「ははっ、止めろったら」
イルカに応じて遊んでいると、ふと水泡が耳元でぱちんと爆ぜた。
──ポセイドン。
耳元を擽る、切ない声音にポセイドンは心臓が止まりそうになった。
聞き違える筈もない、愛しいハーデスの声が聞こえた気がして、ポセイドンはイルカたちを撫でる手を止めて硬直した。どうしたのかと訝るイルカに、手だけを動かし、視線を左右に滑らせる。
──ハーデス兄上……?
しかし、ただ茫漠と広がるオケアノスの青い海の中には、自分とイルカたち以外生き物の気配はしなかった。朽ちた珊瑚が降り積もった純白の砂浜が茫洋と広がる海底には、ヒトデの這った後のような一筋の線がかすかに残っているばかりである。
「あにうえ……」
声にもならぬほど微かに喉を震わせて彼を呼ぶ。喉の奥が引き攣れてその名を呼ぶ権利が自分にないことを突きつけられているような気がした。
恋しさのあまり、幻聴でも聞こえていたのだろうか。ポセイドンはかぶりを振ってイルカたちと目を合わせる。いずれ海の神たちの騎馬代わりになるイルカたちの訓練はポセイドンにとっては息抜きのような役目の筈だった。
ぼんやりしているポセイドンを気遣ったか、海の中で蛇のようにうねる長い髪をまだ幼いイルカが引く。
「よせったら」
イルカが甘く引く力に、懐かしい思い出が蘇ってポセイドンの胸が詰まった。
──こーら、ポセイドン。どこいくの、あまり離れたら姉上の火が見えなくなるよ。
暗い父神の腹の中、遠くへ行こうとしたら優しく髪を引く手が心地よくて、髪を伸ばし始めたのだった。それももうポセイドンの背を越えた。この五百年間一度も切らずに伸ばし続けた髪に、ゼウスが苦笑しながら遠くイスラエルの青年の例を出してきたが、あながち間違いとは言えなかった。ゼウスには言わずにいるが、五百年前から、自分と、そして冥府の神に願いをかけて髪を伸ばしている。
──いつか冥府の神が己の愚かに過ぎる蛮行を許してくれるように。あるいはこの不死の呪いから解き放たれ、冥府を流れるステュスク河とその支流を越え、彼の御許へ行き、赦しを請える日が来るように。
ポセイドンは来る日も来る日もそう願っている。
とうに涙さえ枯れ果てた頬に、微かな感触が触れた気がした。それは彼の白魚のようでいて男神らしい節くれた指先を思い出させるようなもので、ポセイドンは込み上げるものを堪えるためにぐっと俯いた。
暗い父神の腹のなかで、寂しさと虚しさに泣いた時、涙の筋の残る頬をその指で幾度拭ってもらっただろう。まだ短い髪を引かれて、こしのある指通りの良さを言葉少なに褒められたこともあった。自分を褒める彼こそが、夕焼けに染め上げられた海原に似た美しい紫色の瞳をしていた。その淡い瞳に幾度魅入っただろう。真珠のような白い肌と、なめらかで温かな肌に触れる度どれほど心が、狂おしい愛しさに高鳴ったことか。
しかし、もう二度とその優しさがポセイドンに向けられることはない。
向けられてはならなかった。
もしそんなものが向けられてしまえば、ポセイドンはたとえ不死としても死んだって死にきれぬ思いをするだろう。
彼だけが、自分を憎み、殺し、首を切り落として野晒しにする権利がある。
彼を幾度も殺し、彼の心を深く傷つけて切り刻んで弄んだポセイドンは、そうしてもらわなければ償いきれぬ罪を負っていた。
イルカたちから離れ、こぽりこぽりと海面へ向かう紫に光ってみえる水泡に手を伸ばした。そうせねばならぬような気がしていた。
何故か、神として生きた長い長い生の中で最も陰惨で、惨たらしい日が思い出された。
「聞きましたよ? また、ハーデス様に無理を言ってオリュンポスに連れ出したんでしょう?」
太陽の光を編んだような金髪をさらりとかきあげて、鳥の姿のセイレーンがポセイドンを揶揄った。
「なんだ、耳が早いな」
「ネーレーイスたちは噂好きなの」
「はは、それで兄上はまた何か言ってたか?」
「それは、ねえ?」
「がめついな!」
セイレーンはつり目がちな目を悪戯っぽくはにかませ、ポセイドンはそれに対してあっけらかんと笑った。彼女から情報を得るためには、何かしら供物を捧げねばならない。
けれど、それほどまでして知らずともポセイドンはよくわかっていた。どうせここぞとばかりにポセイドンの悪口を言っていたのだろう。
けれどそれは決して陰口などではなく、彼が気恥ずかしくて困り果ててしまっての事だとポセイドンは誰よりもよく知っていた。
ただの兄弟であったころにはほとんど知らなかった彼の照れ屋なところや、拗ねたような悪態さえもポセイドンには愛しくてたまらない。
「兄上のところには、ほら、あまり花がないだろう? だから、花が咲いたらみてほしかったんだ。まあ、無理やり裂け目から釣り上げたのは悪かったかな」
「ふふ、冥府の補佐官たちも大わらわだったそうで」
それは悪いことをしたか、と反省しつつそれでも見せてやりたかったのだと口を尖らせる。
「でも今日だってこれから兄上と会うんだぞ」
「あらあら、仲睦まじいことで。そういえばこの間──」
彼女の話の途中、突然とん、と何かに胸を軽く押されたような気持ちになった。ぞわっと総毛立ち、思わず胸元を抑える。
──今のは一体なんだったんだろうか。
いきなり冷水を浴びせかけられたような心地になって凍りついたポセイドンに、セイレーンが訝しげに覗き込む。
「ポセイドンさま?」
「ん? あ、いや、すまない。なんの話だった?」
「もう! それでハーデス様がアポローン様にまた──」
彼女は話すうちにいつもと様子が違うことに気がついたのだろう。しばらくするとよく滑る言葉を詰まらせた。
「──そうか……」
「ポ、ポセイドン様……?」
それはまるで、瓶の中に流し込まれたインクのようにポセイドンを黒い憎悪に染め上げた。心臓が鉛を詰め込まれたように重く冷たい。
ハーデスの悪態とていつものことであり、なんのこともない恋人の可愛らしい文句に過ぎなかった。それなのに、その時ポセイドンに生まれた感情には愛しさが刮ぎ落とされ、ただ怒りと憎悪が嵐のように渦巻いた。
