タルタロスを越えて - 2/5

──冥界と海が別たれて数百年が過ぎ去った。

オリュンポス山の地下深く、オケアノスの向こう側、五つの川を越えた先、死者の訪う果てに、冥府はなお存在する。
クロノスとレアの息子にして富めるもの、目に見えぬもの、名高きもの、豊穣を司るもの、地下世界を統べるもの、良き忠告者──様々な名を持つ冥府の神にして王ハーデスは、彼の宮殿である冥府宮で多忙と退屈と疲労に殺されかけていた。
「……疲れた……」
変わりばえのない忙しい冥府。人が死ぬ宿命を負っている限り、ハーデスの仕事は尽きない。
主にタナトスが、時にヘルメスが冥府に魂を運ぶ。五つの川を渡って来た亡者たちはエリュシオンへ向かうか、エレボスで暮らすか、タルタロスへ落ちて行くかをハーデスと三人の裁判官の手で裁かれてゆく。甥であるアレースが訪うこともあれば退屈も紛れようが、残念ながら──人と神々ににとっては幸いながら──アレースの出張るような戦争はここ数千年起こっていない。彼がわざわざ冥府へ来ることも暫くなかった。
退屈と、寂寥と、積もり積もった疲労。
ハーデスは淡々と裁きを下しながら、ふ、と胸の内を過ぎる寂寥に眉を寄せた。
紫がかった短髪を搔きまして髪を乱し、大理石の巨大な机に突っ伏すと、側に控えていた二人の男女がすかさずとばかりに口を挟んだ。
「五百年と飛んで二十三年、ハーデス様はろくにおやすみなさってませんもの」
と、麦穂の色の髪を肩口で揃えた穏やかな表情の娘が微笑む。彼女に便乗して、同じ麦穂の色をした短髪に眼鏡をかけた青年がハーデスを促した。
「丁度いい機会です。少しお休みなさったら如何です。ここ何十年か地上に大きな戦もありませんし」
「アイアコネ、ミノス……」
賢き王、賢き女王として国を治め、死してのちは長くハーデスを支える冥府の裁判官の二人はあっという間にハーデスを立ち上がらせ紫に染めた絹で織ったゆったりとした上着を脱がせ、待ち構えていたかのように、よそ行きの豪奢な装束を差し出した。
冥府をでてオリュンポスに行くような時にしか着ない衣装は、かれこれ五百年は棄て置いていた筈だ。
「おまえら、これどっから引っ張り出して来たんだよ」
アイアコネとミノスはよく似た表情でハーデスに笑いかけた。
「いつかハーデス様が外に出ようと思われる日まで」
「アイアコネが綺麗に繕って、僕がラビュリントスに仕舞っておいたんです。アステリオスがよく守ってくれていましたよ」
「おまえらな……。これはもう捨てろと言っただろう。あんなにぼろぼろだったのに、よくもまあ……」
二人はふわりと慈しむように微笑んだ。
両肩を抜き、袖先を冥府の鴉羽と金のバングルの付いた装飾した紫に染めた厚織の広袖と黒染めの薄衣。揃いの薄衣の腰布と黄金のベルト。その他にもアメジストのピンに、杖代わりの骨に、細々とした美しいアクセサリー。
杖代わりの骨には丁寧なことに金の装飾さえ付け加えられていた。
「捨てません。これがなければハーデス様は地上へさえも参られなくなる」
ハーデスの胸元に装束を押し付けて、ミノスは真摯に告げた。ハーデスが装束を受け取ると、ほっと表情を綻ばせる。
「十二神でもない僕は、別にどこにも行く用事はないんだけど」
「用事がなくても、あなたの行きたいところへ行って欲しいんです」
──ちょっと休むくらいで大袈裟だなあ、と二人を揶揄おうとして、ハーデスは言葉を飲み込んだ。
五百年の間、そういえば一日でも気の休まったことがあっただろうか。年を追うごとに、そういえば二人から再三休め休めとせっつかれてはいなかっただろうか。
五百年前、水泡のような儚さで海原に消えた想いをこの二人だけは知っていたことを思い出した。
「じゃあ……海を見て来るよ」
二人は目をまるくした。
何百年も文句もなくただ冥府を治めていたハデスの、久方ぶりの欲であった。
