「……ポセイドン、仕事中なんだけど」
「ああ、終わるまで待ってる!」
案内したアイアコネに差し出された椅子に素直に腰掛け、ポセイドンはにこにこと破顔しながら死者を振り分ける書類を捌いていくハーデスを見つめていた。アイアコネがハーデスに付け加える。
「あ、あとケルベロスに逢いにアポローン兄様が来てますよ。門の前だから挨拶は省略するのを許して欲しいですって」
アイアコネとミノス、アポローンとアレースは父を同じとする腹違いの兄弟である。初めは純粋な神であるアポローンたちと半神では格が違うと遠慮がちであったが、アポローンが自分も兄と呼ぶように頼み込んでいたのはついこの間の話だ。
「アポローン、随分とケルベロスを気に入ったもんだね」
ハーデスは苦笑した。あの大騒動が終わってから、禁足の誓いは無事解約され、以来オリュンポスの神もよく訪うようになった。その筆頭は件の礼としてケルベロスと触れ合って虜になったらしいアポローンと、冥府の河の渡し守に顔パスを取り付けたアレース。
そして、悠々と造り直された青銅の門を潜り、タルタロスを越えて冥府宮に通い詰めるポセイドンである。
「ポセイドン様、今暫くで終わりますから、少しお待ちくださいね」
執務室に入ってきたミノスは処理された羊皮紙を別室に運びながらポセイドンに笑いかけた。
「大人しく千年待ってろ。待てだ、待て」
ハーデスがペン先をポセイドンに突き付けると、ポセイドンはへらりと笑う。
「千年程度待つさ! 俺たちにはまばたきするほどのことだからなあ!」
「……この西方被れめ」
「んー? ローマはいいところだったぞぉ? それにこれは最近流行りの英語だ!」
「まあ、神様方には千年なんて直ぐでしょうねえ。でもそんなにかかりませんよ。日が沈むより早く、今日のお仕事はおしまいです」
アイアコネはふと首を傾げた。
「でも、不思議ね。少し前タルタロスの門が閉ざされていた五百年は、あんなに長く感じられたのに」
「……本当だ」
ポセイドンがアイアコネの言葉に同意する。ハーデスはぐ、と押し黙って身をかがめ、何も知らぬふりでペン先を滑らせる。
しかし、丁度再び入って来たミノスはにこりと微笑んで頷いた。
「ああ、愛しい人と離れている時間や、辛く苦しい時というのは、本当より早く感じるんですよね、僕もわかります」
「ああ! 成る程!」
「黙ってろミノス!」
「もしかして、兄上もそう思ってくれたのか?」
きらきらとした鮮やかな青い目が期待を込めてハーデスを射抜く。ついでに補佐官の二人の好奇心の視線までハーデスに注がれ、ハーデスは深いため息をついて肩を竦めた。
「…………長かったよ。足引きずりながら、あのとんでもなく歩きにくいタルタロスを越えて、いの一番にお前に逢いに行こうとするくらいには」
それでこの弟が、ハーデスの好きな、大海原のような大らかな笑顔を見せてくれるのなら、たまには素直になるものである。
終