自分の好意を無碍にされたと、王たる己の尊厳を傷つけられたのだと、何故そんな些細な取るに足らぬことで彼への憎悪があれほど燃え上がったのだろう。
三叉鉾トリアイナを片手に、セイレーンの制止も跳ね除けて冥府へ怒りと憎悪で狂っていた。
彼を叱責して痛めつけ、傷付けて罵らねばならぬと何故あれほどまでに──。
──否。
今やポセイドンは知っている。
何もかもが取り返しがつかなくなった後で、全てが明らかになった真実を、閉ざされた冥府には伝わらぬ事実を知っている。
ポセイドンの胸を射抜いたエロースの、恋を厭う鉛の矢が、彼への愛の深さをそのまま同じ深さの憎しみへ転じさせたのだった。
「許さない、ハーデス」
そうして、己が何をしたのか、ポセイドンは刹那も忘れることはできない。
幾度忘れてしまいたいと希っても、海溝に嘔吐し、夢の中で悶え苦しんだとしても、当のポセイドン自身がその罪を忘れることを己に許しはしなかった。
拵えた青銅の門の向こうで困惑した声。
在ろう事か彼にトリアイナを彼に突きつけた時の不安げな驚愕、棘のついた言葉を連ねるたびに泣き出しそうに変わる傷ついた顔色、彼と冥府を繋ぐ鎖で首を絞めるほど引き寄せ、そうして彼の言葉も聞かず岩肌に叩きつけ、働いた残虐な行い。
ポセイドンは全て覚えている。
その時の、感情の狂った奔流も覚えている。
──記憶の中のポセイドンは確かに暗く歓喜していた。
それこそが、なによりも逃れられぬ彼の罪だった。
薄布を引きちぎり、金輪をねじ切り、露わになる肢体と、驚愕し怯える彼にふつふつと欲を感じた。
逃げようとする彼の足をへし折って、嗜虐心と独占欲が満たされた。狂った己を見る、彼の怯えた表情と震える身体に確かな支配欲を感じていた。
彼をひたすらに傷付けるためだけに紡いだ言葉で、ポセイドンが普段彼を慮って告げぬことを告げ、柔らかな彼の心を押し潰した。彼が何を言われたら一番傷付くのか知っているポセイドンだからこそ、彼を慈しんでいたはずなのに。
幾度も幾度も、しとどに血に濡れた彼の中を蹂躙し、彼を殺し、蘇ってはまた嬲り殺した。
嚥下も儘ならず虚ろに開いた口と、焦点の定まらず開いた藤色の瞳孔、断末魔の痙攣、冷たい肌、強張ったままの体。それを見て満足げに息をつく醜く愚かな己。
なんて醜く、恐ろしい神か。
この五百年間、思い出すたびに胃の腑をひっくり返しては、気が狂うほど後悔した。
──鉛の矢に射られたゆえの悲劇だったと皆は言う。お前は本当は優しい神だと皆は言う。
だが、本当にそれだけがあの恐ろしい行為の全てだったのか?
ポセイドンにはわからない。ただ、己の行為とその時に確かに感じていたほの暗い嗜虐の悦びが恐ろしかった。
ポセイドンが正気に戻ったのは、三界が一角を統べる冥府の神ハーデスの渾身の一撃によってであった。ゼウスやポセイドンほど戦神ではないとはいえ、ハーデスとてティターノマキアやギガントマキアを戦い抜いた神である。その一撃は、幸か不幸か本来ならば砕けるはずのない、エロースの矢を砕き、ポセイドンから取り払った。
「もういい、もう十分だ!」
叫び疲れて嗄れた声で、ハーデスはポセイドンを睨みつけた。
自分はぐらりと揺れる視界が不愉快で、声を荒げた彼を縋るように見た。そこに映る、みたことがないほど憔悴し、絶望した惨憺たる有様の、この世で最も愛おしく敬愛する兄であり、懸想人の姿に、己の行いを突きつけられた。
困惑し、欲に火照っていた体が、真っ逆さまに叩き落とされて凍て付いた。
──オレは、何を。どうして。
何が起こったのか、何もわからず、ただひたすらに何もかもが恐ろしかった。ただ、己が何をしたのか、それを鑑みることが震えがくるほど恐ろしかった。
どれほどのことをしたのか、全て覚えていたが故に。
「あに──」
「ポセイドン、もう十分わかったから止めろ」
聞いたこともないような、低い唸り声のような冷たい声が、ポセイドンの自由を奪った。家族としての情も、情人としての情も、彼からは何もかもが抜け落ちていた。
砕けた足を引きずり、青銅の門の向こうでポセイドンを睨め付ける兄は、ポセイドンに最後通牒を突き付けた。
「──お前の作ったその門をお前の手で閉めろ。されば二度とお前の手ではその門は開くまい。これで終わりだ」
──ああ、ああ。どうしてこんなことに!
動けぬポセイドンを他所に、彼はその冥府の底を這う地虫よりも低く、恐ろしい声でもってポセイドンに永訣を告げた。
「二度とお前の手で門は開かぬ。これより後、死者以外が冥界を訪うことも、ハーデスの名を持って許さぬ。たとえ神であれ、生きとし生けるものの我が冥府への立ち入りを永劫に禁ずる。……これで満足か」
その時の彼の顔は、蒼白に疲れ切っていて、苦しげに愛を殺していた。ポセイドンの劣悪な裏切りは彼に無残な影を作り、絶望に縁取られたその痛ましさはポセイドンの心をずたずたに引き裂いた。
思わず取りすがろうと一歩を踏み出した瞬間、踵を返す間際の彼がびくりと怯え、ハーデスは傷の多い肩を揺らす。
それが何より、ポセイドンを打ちのめした。
その背に駆け寄りたくなる体を、幾度も拳で滅多打ちにしながら、ポセイドンは青銅の門を震えるその手で塞いだ。
かくして、冥府と地上は別たれた。
ポセイドンはただ、この愚かな自分自身から、彼を遠ざけたかっただけだった。そうでなければ、何故冥府と地上を永遠に分かちたいものか。
青銅の扉が閉じた瞬間、ポセイドンは衝動のままにその扉に縋りつき、ずるずると海底に這い蹲った。
「あにうえ、ハーデス、あにうえ、ごめんなさい、ごめんなさい……ああ」
獣のうなり声のような慟哭、熱い涙が溢れては止め処なく海に溶けた。
「ああ、あああ、うああああああ!!」
ぴたりと閉じられた青銅の門に海底に拳を打ち付けて、ポセイドンは漸く初めて声も限りに慟哭した。
海が荒れ、地は揺れたが、青銅の門が開くことは誓ってなかった。
天界から異変を聞きつけて駆けつけたゼウスとアポローン、アレースが挙ってぞっと顔を青ざめさせたほど、その時のポセイドンの様子はひどいものであったと聞く。