サファイアを溶かしたように青く、燦々と輝き、揺らぐ太陽の下で砕けた水晶の水しぶきはきらきらと反射する。そして、その青くまばゆい世界の中で──。
青く美しい世界とともに想起したものに、ハーデスは口を抑えた。
少しの驚きをすぐに収め、アイアコネが嬉しそうに手を合わせた。
「見に行かれませ」
ミノスもまた頷く。
「たまの暇には裂け目から花を見るくらいで。たまには羽を伸ばしても誰も文句は言いませんよ」
「そうですよ、私たちでも十年くらい大丈夫ですから」
「帰ったらお前らがハーデスになってそうだな」
しっかりものの二人にすこし口を尖らせると、ミノスがはっきりと首を振る。
「それはありません。冥府を治めることができるのは、貴方様しか居られない。ちゃんと帰ってきてくださいね」
それでも戸惑うハーデスの背を、二人は言葉巧みに押した。ハーデスはうろうろと視線を彷徨わせ、彼らの視線に根負けして深く溜息をついた。
パッと顔を輝かせる二人に、ハーデスはふと顔を上げた。
「……あ、じゃあ隠れ兜だけかぶって行く」
「ハーデス様……」
「それくらいいいでしょ……」
呆れた顔の二人に隠れ兜を持ってきてもらい、ハーデスは独眼の鍛治神キュプクロスに贈られた大きな角の付いた兜を抱えて宮殿を後にした。こつ、こつと骨の杖を硬い地底で鳴らして、二人に振り返った。
「じゃあ、行ってくる。すぐ戻るよ」
「行ってらっしゃいませ」
「すぐに戻らなくても大丈夫ですよ」
「でも帰ってきてくださいね!」
ハーデスの持つ兜は、彼の宝の一つである隠れ兜アイドス・キュネーである。これを被ればハーデスの姿はこの世のどこからも消え失せるという優れものであった。
「おれのいない間のことは頼んだよ、ケルベロス」
「にゃぁお」
「逃げるような奴は、いないだろうけど」
「にゃあ」
宮殿先の愛しい三つの獅子の首を持ったケルベロスに後を頼み、ハーデスは一路、冥府の奥のそのまた奥へと歩き出した。タルタロスの手前で兜をしっかりとかぶり、動きがぎこちない左足を軽く引きずりながら。

冥府の果ての奈落、タルタロスを越えれば青銅の門が見える。固く閉ざされた青銅の門を内側から少し開き、するりと門の隙間を抜ける。
海側の門を振り返れば、憎しみがぶつけられているかのようにあちこちが凹み、美しい装飾は見る影もなく、崩れている場所さえあった。しかし、骨杖でつつけばそれでもまだ硬い音がする。ポセイドンの築いた硬い青銅の門はどんな八つ当たりを受けても、二人の誓約に従って一度も開くことはなかったらしい。
「……酷いことしやがる。何もおれが憎いからって」
ハーデスはため息をついてまじまじと青銅の門を眺めた。執拗に傷つけられた門の破損箇所を頭に叩き込んで一つ頷く。
「帰ったら修理してもらわなきゃな。ゼウスからキュプクロスたちに頼んでもらおう」
ハーデスは独りごちると青銅の門に背を向けた。
ハーデスは海の中を杖をつきつき歩き出した。一寸先も見えぬ闇の中を、骨杖を頼りに歩くうちに段々とあたりがほの青く明るくなる。
「久しぶりだね」
深海を泳ぐ怪物たちに声をかけながら、怪物たちが姿の分からぬ声に驚くのを純粋に楽しんだ。
──太陽は好きだ。
甥子であるアポローンの統べる太陽の巡りは好ましい。
何しろハーデスは、生まれた瞬間に父神クロノスの腹のなかに呑み込まれ、出たところですぐに戦。戦が終われば死者で溢れる光の届かぬ地下冥界へ下り、冥府を治める日々が続くような暮らしをしている。ゆっくりと日を浴び、青空を眺め、雲の流れを見守り、地上の豊穣と四季折々を喜び、黄金の麦穂に胸を温め、春の花々に心を和ませるような生活とハーデスはどうにも縁がなかった。
縁がなかった筈のハーデスの手を引いて、外へ連れ出したのは、弟であり兄である海の神ポセイドンであった。
──ハーデス兄上! そんな冥府に篭ってちゃつまらないだろう? 今はアーモンドの花が満開なんだ。見にいこう!
