんを許せんでもえい。わしらあがいろいろかいろ言うことがやないきに」
 すいと流された青い視線が陸奥守のそれと絡む。
「それでも、和泉守兼定。これからもわしと明日を生きとおせ」
 どれほど辛い日でも、寂しい日でも、喧嘩をしてもそれでも。
「これからも、おまんの思うおまんの価値と、わしの思うおまんの価値は違うじゃろう。わしにとっておまんは大事な大事な愛しいひとじゃ」
 直截的な睦言を告げたことはなく、陸奥守は言ってしまってから顔が火照るのを感じた。
 ぎょっと驚いた顔をしている彼の顎を掴んで、思い切り口づけた。
 初めて触れる唇の感触は殆ど分からない、これは夢だ仕方あるまい。
「おまんのことがこじゃんと好きやき、それは信じとおせ」
 唇をはむ吐息の合間に囁く。戦友として、仲間としての感情ではない。彼にだけ抱く特別な感情がある。
 澄んだ碧い目を丸くしたまま、驚きすぎてぐふ、と咽せる声は色気もなにもあったものではない。
 いつの間にか結い上がっている襟足が掌に触れる。どちらのものかも分からない心臓の音が響いている。
 永遠にも思える寸刻。
 合わせているだけだった唇がどちらともなく離れる。なすがままの和泉守と、満足げな陸奥守が鼻先が触れあう距離で見つめ合う。
「……おまえ……」
 呆然としたままの和泉守が、ぽつりと呟いた。
「……なんで今するんだよ……今言うことか……?」
 言葉にして我に返ったのだろう、徐々に目を吊り上げて陸奥守の胸をきつく叩く。罵声そのものの声で陸奥守を詰る。
「なんで! 今! てめえ、今まで言わなかったじゃねえか!」
「らあて、おまん嫌じゃろうと思うちょったきね!」
「オ、オレだって、お前はそんな気ねえんだって……! だからオレァ……!」
 殴りつける拳を慌てて避けて、陸奥守は声を上げて応える。
 それに更に怒りを刺激されたのだろう、仁王立ちになった和泉守は顔を真っ赤にしていた。
 今度は照れているのではなく、会敵したときでさえ見せぬような激怒である。
「なんで今……、馬鹿野郎……!」
 怒りのあまりふるふると震え始めた和泉守が、陸奥守を蹴り飛ばす。それをまた更に避けて、陸奥守は肩を竦めた。
「また明日、もう一回させとおせ」
「絶対ヤだね! 今日は国広部屋で寝る!」
 カッカと烈火の如く怒りながら地団駄を踏む和泉守の姿がふっと薄れる。切れかけの電灯のように姿がちらちらと明滅し、陸奥守が見守っている内に今までの和泉守と同じように、電気が消えるように姿が消える。
──ぽつんと一人取り残されて、今度は案内役の和泉守も現れない。
 予想通り、気が逸れてくれたらしい。
 陸奥守は深い溜息を吐いた。肺の中の空気が全部抜けていくような溜息が、気泡となって何処かに吹き飛んでいく。
 陸奥守はひっくり返って目元を両手で押さえた。
(わしらぁて!!)
 ばたばたと足を振って内心で口惜しさに呻く。
(わしらぁてこんな場所で初めての口吸いしとうなかったぁ!! もっとちゃんと告白したかったちや!)
 どうせ今まで言葉に出来ていなかったのだから、するときはもうちょっと雰囲気のある場面でしたかったのだ。最近買い求めた夜桜の庭とかで、良い酒を差し交わしながら──。せっかく主に会津の大吟醸を執務室に隠してもらっているというのに。
 これではまるで彼の弱みにつけ込んだ酷い刀ではないか。これで本当に和泉守に見限られたらどうしてくれよう。
 地団駄を踏みたい気持ちで暴れていると、いつしか水が引いている。

 

 本当にこれで終わったのだろう。
 耳の底に主が呼ぶ声と戻るべきえにしの海路が示されていく。
 どうか今度は現実でできますように、とらしくもなく祈りながら陸奥守は目を閉じた。