トリアイナを放り投げ、長い髪を振り乱し、身も世もなく悲痛に泣き喚いたあの姿を、全知全能のゼウスでさえ生まれて初めて見たと肩を竦めた。
元より五つの川は生者が通ることは罷りならず、タナトスとヘルメース以外の生けるものが生けるままに冥府を訪うことが出来た場所は、この海と冥府の境目にしかなかった。
「いや、そこタルタロスにも近かったし、ティターンの叔父上とかが出てこれなくなったのはありがたいよ? だからって大喧嘩するこたないでしょお、ポセイドン兄上」
「ああ、そうだな」
ポセイドンを海の宮へ送り届け、軽く水を向けたゼウスは、ポセイドンの返事に苦虫を噛み潰したような顔で眉を下げた。
その直後のオリュンポス十二神の会合ではむしろ青銅の門は好意的に受け取られたが、ポセイドンの心はさらに陰鬱になるばかりだった。鉛の矢を放ったエロースはその悪戯の代償として相応の罰を受けたが、冥府の王と海の王の訣別の理由であることは厳重に秘匿された。
両者の名誉のためでもあれば、エロースの命のためでもあった。
ポセイドンは間をおかずトリアイナを片手に青銅の門の前に行き、その度に己への憎悪と門への疎ましさがどうしようもなく身を焼いてはそれを門にぶつけた。
しかしいくらうち叩いても、二柱の神の誓いの通り、門は決してポセイドンに開かれることはなかった。
五百年、彼とかの日を思い出さぬ日は一日となかったが、神にとっても五百年は十分な時間だった。
ポセイドンがぼんやりとしているのを見兼ねて、イルカの引率に駆り出され、愛らしいイルカたちに久しぶりに頬を緩めていた。
しかし、やはり思い出されるのは彼のことで、彼の色に似た紫の水泡に、ポセイドンはなんの気も無く、手を伸ばした。水面に触れて弾ける直前に手の中で囲い、その瞬間に頭を殴られたような驚きに身を竦ませた。
──愛してるよ、いまでもずっと。
漏れ出した一つの泡が、ポセイドンの耳元にそっと囁き掛けた。
その声は、確かに兄である愛しい人の柔らかな声であった。もはや遠く霞み、思い出すことさえ難しくなっていたかの人の甘やかな声は、こうして聞くとはっきりと思い出される。
「兄上?」
手の中の泡を逃げぬよう周りの水ごと腕の中に閉じ込めて、ポセイドンはその泡が逃げ出してしまわないようにと、馬鹿なことを思いながら声を潜めて囁き掛けた。イルカたちに遊びに行くようにといい付け、ポセイドンは一人茫漠の海中で、泡に触れた。泡は弾ける度に兄の声でポセイドンに囁き掛けた。
──お前が愛おしくて、可愛くてならない。
「兄上にそんなこと言われたことないぜ……。オレの欲ばかり写して、罪深いBubbleだな……」
泣き笑いで、次の泡に触れる。
── お前のその黒雲母を紡いで束ねたような髪の先から、そのサファイアよりもまばゆい瞳も、柘榴石のような唇も、大理石よりも整った肌も肢体も、お前のその水のように自由なこころも。
「はは、兄上が言わないようなことばかり……。兄上、兄上はオレのことを憎んで……」
いつか共に見た冥府の一角、ほんの少し地上の光が差し込む洞窟で、色とりどりにきらめく宝石を見ながら交わした言葉を思い出す。サファイアの結晶を指差して、かれは自分の瞳を褒めてくれた。お前の目の色をしてるな、と、滅多に褒めぬ兄がその時ばかりは。
──五百年考えても、やっぱり、嫌いにゃなれなかったよ。
「兄上……、本当に貴方がそう思ってくれていたら、オレはどんな手を使っても冥府へいくのに……」
胸が詰まって、言葉も無かった。
愛しい兄の声で、甘やかに囁かれる睦言にポセイドンは目を閉じて聞き入った。例えそれが奇妙な偶然だったとしても、ポセイドンの敵の甘言だったとしても、ネーイーレスの悪戯だったとしても構わぬような気持ちでいた。
── たとえお前がもう、僕に興味がなくなったとしても。僕を憎んでいたとしても。
「そんなことない。ずっとずっと、オレは兄上を……」
──それでも僕は、お前を。永久に愛おしく思い続けるだろう。
面と向かっていた時でさえ、聞いたことのないような、切なく胸を締め付け、山を緩やかに下る溶岩に似た、愛のこもった声音に、ポセイドンの喉仏は泣き出す寸前によくあるようにひくりと動いた。あの日以来、涙も枯れ果てて久しいが、それでも、溢れそうなほどに心が嵐になる。咽ぶばかりの愛に似た溶岩はポセイドンの耳から体の中底へ体を熱く焼き滅ぼしながら下り、腹の底へ蟠ってポセイドンをたまらぬ気持ちにさせた。
「あにうえ、兄上……。会いたいよ、兄上……」
頑是無い子供のように、父神の腹の中で彼に甘えていた幼い日のような声を喉の奥から絞り出した。
全ての水泡がポセイドンの胸の内で弾け、その残滓をこぼすまいと、何もない腕の中を抱きすくめる。海の中で胎児のように丸まり、泣き出しそうなほどの激情に耐える。
その時、海底に微かに引かれた、一本増えた二本の線に気づいたのは、運命を司るモイライの三女神によって紡がれた運命であったのだろうか。
そうして、その違和感にある神器の存在をポセイドンが思い出したのは、もはや必然というべきことだった。
地上と海の王ポセイドンの三叉鉾トリアイナ、天界の王ゼウスの雷霆ケラウノスに並ぶ、冥府の王ハーデスの秘宝。
この世の何者からもその姿を隠す魔法の兜。
──隠れ兜アイドス・キュネー
それを被ったハーデスは、例え全知全能のゼウスであっても看破することはできない。
ゼウスの雷が貫くよりも激しく眩しく、ポセイドンの脳裏に自分たち兄弟に与えられた神器の存在が閃いた。
「……ここにいた?」
水泡に閉じ込められていた言葉は、ポセイドンの狂うほどの恋しさゆえの幻聴ではなく、本当に彼が呟いたものであったのか?
「ハーデス兄上が、本当に此処に?」
咽ぶように呟く。
突然息苦しさがポセイドンを襲い、心臓は生まれたての子供のように息を吹き返して鳴り響いた。自分の頭はついに狂ったのだろうか?
いや、そんなことはどうでもいい。もし、彼が自分を憎からず思ってくれているのなら。
──いかなければ、赦しを請わなければ!