神さえ恐れるタルタロスを越えて、冥府宮へ訪ったポセイドンはそう言ってハーデスの手を引いた。
その時に見たオリュンポスの宮殿に咲き誇るアーモンドの薄桃色の花の美しさは、ハーデスの胸の中の大切な思い出として鮮明に思い出せる。
アーレスとはまた違った意味で、その頃ハーデスとポセイドンは親しかった。
冥府と海を分かつ門の無かった頃の話である。

段々と日の届くところへ登って行くと、下半身が美しい魚となっている愛らしい少女を見つけた。奈落へ続く崖で唄う、金を紡いだような二つ結びを頭に高く結ったセイレーンに、ハーデスは姿を消したまま問いかける。
「ねえ、ポセイドンがどこにいるか知っているかい」
「その不思議な声は何処のお方でしょう。お声はするのにお姿が見えません」
鈴を転がすような美しい声で、歌をやめたセイレーンは目を丸くした。ハーデスが再び問うと、セイレーンは素直に返事をした。色めかしく睫毛を伏せて、にこにこと不可視の神に応じる。
「ポセイドン様なら、今日はイルカとお遊びになるとお聞きしましたわ。今頃はオケアノースの海にいらっしゃることでしょう」
「そうかい、ポセイドンはここによく来るの?」
「ええ、来るといつも奈落の底で恐ろしい音がするのでよくわかります。神器トリアイナをいつもお持ちになって来られるのです。なにしろあの悪戯者が──」
「そうかい、それほど俺が気にくわないか」
吐き捨てるようなハーデスの声音に、セイレーンは驚いたように目を丸くした。
「えっ」
セイレーンの驚きの声を聞くより先に、ハーデスはその場を去っていた。
セイレーンはきょろきょろとあたりを見回すと、再び高らかに歌い始めた。高く高く、今頃は海面の岩場で唄う、鳥の羽を持つ姉の元へと届くように。

魚のセイレーンに教えられた通り、ハーデスはオケアノスの海へ訪う。
広い広い海の底で、風に揺れる水面と、そこから差し込む麗らかな陽射しを浴びながら、オケアノスのさ中にあるポセイドンの海の宮へ向かっていた。ゴツゴツとした岩肌の海底から、段々と雪のように白いサンゴの砂原に変化していく。振り向けばサンゴの砂原に一本の線が引かれていた。引き摺る左足が遺した道しるべにハーデスは少し眉を寄せる。
──そうか、俺の脚、持ち上がらねえくらいには悪いのか。
ずっと冥府宮で暮らしていた上に、杖さえあれば気にもならなかった不具が眼前に突きつけられ、ハーデスはため息をついた。
──今度アスクレピオスに頼むかなあ。
彼に頼めばこれくらいのことは直ぐに治してくれるだろう。オリュンポスまで足を伸ばせば居るはずだ。自分が殺したような又甥だが、冥府と現世の規律の為だと彼も理解してくれて居る。とはいえ、医術の神だとしてもこの足を治せるはずがないこともハーデスは知っていた。
ぼんやりと考え事をしながら、美しい色取り取りの珊瑚礁の合間を擦り抜け、白い砂の海底を進む。
ふと、はるか遠くで、懐かしさに胸が張り裂けそうな声がした。
「ははっ、擽ったいぞ。My Dolphins」
ハーデスは海底から水面を見上げて息を呑んだ。声の方へ歩いていけば、すぐに姿が見えた。広大な青い海中で彼は幾頭かのイルカと戯れていた。
──ああ、居た。
まばゆい空の下太陽の燦々と差し込む何処までも青く透き通った、サファイアを溶かしたような海中に彼はいた。
記憶の通りの美しさの透き通った海の中で、イルカと戯れているのは、確かに嘗てハーデスの弟であり、いまや兄となったポセイドンであった。
海の中をしなやかな海蛇のような長髪が遊ぶ。
