愛の神エロースの持つ魔法の矢には二つの種類がある。
コインには、その反対側に必ず裏があるように。愛の裏には必ず憎しみがなければならなかったからだ。
一つは愛を齎す金の矢。
もう一つは、愛を厭う鉛の矢。
この二つこそがエロースの愛の二本の矢と言われていた。
ある時天空から地上を見ていたエロースは、海を泳ぐポセイドンを見つけ、首をかしげた。岩礁にもたれ掛かり、ぼうっと空を見ている。そこへ鳥の姿の美しいセイレーンがやってきて、二人は何やら話をしている様子であった。
エロースは一人呟いた。
「おや、あれはポセイドン様。そういえば、ポセイドン様には最近、それらしい噂を聞かないな。メドゥーサの事がまだ忘れられないのかな」
ポセイドンの美しい恋人であったとされるメドゥーサが、アテナ女神の呪いに触れて恐ろしい面貌となり、無残に殺されて盾にはめ込まれたのは神々の中でもとりわけ哀れを誘う。もう何百年も前になるが、それで浮いた話がないのかもしれぬ。
ポセイドンに同情したエロースは、彼の心を慰めようと思い立った。
黄金の矢なら新しい恋を、鉛の矢なら過去の辛い恋を忘れられることだろう。
エロースはひょいと弓に矢を番え、きりりと引き絞る。
「それ!」
天空からエロースの放った矢は、過たずポセイドンの胸を貫き、ポセイドンは胸を押さえて首をかしげた。
(後略)
『ギリシア神話〜冥府と海が別れた訳〜』
ムーサ書房
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