五百年ぶりに浮き足立ち、ポセイドンはイルカたちを纏めて海の宮へ泳ぎ帰った。
そうして自室の中へと飛び込み、手入れを怠っていた黄金のトリアイナを手に取った。
→
ハーデスの冥府宮が、轟くような轟音と地揺れに驚かされたのは、翌日の明け方のことだった。
これほどに地が揺れたのは、いつかポセイドンが冥府まで穴があきそうなほどに暴れて以来である。
「いったい何?」
紫の衣の上に黒いゆったりとした厚織の上着を雑に羽織り、骨杖を取って慌てて寝室を飛び出して来たハーデスに、ミノスとアイアコネが困惑顔でハーデスを迎えた。
「ハーデス様!」
「何があったの?」
「それが……」
ミノスたちの報告に、ハーデスは目を瞬かせた。ともあれ、そういうことであれば自分が出張る他になかろう、とハーデスは顔を険しくさせてケルベロスを呼んだ。
「にゃあ」
「ありがとう。オルトロスに番を頼むから、お前、おれをいつもの裂け目まで連れて行ってくれる?」
ケルベロスは三つの獅子の首をそれぞれ振り、ハーデスの為に身を屈めた。滑らかな黒い毛並みに跨り、ハーデスは一路目的地へ向かった。冥界の揺れは止まず、岩場が崩れそうなほどの音も止まらない。
冥府宮から程近く、川の近くにある小さな洞窟に迷いなく潜り込み、巨大な宝石の結晶のきらめく洞窟の奥の空間で顔を上げた。
「お前ねえ」
ハーデスはミノスたちから聞かされていた、冥界の異変の犯人に問いかけた。
「何をしてるんだい、ゼウス」
洞窟の天井高くに細い切れ目がある。その向こうには、その切れ目に手を掛けてこじ開けようとしている天空の王が居た。
オリュンポスの支配神であり、弱者の守護者であり、三界を統べる王のうちの長たる神はハーデスを認めてぱっとルビーのように鮮やかに赤い目を輝かせた。
糸のようだった冥界と地上との裂け目は広がり、彼の顔が見えるほどには広げられていた。
「やっほーハーデス兄上!」
「ああ久しぶりだね、ゼウス」
「ははは、たった五百年でしょぉ」
切れ目の向かい側に、ルビーの色をした大きな目が見えた。細い隙間の向こうで、金色の月桂冠をきらめかせ、黄金の光輝なる鎧を纏っていることがうかがえる。
「何でここ知ってるの」
この洞窟は、冥府でも数少ない地上との境目のある洞窟であり、冥府の中でもハーデスの一等好む場所であった。ほとんどの境目は閉じられたが、この洞窟だけはまだ残っている。
それを知っているのは、ハーデスと補佐官の二人と、唯一ここに連れてきた神である、ポセイドンのみのはずであった。
「俺全知全能の神様で長男だから! 三界のうちで知らねえことはそんなないもんね!」
得意げに鼻の下をこすってみせる末弟の姿に、ハーデスは苦笑した。父神の腹から出て来たときに兄となり、クロノスとレアの長兄であり、名実ともにオリュンポスの主神を名乗ってはいるが、やはりどこか弟らしく甘えてくる幼さをハーデスは好ましく思っていた。
しかし、にこにこと笑うゼウスを然りと眺めて、ハーデスは彼を促した。
「それで? 禁を破ってお前は何しに来たの? 困ったことでもあったんでしょう? お前がおれたちを兄上っていうときは、いっつもそうだよ」
さらに裂け目を広げんとするゼウスの手がぴたりと止まる。そこに現れたのは迷子になって家族を探す子供の顔だった。
「破ってねえよ。ここから叫ぼうとしただけ」
「屁理屈を……。で、どうしたの。言ってごらん。またヘラ姉上を怒らせた? それともレア母さん? デメテル姉上だったりする? おれ、デメテル姉さんには借りが……、まさか今更人間の子にちょっかいかけたの? アプロディーテ? アポロン?」
好色な彼の起こした様々な厄介ごとを思い出しながら伝えると、ハデスは泣き出しそうな顔でハーデスを見下ろした。
「……兄上……。お願い、地上に来て」
ゼウスはたっぷりと間を開けて、彼にしては珍しく小さな声で懇願した。小さな声は洞窟に反響して大きく響く。
「ん?」
ゼウスは小さく、しかしはっきりと告げた。
「ポセイドン兄上が、死のうとしてんの、止めてほしい」
ハーデスは耳を疑った。
「なんだって?」
「昨日の夜からポセイドン兄上の様子が変だって、ネーイーレスから聞いたから、アポローンを見に行かせたんだ。そしたらトリアイナで胸を突いて死のうとしてたの。でも、ほら、俺たち不死じゃん」
「まあ、そうだね。冥府にはいるけど、おれも死んだことはねえな。……ポセイドンなんて殺されても死なないような神だろうにどうして」
昨日だって、あれほど楽しそうにイルカと戯れていたではないか。その翌日に自殺を図ろうとするなど考えられない。そもそも、ポセイドンは自ら死を選ぶような性格ではないことをハーデスは知っていた。
ゼウスも分かっているのだろう、少し言いよどんで、それから呟いた。
「ハーデス兄上、昨日青銅の門を開けてオケアノスの海に行っただろ」
「は、なんで……」
「セイレーンの姉妹が、お前が出て来てたかもしれないって俺のところまで歌で伝えてくれたんだよね。……ねえ、兄上。ポセイドンとはあってないんだよね?」
内心でぎくりとしながら、隠れ兜をかぶっていたことを思い出す。隠れ兜さえかぶっていれば、たとえそれが神であっても姿を見られることはない。
自分が彼を見ていたことは、ポセイドンはおろかゼウスさえも知る由はない。
「……会ってねえよ。顔も合わせたくないから、見かけた瞬間に帰った」
吐き捨てて肩をすくめる。ゼウスはふ、と短く息をついて、今度は落ち着いた様子でハーデスに懇願した。
「ついて来てくれない? このままじゃ、あいつの気が狂っちゃう。三界の王の一角がそんなことじゃ、あいつの王位は別のやつに継がせないといけなくなるし、面倒だし。あいつが言うこと聞くの、昔っから、兄上だけだったじゃん」
ハーデスは無理矢理に天井の裂け目から伸ばされた手を眺めて逡巡した。
ほとんど心は決まっていたが、ふと気になったことをゼウスに問う。
「あいつ、なんで死にたいの?」
ゼウスは、すこし戸惑った様子だった。
しばしの沈黙の後、彼は裂け目からふりそそぐ光の陰で表情を隠してぽつりと呟いた。
「だって、死者でなければ河は渡れない」
ハーデスはぐ、と息を詰まらせた。大きな困惑と、少しの喜びと、微かな憤ろしさがあい混ぜになって胸を塞ぐ。
──それ、どういう意味だよ。
「兄上……! お願い、ポセイドン兄上と会って話をして欲しい」
ゼウスの珍しい懇願に、ハーデスは思わず頷いていた。
再び、あの嫌悪を向けられるかもしれないという恐怖はハーデスの胸の内に冷たく巣食っていたが、このままゼウスに背を向けることもできなかった。
「……分かった、行くよ。用意をしてくるからちょっと待ってて」
ハーデスはケルベロスに乗って冥府宮へ戻ると、簡単に話を済ませて引き返した。余所行きの盛装に骨杖を引き下げ、そのまま洞窟へと向かった。
洞窟に戻り、ゼウスの伸ばした手を取って釣り上げられる。久しぶりの明るい日差しと、草はらを足に感じた。ケルベロスは太陽の光に怯えてしまうので、冥府の洞窟の前で待たせている。
「ハーデス伯父さん! 元気?」
「アレース! 久しぶりだな。お前まで駆り出されてたのか」
金細工も美しい黄金の鎧と、巨大な槍の片方を手に持つのは、ゼウスの子であり、ハーデスがにとっては甥にあたるアレースであった。彼は神代から変わらぬ溌剌とした表情でハーデスに笑いかける。戦神の中でも戦火の狂乱を司る神であり、冥府の王ハーデスと最も近しい友人であり甥であるアレースに、ハーデスも頬を緩めて応じた。
「久しぶりって言っても五百年ッスよ! でも伯父上すこし痩せた?」
「まあ普通に忙かったからね。お前は?」
彼と話していると、すこし気が軽くなるような気がした。昨日のことがあってから、憑き物が落ちたような気持ちでいたが、こうして面と向かって話してみると、昨日までの蟠りや苦悩が薄れていることがわかる。
だからこそ、ゼウスに請われてすぐに出てこれたのだろう。もしこれが昨日よりも前のことだったら、決してハーデスは冥府を出ることはなかったかもしれない。
「おれも! でもここ五十年くらいはまし!」
「さいでっか、何よりでんな」
「せやなー! 戦は忙しなるでなー」
五百年ぶりになるアレースと軽く挨拶を交わして、彼の戦車に乗り込む。
黄金の額帯をつけた神馬の曳く、黄金のチャリオットがハーデスとゼウスを乗せ、風よりも早く飛ぶ。
向かうのは、オケアノスの果ての海と空の交わる場所にある海の王の宮殿であった。
「──で、いったい何があってあいつは死のうとしてるの?」
チャリオットの上でもっと詳しく話せとハーデスが請うと、ゼウスは頷いた。ハーデスが外に出てきたことで、すこし彼にも余裕が出たようで、先ほどよりもましな顔色で話し始める。
「はっきりとしたことは俺だってわかんねぇよ。ただ、昨日、ポセイドンに久しぶりに休暇を取らせたんだ。っつっても言って休みやしないから、海の神たちが乗るイルカたちを見ていてもらうって名目で外に出したんだ」
──あいつそんなに仕事熱心だったか?