ハーデスは海底に足をつけたまま、ただポセイドンを見上げた。兜がある限りポセイドンにハーデスの姿は見えない。それをいい事に、ハーデスは白い砂の海底に堂々と立ったままで、隠れることはしなかった。
海の中で自在にイルカと舞い踊る海の神の姿に、ハーデスはうっとりと見惚れた。
黄金の手甲と金の鉄靴は、波間に差し込む光に太陽よりも眩く揺れている。手と足のみを覆う銀の糸で縫い合わされた青い宝石を束ねた鱗の衣は美しく彼を彩り、王冠ステファノスはやはり凛と彼の頭を彩っていた。
イルカたちはポセイドンにじゃれ付き、時にポセイドンはイルカと目を見合わせて頬をすり寄せた。
「ははっ止めろったら」
低く甘やかす声に、ハーデスはそっと目を伏せた。
──ポセイドン、海の神よ。全ての物質界を統べる地上の王よ。俺の弟よ。何故お前は俺を憎み、青銅の門で二つの世界を隔てた。何故憎んだ。何故、俺を憎んだ。俺とお前は、確かにその想いに溺れるほどに慈しみ合い、ヘパイストスの炉にさえ勝るほどに愛し合ったのでは無かったか。
冥府の王の憎らしいほど愛おしい海の神。もう五百年は彼と顔を合わせた覚えがない。
最後に見たのは、嫌悪に顔を歪め、トリアイナを突き付けて青銅の門を作り、ポセイドンはハーデスと冥府を拒絶した、あの日のことだった。

「じゃあ、行ってくるから」
「行ってらっしゃいませ」
「早く帰ってきてくださいね!」
その日も、ハーデスはいつものように後をミノスとアイアコネの補佐官とケルベロスに頼み、余所行きの服で宮殿を後にした。
「ケルベロス、亡者やティターンの神たちが逃げようとしたらすぐに捕まえろよ」
「にぁーお!」
その日は、日々多忙を極める冥府の王ハーデスの数少ない楽しみの一つである、海の王ポセイドンとの逢瀬の日であった。
兜は宮殿に置き去りに、軽く冥府のごつごつとした岩肌を蹴るようにハーデスは冥府の奥の奥へと進む。
タルタロスを越えて、少しティターン神の様子を確かめ、吹き荒れる風の少し騒がしい界隈を抜けて、海へ出る。
そこには待ち長い顔をしたポセイドンが、彼のイルカに乗って待っている筈だった。
──タルタロスを越え、その果てにある青銅の堅牢な門と冥界と現界の境を隔てる青銅の壁を見るまでは、ハーデスは心を弾ませていたのだ。
「なんだこれ」
ハーデスがその門の存在を確認したとき、思わず溢れた言葉は、今も覚えている。
冥王ハーデスの裁量なく何故こんなものがあるのか、と憤りよりも先に困惑した。
それでも、あるという事実を受け入れ、では誰がなんのためにと青銅の門へ近づいたときだった。
「ハーデス」
門の向かい側から重苦しい声がした。
「ポセイドン?」
ハーデスは、そのとき確かに安堵した。
──これは何? ポセイドン、お前何か知ってる? と、ハーデスは門の向こうの彼に尋ねようとした。
「貴様にはほとほと愛想が尽きた」
低く重い声に、ハーデスはぞくりと背を粟立たせた。
頭に去来する恐ろしい予感に気付きたくもなく、ハーデスは青銅の門に手をついて彼の名を呼んだ。
いつものように、タチの悪い冗談だと笑って、その門を開けてくれると思っていた。
「ポ、ポセイドン?」
その予想は、彼の北の果ての海よりもなお冷たい声によって無残に捨てられた。
「よくも俺を誑かしてくれたものだな」
ハーデスが思わず青銅の門を開けば、その鼻先に黄金の鉾先が突きつけられた。
「なんでそんなものを……」
海を裂き地を轟かす威力を持つ、キュプクロスより贈られた三つの神器のうちの一つ、ゼウスの雷霆ケラウノスと並ぶ、三叉矛のトリアイナを向けられ、ハーデスは息を詰めた。そしてなにより、雄弁に嫌悪を語るその青い瞳!