ハーデスは引っかかりながらもゼウスを促した。
「それで、初めはあいつも久しぶりに笑ったし、だいぶ楽しそうだったんだけど。途中からぼんやりしてきて、イルカを向こうで遊んでこいって追い払ったらしいんだ」
「へえ」
イルカと楽しげに遊んでいるように見えたが──と内心思いながら、ハーデスは相槌にとどめた。
「それで、急に胸を押さえて苦しげになったかと思ったらいきなり海の宮に泳ぎ帰って、それで、トリアイナで──」
ゼウスは苦しげに眉を寄せて、へらりと笑ってみせた。
「胸を一突き」
トリアイナを逆手に取って胸を刺す動作に、ハーデスは呆れ切って眉を寄せた。
「……あいつ、馬鹿なのか」
三界の神器であるトリアイナで胸を突けば、神でなければ死ぬどころでは済むまい。オリュンポスでも屈指の力を持つポセイドンだから冥府へ送られなかったのだろうが、もしこれが人であったり、半神であったりなどすればひとたまりもなく、冥府の川の渡し守カローンの船に乗る羽目になっただろう。
何故そんなことをポセイドンがしたのか、ハーデスにはとんと見当がつかない。
ハーデスを疎み、嫌悪し、拒絶したあの海神が今更何故冥府などへ渡ろうとしているのかも理解できなかった。
「一回目も、二回目も、海の宮の奴らは気がつかなかったみたい。……最近塞ぎ込みがちだったからねえ。仕方ないとはいえ」
「なんで気付いたの?」
「アプロディーテが海の宮に行く約束してたんだって。それで行ってみたら、いくら待っても出てこないし、日が暮れちゃって」
それで部屋を覗けば、部屋を染める赤い血と、血に染まった黄金のトリアイナ。噎せ返る程の血の匂い。アプロディーテと側にいたセイレーンは泡を食ってその場を離れた。
翼を持つセイレーンはアプロディーテに命じられてオリュンポスへ向かい、ゼウスに全てを伝えた。ゼウスは即座に息子であるアポローンにポセイドンの元へ向かうように命じ、アレースを連れて冥府と地上の境目を探しに探した。
「いつかそうするかもしれないとは思ったけどねぇ」
「おれはポセイドン伯父上には無理だと思ってた!」
「ええ、あいつそんなに死にたがりか? 」
二人の言葉にハーデスが首をかしげると、二人は苦く笑った。
「そりゃそうだよ。始めの頃なんて、このままふっつり死んじゃいそうだったし」
「アポローン兄さんがめっちゃ心配してた! アプロディーテも! もちろんぼくも!」
「へえ、あいつにそんな繊細な心があるなんてね」
「まあ、あれはあいつにもお前にも悲劇だったもんな」
ゼウスが珍しく、気遣わしそうに話を止める。アレースもそれ以上話を続けることはなかった。
なんのことかとハーデスが尋ねようとしたその時に、アーレスのチャリオットは派手な水飛沫を上げながら海へと入り、海底で動きを止めた。
急に止まったチャリオットに放り出されそうになりながら、ハーデスたちはチャリオットを降りる。片足の不自由なハーデスに、御者席にいたアレースが駆け寄って支える。
本当は、この宮殿に来るというだけで体が硬くなって仕方なかった。あの時のポセイドンの冷たい目や恐ろしい言葉を再び掛けられたらハーデスは冥府に在ってなお死んでしまうだろう。
アレースに手を借りてもなお引きずる左足を、アレースは痛ましげに見つめる。言葉は無くとも、彼の優しい気遣いにハーデスは心が落ち着くのを感じた。骨杖をつきながら、海底にそびえる水晶や貝、海の様々な美しいものでできた宮殿をハーデスは懐かしく見上げた。
「アポローン! アプロディーテ!」
「ゼウス養父さま!」
ゼウスが宮に声をかけると、頭上のテラスから顔を出したのはゼウスの養子であり、ゼウスたちの祖父の落胤でもある美の女神アプロディーテであった。金細工と桃色の真珠のサークレットと首を覆う金の首飾り、胸元と肩を隠すばかりの薄絹のヒマティオンに身を包み、ヴェールを羽織った愛らしい姿はハーデスがかつてみた頃とあまり変わらない。
「アプロディーテ、あいつの様子は?」
「今は、アポローン兄さまが止めてる。でも目を離したら大変だよ。っていうか、ポセイドン兄さまがあんな顔してるの、五百年前のあの日くらいしか見たことない。最近やっと、外に出るようになったのに」
アプロディーテはそこでようやく、ゼウスの横に立つハーデスとアレースに気がついたようだった。
「アレース兄さまに……、ハーデス兄さま!」
「久しぶり、アプロディーテ。相変わらずあざといね」
「美と愛と性の女神なのボクは! って……少し見ない間も相変わらずだね兄さま」
可愛い甥の言葉に、ハーデスは喉を引攣らせて笑った。それに不貞腐れた顔をするものの、すぐにアプロディーテは頬を緩めた。テラスからふわりと海底に舞い降りて、ハーデスに抱きつく。
「でも、良かった。冥府のハーデス兄さまのこと全然分からなかったし、ポセイドン兄さまはずっとああだったし、心配してたんだ。ボクにもちょっと、ちょぉっとだけ監督不行き届きの責任あったかなって」
最後の方を言い淀むアプロディーテに、ハーデスは首をかしげた。アプロディーテも首を傾げる。
ハーデスはよく分からぬままにアプロディーテに尋ねた。
「なんのこと? アプロディーテ、おれに何かしたっけ?」
その瞬間、ハーデスの言葉に絶句したのはアプロディーテだけではなかった。
アレースも、ゼウスでさえもハッとした様子で困惑顔のハーデスを見る。
知らず視線を集めたハーデスは、怒ったように三人を見返した。
「何? 隠してることがあるなら早く言ってよ。さっきからお前達何か変じゃない?」
ゼウスは呆然とハーデスの穴が開くほど見つめ、ぽつりと呟いた。
「……そうか、兄上、ずっと冥府にいたから……。タナトスはオリュンポスに寄らないからこのこと知らないし、最近はヘルメスが冥府に行くこともなかったし……」
「……だから、なんのこと?」
すこし苛立ちまじりに詰問すれば、三人は目を見合わせた。
「あんな、ハーデス兄上──」
ゼウスが口火を切ろうとした時だった。
「ポセイドン叔父上!!止めろっつってんだろ!」
アポローンの悲鳴が聞こえ、破壊音が宮殿から漂った。
「アポローン! ──ああもう、ちょっとバカを止めてくる!」
ゼウスが気ぜわしく海の宮へ足を踏み入れ、アレースもそれに続いた。去り際のアーレスの目配せに、アプロディーテがこくりと頷く。
その背を見送って、ハーデスは動きたがらない素直な足に苦笑した。
「俺が言ったって、なんにもならないと思うけどなあ」
ハーデスは今になって怖気付いたことを隠して呟く。ハーデスのそれに反論したのは、意外にもアプロディーテだった。
「そんなことない。ううん、ハーデス兄さまの他に、あの人を救えるものはいないんだ」
「アプロディーテ? どうしたの」
「兄さま、聞いて」
小さく愛らしい顔を強張らせ、アプロディーテはハーデスの手を強く握った。持ち上げたハーデスの手に額を押し当てて、小さく呻くように囁いた。
「……ごめんなさい。ハーデス兄さま。どうか許して」
「だから、なんのことなの?」
アプロディーテは苦しげに絞り出すように、ハーデスに囁いた。
「エロースの鉛の矢を知ってるでしょう」
しん、とハーデスの世界の全ての音が、その瞬間に消えた。
耳が痛くなるほどの静寂の中にアプロディーテの落とした呟きの余韻だけが響く。
ハーデスはいつもは眠たげに半分閉じられている目を、めいいっぱい広げた。
呼吸が急に苦しくなり、心臓は一瞬動きを止めた後、倍の速さで鐘を打つ。
「……鉛の矢」
「愛を拒絶し、愛するものを憎む鉛の矢だよ」
「──ポセイドンは射られていた?」
アプロディーテは、ただ項垂れるように頷いた。
「ボクが目を離したのが悪かったんだ、ごめんなさい。まさかあんなことになるなんて……」
「いや、お前の所為じゃないよ。でも……まさか、それなら……」
アプロディーテの目に滲む涙を拭ってやりながら、彼を慰める。こんなことになって、気に病んだことだろう。
愛を憎しみに、憎しみを愛に変えるエロースの矢のことは、ハーデスとてよく知っていた。愛するものをその愛するだけ憎むように。愛とは、その背に憎悪を背負い、憎悪はその背に愛を持たねばならぬから、と。
エロースの持つ矢の生み出した様々な伝説もよく知っている。その矢がどれほど心なく人の気持ちを曲げるのがも、またよく知っていた。オリュンポス創始の神である以上、ハーデスとてその恐ろしい矢に弄ばれたことはないでもない。
ポセイドンがハーデスを憎んだあまりにも理不尽で無慈悲な理由が明らかになり、ハーデスは漸く息ができるような心地になった。
ならば、今から向かう先のポセイドンに憎まれていたとしても、それは彼の本意ではない。今のポセイドンと、ハーデスの愛したポセイドンは心根を変えられてしまったのだから。
それだけで、ハーデスの気持ちはどれほど軽くなっただろう。
しかし、アプロディーテの続けた言葉はハーデスの想像をはるかに越えた悲劇を告げる。氷水を浴びせかけられたような寒気が全身を包んだ。
「でもね、さすがに三界の王だから、ポセイドン兄さまの矢は直ぐに外れたらしいんだ。でも、だからこそ……」
最早、言葉もなかった。
胸に湧き上がる凄まじい感情の激流に、どう名前をつけたら良いのかも最早分からぬ。
ただ、トリアイナで自死を図らんとしたポセイドンの痛ましさが、ハーデスの心を握りつぶした。
「そんな……、ポセイドン……」
ハーデスはアプロディーテを置いて風のように駆け出した。
「ハーデス兄さま、杖──!」
アプロディーテの声がハーデスの背中を追うが、それすら耳に入らなかった。
──ポセイドン、優しいお前はどれほど傷ついただろう!