恐ろしい予感はたちまちに現実となり、ハーデスの心を引き裂いた。
「俺がどれほど愚かだったか、お前はそれを見て嘲笑っていたのだろう」
「なんのことだよ!」
「白々しい! 俺が知らぬと思ったか、お前は俺を愛していると嘯き、俺を欺いていたのだろう。俺のことを、愚か者だと嗤っていたのだろう!」
「だ、誰にそんなことを聞いたんだよ!」
──確かにそれは、いつか零したことがあった。しかし、それは決して彼を嘲笑うためなどではなく、己などに感けて、慈しむ彼への感謝と気恥ずかしさの裏返しでしかなかった。
それを分からぬポセイドンでないだろう、とハーデスは顔を気恥ずかしさに赤らめ、語気を強めて応じた。
しかし、ポセイドンは、その言葉に更に眉間の皺を深めた。トリアイナの鉾先の向こうで、地を這う虫に向ける嫌悪をハーデスに向ける。
ハーデスは思わず驚きのあまりに後ずさった。
彼の反応から、それが失言であったことは明らかであった。ポセイドンのかすかに残っていたはずの情が穴の空いた器から漏れ出るように溢れていくのが、残酷なほどはっきりと感じられた。
「否定はしないんだな。いつも、いつもお前はそうだ」
「ちが、それは……」
心臓が早鐘のようにハーデスの胸の深くで身体中を震わせた。地面を殴りつけているような音の大きさの鼓動に合わせて、じっとりとした汗がハーデスの身体中から染み出した。
何を言っても、ポセイドンの耳に届く気がしなかった。言葉などなんの力もなく、戦神ではないハーデスには彼の怒りに対して為すすべを持っていなかった。
足元が崩れ、奈落に落ちていくような恐怖に舌がもつれる。
「ポセイドン、違う、それは──」
「黙れ! もううんざりだ!」
ごう、と海が逆巻き地が嵐の前の小舟の如く揺れる。刃物の切っ先よりも鋭い怒りにハーデスの身は竦んだ。
「お前は、お前は俺を裏切ったんだ。もう信じられない」
ぬっと伸びた彼の手がハーデスと冥府を繋ぐ鎖を掴み上げた。
そこから先を、ハーデスは殆ど覚えていない。
「やめ、どうして、おかしいよお前、なあ!」
ハーデスが気恥ずかしさにかまけて悪態を吐くなどいつものことで、それこそ父神クロノスの腹の中で、幼い弟のポセイドンを慰めていたころからの癖である。
──兄上は素直じゃないなあ。
と、暗い暗い腹の中、幼い顔で弟がはにかむので、長き幽閉の毒気さえ消え果て、弟への愛しさばかりが募った。
──ハーデス兄上は悪口言う相手ほど大好きなんだな。
クロノスの腹の中で、姉たちへの文句を彼に愚痴っていた時さえ、ポセイドンは何もかもをわかっているといった口調でハーデスを慰めた。
それほど優しい子であったことを、ハーデスは誰よりも知っている。
「ポセイドン……っ」
「黙れ」
彼は力任せにハーデスを崖の岩肌に叩きつけ、その上にのし掛かった。したたかに岩盤に頭を打ち付けて激痛と共に目眩がする。
「待って、ポセイドン、どうして──」
──お前は、お前だけは、俺の虚勢を知っていたじゃないか。父の腹の中でゼウスが生まれるまで共にいたお前だけは。
何かが可笑しい、どこか奇妙だとハーデスの頭のどこか冷静なところが必死に訴えていた。
しかし、それもまたポセイドンの負の感情の奔流に押し流されて、消え果てる。
ただ彼に掻き回されながらハーデスはポセイドンの巻き起こす嵐と渦潮に巻き込まれ、無様に翻弄される木の葉となった。嘗てしつこいほどにどろどろにハーデスを溶かした愛撫もなく、真摯な愛の囁きもなく、まして口付けさえもなくただ彼の感情の昂りを荒々しくぶつけられていた。
紙のように薄衣は引きちぎられ、金の装飾は飴細工のように捩じ切られた。手首は不死の神であってさえ骨が折れるかと思うほど締め付けられ、腰に立てられた爪はハーデスの白い皮膚を切り裂いた。岩肌に思い切り叩きつけられた背は無残に肉さえ見えているかもしれない。
しかし、彼の嫌悪と憎しみのみがハーデスに深く傷を付ける。それは血を流す痛みなど比べ物にならぬ痛みであった。
──どうして、なんで。やめてくれよ、お前どうしてそんなになっちゃったんだよ。
途切れ途切れの意識の中、体がばらばらになった方が幸せに思えるほどの責め苦が永遠とも思える間続いた。
「お前のせいだ、兄上」
最後にそんなことが遠く聞こえた気がした。
カッ、と頭に血が上った。激しい暴行の跡を残した体を無理に動かし、ポセイドンの体を力を振り絞って突き飛ばし、思い切り殴りつけた。
「もういい、もう十分だ!」
不死でなければとうに抱き殺されていた。幸か不幸かは兎も角にして。しかし、ハーデスは不死である。
ゼウスやポセイドンと比べれば、武功のある戦神ではないが、ハーデスとて三界の一つを治める神である。そして、ティターノマキアやギカントマキアを戦った神である。
引きちぎられた腰布と薄衣をなんとか身に纏い、不愉快そうなポセイドンを睨みつけた。左足は曲がらぬはずの方向へと曲がり、立ち上がれば激痛が駆け抜けた。ひどくへし折られている。
「ポセイドン、もう十分わかったから止めろ」
低い唸り声のような声が、弟を諌めた。我ながらひどく冷たい声だと、そんな声音で叱れば悲しむのではないか、と頭の様々なところから制止がかかる。しかし、そんな些細な気遣いに向ける意識などハーデスには無かった。
──そんなことを言うほど、俺はお前を追い詰めてしまったのだろうか? これほどされるまで?
ならば、望み通りにしてやらねばなるまい。
それが、かつて兄であり、そしてつい今までお前の情人であった、この冥府の王の最後の矜持だと、ハーデスは決意した。
「──お前の作ったその門をお前の手で閉めろ。されば二度とお前の手ではその門は開くまい。これで終わりだ」
冥府の底を這う地虫よりも低く、恐ろしい声でハーデスは弟に永訣を告げた。
「二度とお前の手で門は開かぬ。これより後、死者以外が冥界を訪うことも、ハーデスの名を持って許さぬ。たとえ神であれ、我が冥府への立ち入りを永劫に禁ずる。……これで満足か」
神の言葉はそのまま誓約となって冥府と現世の間に取り決められた。
その瞬間、ポセイドンの目が大きく見開かれ、背を向けようとしたハーデスに手を伸ばしたような気がしたのは、ハーデスの愚かな夢想だろうか。
ハーデスは砕けた足を引きずり、手に触れた骨を支えに青銅の門の奥へと戻る。ハーデスの背の向こうで門が閉じる。
かくして、冥府と地上は別たれた。
ハーデスは骨に縋り、這いずるようにタルタロスの奈落を越えた。吹き付ける暴風がハーデスを苛み、奈落のティターン神たちはその姿を酷く嘲った。歯を食いしばって冥府宮へ進む。来た時の何十倍もの時をかけて、タルタロスを超える。
その後ケルベロスの姿が見えた途端に倒れ伏し、冥府宮で待っていたケルベロスと補佐官を仰天させつつ宮殿の奥へ担ぎ込まれた。