矢がすぐに外れたということはすなわち、自分に強いた仕打ちを、彼自身の心でそのまま受け止めてしまったということだ。
今になって、ゼウスの言葉が真に迫って聞こえる。自分にもあの日は衝撃だった。しかし、彼にとってはきっと五百年続く悲劇だったのだ。
自分の意に染まぬ狼藉を働かせられておきながら、それが終わった瞬間にその狼藉を目の当たりにし、それから五百年、顔を合わせることすらできなかった。
そうして、彼は彼自身の罪悪感に押しつぶされてこんな凶行に及んだのだろう。
どれほど苦しんだだろう。ハーデスの、愛をこばまれ、狼藉を受けた痛みと苦しみとて並大抵のものではなかったが、ポセイドンを思うと目の奥が熱くなる。
目尻をぬぐいながら、勝手知ったる海の宮のポセイドンの寝室に近づくと、壁が砕かれて中からアポローンが飛び出してきた。
「アポローン!」
思わず受け止めると、アポローンはそう動じた様子もなくハーデスに破顔した。
「ハーデス伯父上!」
ただし、純白のヒマティオンはところどころが激戦を物語るかのように煤けて破れ、彼の頭上の羽根飾りのついた黄金のサークレットは羽が捥げている。太陽の光線を発する背の光輪をひと撫でして修復すると、ふたたび輝かしい光を放ち始める。
「久しぶり、大丈夫?」
「暫くぶり。大丈夫だよ。いきなり格好悪いところを見られちゃったな……」
アポローンはひょいと起き上がると首を鳴らした。肩に付けたエメラルドのあしらわれた黄金の肩当てを手直してはにかむ。
「お前は遠矢射るアポローンだろうに、よりにもよってポセイドンでは相手が悪いよ」
「俺は素手でも結構やれるけど。最近全然こういう機会なくて、むしろ結構楽しんでるし……っていったら不謹慎かな」
少し気恥ずかしげなアポローンにむしろ好ましい苦笑をして、ハーデスは首をふった。トロイアの戦いで拳一つで城壁を破壊したことはハーデスもよく知っているし、彼が本来の得物である弓矢を最近は使わずにいることも知っている。
理性の神ではあるが、それでもハーデスの息子であり、好戦的な一面を随分我慢していたのだろう。
「お前は弁えた子だから、たまには遊んでもらうといいよ。でもまあ……おれがすこし、あいつと話がしたい」
「もちろん。伯父上たちがあんなことになるなんて、俺も、 アルテミスも驚いてたんだ。アプロディーテも気にしてたし。だいたいあの悪戯ものは、昔も今もろくなことをしない。ケツ毛燃えろ!」
憤然と息巻くアポローンにハーデスは頷いた。確かにアポローンほどエロースに煮え湯を飲まされた神はなかなかおるまい。
「悲劇が、喜劇になるなら僕は喜んで手伝うよ。僕は喜劇が好きなんだ」
「ありがとう。……このことの始末はおれがつけるから、しばらくあいつの気を引いていて。それで、ぼくに合わせておくれ」
「仰せのままに、冥府の王にして我が伯父上」
アポローンは朗らかに頷き、砕けた壁に足をかけて飛び出した。
輝ける光の名に相応しく、純白のヒマティオンを翼のように翻して寝室の中に飛び込んでいく。ハーデスもそれに続いて壁の中を覗き込み、その中の様子に息を呑んだ。
海中に漂うあまりに多すぎる血はポセイドンのものであろう。それは水中に煙のように広がり、部屋を赤い霧のように烟らせていた。
ポセイドンとゼウスが対峙してお互いに神器を打ち合っている。二人とも自分の身長ほどは床を離れ、海中に浮かんでいた。ポセイドンの長い髪は海蛇のように海中をうねり、目はぎらぎらと正気を失っている。ゼウスは厄介そうにポセイドンを睨みつけている。
あまりに広い寝室の真ん中には巨大な貝を模した寝台があり、幾つも並ぶ窓にはオケアノスの珊瑚礁が見える。
海中にある故、立体的な構造になっている寝室は、中央に木のような真珠の柱が聳え、柱から枝のように突き出すひと枝ひと枝が小さな棚のようになっている。寝台があるのはその真珠の木の天辺であった。しかし、その真珠の木の枝もいくらか折れ、戦いの激しさを物語る。
ハーデスはポセイドンの露わな胸に、まだ癒えきっていない三つの巨大な刺し傷を見つけた。ハーデスはその傷に胸が握りつぶされるほど痛ましく思う。
ゼウスは両手に持った雷霆ケウラノスで応戦し、半狂乱に怒り狂ったポセイドンは長い髪をしならせ、黄金の三叉鉾トリアイナで打ちかかっている。
二つの神器が噛み合う毎にまばゆい火花が海中に散っている。
アレースもゼウスに負けじとポセイドンに掛かっていくが、幾度もトリアイナにランスを躱され続けている。
そこに機を伺い、壁を跳躍しながらちょろちょろと駆け回るアポローンの撹乱が入り、神々の合戦場と化した寝室はもはやギガントマキアの様相である。
縦横無尽に寝室を飛び回るアポローンの光輪の光矢はポセイドンを狙い撃ち、隙を見てアレースの二本のランスはポセイドンの脳天をめがけて叩き落とされる。ゼウスは両手に持った雷霆でアポローンとアレースの攻撃を避けたところに斬りかかる。
ゼウスとその息子たちの連携はさすがに血の繋がりを感じる見事なものであるが、狂乱しているポセイドンの火事場の馬鹿力とでもいうべき勢いはそれと対等に渡り合っている。
なるほど、海の宮に住む者たちがすっかりいなくなっているわけだとハーデスは納得した。並の神や精霊ではこの戦闘に巻き込まれかねない。
「ハーデス兄さま、杖要らないの? ってかこれ本当に骨? 重いんだけど!」
ハーデスの後から息急き切って駆けつけたアプロディーテが放り出した骨杖を差し出す。受け取って、ハーデスはくるりと手元で回す。
「……うん、もう大丈夫みたい」
いつのまにか左足は全く問題なく動いていた。不死の神に後遺症が残るというのはそういうことである。
ただ彼への想いの蟠りが彼の足を引きずっていたに過ぎない。
今、確信を得たハーデスにはその楔は必要なかった。
「アプロディーテ、心配させて悪かったよ。もう大丈夫。ちょっと、俺も頑張らないとねェ」
ハーデスはアプロディーテの頭を撫でて、きっと目つきを鋭くさせた。
骨杖の金の装飾をかちりと回せば、その中から鋼の剣が顔を出す。ミノス渾身の仕込み刀に、アプロディーテはほう、と感嘆した。地下を統べる冥府でしか見ることのできない、黒鋼の細身の剣は、かすかに紫がかった輝きでその鋭さを誇っていた。
アプロディーテとて戦女神の一面を持っている。故に、その黒鋼の剣の硬さは神器にも等しいことが見て取れていた。重さの理由も知れる。
「ふ、ヒヒッ──闇を解放してやる」
ハーデスは口元を綻ばせて、引きつった声を零した。細身の剣を手首で回せば、水を切る音が聞こえる。
踏みしめる海底のそのまた下の冥府からぞろりと冥府の闇を凝った力がハーデスを覆い、力を貸す。
寝室の戦況はちょうど硬直していた。
ゼウスも額に汗を滲ませ、ポセイドンの息も荒い。二柱の神はいつのまにか床を離れて、水中に浮き、真珠の木の梢のさらに上で睨み合っている。
ゼウスの背後に控えアポローンとアーレスがハーデスにちらりと目配せをした。
「いい加減にしろよォ、クソ兄貴ィ!!」
ゼウスが吠え、それに応じたポセイドンは言葉にもならぬ咆哮を上げた。
剣を携えたハーデスは砕けた壁を乗り越える。