それから三日三晩寝室に閉じ籠り、そうして宮殿に再び現れてからは、何かを忘れるように仕事と統治に没頭していった。
不死のはずのハーデスの左脚は未だ杖なしには上手く動かない。それだけが、彼の頑ななに凍て付いた心の表れであるようだった。
いつしか五百年が過ぎる。
たとえ不死の神であってさえも、五百年は長い。時は緩やかにハーデスの心を癒した。
青銅の門は時折美しく高らかな音を響かせ、時に割れ鐘のようなひどい音でタルタロスを悩ませたが、ハーデスはそこへ足を向けることは決してなかった。

──綺麗だなあ。
どこまでも広がるオケアノスの青海の中で、空を舞うように彼は舞う。翻ってみれば、骨に縋りながらぽつんと地を這う己のなんと矮小なことか。
彼は太陽の届く全ての地上と海を統べる王であり、ハーデスはその地下深く、地と天が離れている距離と同じ距離ほどの深さを有する冥府の王であった。
その地底の王と海の王の心が、束の間のひと時だけ通じ合ったと言って、誰が信じるだろう。
「ポセイドン……」
声を小さな水泡みなわに閉じ込め、言葉は海面へ登って行く。
隠れ兜を深く被り直してハーデスは遠く離れたポセイドンにそっと手を伸ばした。
白い指先を伸ばし、彼の頬を、髪を、そっと撫でるような仕草で揺らす。父神の腹の暗闇の中、幾度その頬を慰めただろう。その黒髪の美しさを褒めてやっただろう。情を交わしていた頃、幾度その煌めく瞳に魅入っただろう。お前の統べる海と同じ色だと幾度思っただろう。
海底に足をつけるハーデスの腕は海面近くで遊ぶポセイドンには届かない。
ハーデスは真上で泳ぐポセイドンを見上げてはっきりと口を開いた。
「愛してるよ。今でもずっと、冥府の底から愛してる。何されたって、お前の心が俺から離れても、お前が愛おしくて可愛くてならない。……お前のその黒雲母を紡いで束ねたような髪の先から、そのサファイアよりもまばゆい瞳も、柘榴石のような唇も、大理石よりも整った肌も肢体も、お前のその水のように自由なこころも。五百年考えても、やっぱり、嫌いにゃなれなかったよ」
ごぼ、ごぼとハーデスの口からはたくさんの泡だけが溢れて水面へと登っていく。
「たとえお前がもう、僕に興味がなくなったとしても。僕を憎んでいたとしても、それでも僕は、お前を──」
ハーデスは最後にほんの小さな水泡を漏らして、彼を見上げたまま目を閉じた。瞼に押し出されてほろりと涙が海に解ける。
ほろほろと涙を海に溶かしたまま、ハーデスは再びポセイドンを見上げた。降り注ぐ光の中を泳ぐ、彼らはハーデスの上に影を作った。
ポセイドンはハーデスの真上に立ち、イルカとかくれんぼでもしているのか、何かを探すようにきょろきょろと左右を見回している。
どこか真剣な表情は、いつか二柱の神が慈しみあう仲であった頃にはよく見たものだった。ハーデスは生々しい感情に胸が裂かれる。
──帰ろう、冥府へ。
ハーデスは踵を返し、暗い海の底へと降る。白砂の海底に二本目の線が引かれる。
はるか底へ降り、青銅の門を通り抜け、タルタロスを越えて冥府宮へと戻る。
目の奥には、青い世界の中で真剣な表情をしていたポセイドンが焼き付いている。
──もう三百年はこれで頑張れるかな。オリュンポスへはまたその時に行こう。
冥府の王は口元をそっと綻ばせて寝台に横になる。

明け方に大地が凄まじく揺れ、天地がひっくり返るほどの地震が起こるまで、ハーデスは憑き物が落ちたように安らかに眠っていた。