雷霆ケウラノスは紫電を纏い、黄金のトリアイナは思い切り振りかぶられる。
その間に、ハーデスは一振りの剣でもって飛び込んだ。真珠の木の枝を駆け上がり、黒剣と自分の体を二つの神器の間に挟み込む。
「いい加減にしろよっ!」
二人が得物を引く間も無く、二つの神器は割り込んだハーデスに振り下ろされる。
打ち合わされる金属音は、衝撃を伴って水中をかき混ぜ、血と埃が地上の砂埃のように舞い上がった。
ゼウスとポセイドンは顔を引きつらせる。
お互いに遠慮も会釈もない一撃を交えんとしていたことがわかっている。それに巻き込まれれば、常人ならば塵一つ残さず消し飛ぶだろうことも。神であっても無事では済まないことも。
ゼウスがハーデスの名前を叫び、ポセイドンが狂乱から目覚めてぞっと顔の血の気を引く。
「ハーデス兄上!」
「────ッ!!」
衝撃から目を庇いながら、ゼウスが目を凝らす。水煙の向こうの影が頽れる。
ゼウスが咄嗟に手を伸ばすより先に、トリアイナを放り出したポセイドンがハーデスを抱きかかえた。トリアイナは真珠の木の根元へと沈み、根元に刺さる。
真珠の木の天辺の床に転がった黒剣はからんからんと軽い音を立てる。
真っ青な顔で力なく腕に抱かれているハーデスの姿に、ポセイドンの顔は恐怖に満ち、装束よりも蒼く強張った。歯の根が合わぬのか、がちがちと震えている。
「伯父上! 大変だ! 伯父上が!」
アポローンが取り乱す。
「ハーデス兄さまぁ!」
床に近い壁の向こうでアプロディーテが悲鳴をあげる。その切羽詰まった声に、ゼウスはだらんと腕を下ろす。
ポセイドンは、見たこともないほど色濃い恐怖と絶望を顔に貼り付けて、かたかたとハーデスを抱く手を震わせていた。
「嘘だろ……」
ゼウスが彼らしくもなく小さな声で呟いた。
「────嘘だよ」
それに応じたのは、闇色の力をぶわりと解放したハーデスの落ち着き払った声だった。二人が呆然としている間に長い袖から白い指を出し、鋭く鳴らす。
ハーデスの足元から解放された闇はぶわりと圧倒的な質量を伴ってポセイドンを絡み取った。目を見開いたまま、片膝を地に着けた姿勢で動けぬポセイドンの腕からすり抜け、彼の前にすいと立つ。
彼の長い髪を掬い取り、怯えの色を乗せた驚愕を貼り付けたままのポセイドンを安心させるように微笑みかける。
「やっと捕まえた。ポセイドン、ぼくがわかるね」
「ハーデス兄上……けが、怪我は……」
「してないよ」
ただそれだけを聞くと、断頭台で処刑を待つ罪人のように、彼はハーデスの前に項垂れた。白い頸に浮かぶ頸骨が五百年前よりもはっきり見えるようでハーデスは眉を寄せた。
「ねえ、おれ、お前に話があるんだけど」
声をかけてもだんまりを決め込んだポセイドンに小さくため息をつき、ハーデスは頭だけ振り向いて、アポローンたちを労う。
「アポローン、アプロディーテ、演技ご苦労。とはいえアポローン、棒読みにすぎるよ。お前、芸術の神だろうに」
「僕は劇は見る専門だし、仕方ないよね。ってか、どっちかっていうと出来ないことに憧れるっていうか……」
兄と倅の気の抜けた会話に、ゼウスは深いため息をつき、へらりといつもの笑みを浮かべた。
「いや? 俺もちゃんと気付いていたしぃ。俺の演技も褒めてよハーデスぅ」
「はいはい、ポセイドンの足止めご苦労さん。四人とも、後でうちの名産あげようか。柘榴とか」
「柘榴は要らないよぉ! あっでもそのかわり、ボク宝石とか欲しいなぁ、お兄さま!」
「僕はケルベロスをちょっと貸して欲しいかも……」
「へへー! ぼくはカローンさんのとこの永久顔パス権がイイっす! 遊びに行き放題!」
「あっそれ僕も欲しい」
「ボクも!」
ゼウスの息子と娘たちは銘々に告げ、にこやかに笑って颯爽と立ち去る。
一人残ったゼウスはハーデスたちと息子たちを交互に見遣った。
短く息を吐き、へらりと相好を崩す。
「……へへ、じゃ、俺もオリュンポス帰るわぁ! あ、ネーイーレスたちはしばらく近づかないように言っとくからね!」
「ああ、ありがとう。ゼウス。もう大丈夫だよ」
ゼウスはハーデスの労いに一層破顔して鼻の下を擦り、満足げに彼は踵を返した。先に行く三人の子供たちに飛びつき、邪険にされながらも、肩の荷が下りたかのように晴れ晴れとした顔をしていた。
ハーデスは四人の姿が見えなくなってようやく、ゆっくりとポセイドンに振り向く。
彼の黒く艶やかな髪は、前に見た頃より随分と伸びた。彼の髪を手で弄びながら、彼の名を呼ぶ。
「ポセイドン」
ことさらゆっくりと彼の名を口ずさんだ。
ゆっくりと彼の顔が上がり、真っ青な顔がハーデスを見上げる。
かたかたと止まぬ身体の震えが憐れで、怯えに濁るサファイアの瞳がそれでもハーデスから離れないことが愛しさを募らせた。しかし、彼の体は未だ強張り、ハーデスの拘束を引き剥がして逃げようと藻搔いている。
「ポセイドン。逃げずとも良い」
「オレ、オレは……違うんだ。誓いを破ろうとしたんじゃない……」
焦燥と混乱に譫言のような呟きを漏らすポセイドンに、ハーデスは床に片膝をついて彼を見つめた。
「分かってるよ。ねぇ、教えてよ。どうして、冥府に来たかったんだよ。……こんなに、胸を突いてまで。おれに会いたかったんだろう? こんなことをしてまで、どうしておれに会いたかったんだよ……」
ハーデスが彼の胸に手を伸ばす。震えて冷たい身体にくっきりと未だ残る三つの穴は、まだ湧き水のように血を流していた。
「アプロディーテから全て聞いたよ。ねえ、お前がまだもしおれを──」
その傷を慈しもうと、触れる直前に、ポセイドンは渾身の力で身を攀じってその手から逃げた。
「っ……ポセイドン」
一瞬、また拒絶されるかと身構えて傷付いた心は、それよりも彼の様子に面食らった。
「だ、だめだ!! 兄上、おれに近付いたらだめだ!」
悲鳴のような大きな声に、ハーデスは驚く。ハーデスが長い髪を軽く引いて宥めようとすると、彼の表情に焦燥が濃く現れた。
「あれは鉛の矢の所為だろう、お前が悪くないことをしってるよ」
それでも、拘束を受けたまま身を攀じってハーデスから距離をとる。彼は床の真ん中にある貝を模した寝台まで下がった。
「ポセイドン……」
寝台のせいでそれ以上下がれない事を悟ったポセイドンは、髪を振り乱してかぶりを振る。ハーデスの伸ばした手を恐れるように。
「イヤだ、ヤダヤダヤダ!! オレにあなたに触れる資格なんてない! あんな酷いことを……あんな惨い事を……っ!」
「鉛の矢だろう? 仕方ない事じゃないか、あれは神の心さえ狂わせるんだから。──それとも、お前の胸にはまだその鉛の矢が刺さっているというのか? だからまた、おれを拒んでいるの? それとも、鉛の矢なんて関係なく、おれのことが憎いか?」
思いの外に苦しげに漏れる。愛しんで、許してやらなければと思うのに、あの日の拒絶は今尚微かにハーデスに引っかき傷を遺していた。
──鉛の矢の所為ならば、お前の本心じゃないと思えるのに。
鉛の矢の所為などではなく、彼を追い詰めていたのなら、ハーデスはどうしたらいいかもうわからない。治ったはずの左足が痛むような気がしてハーデスは小さく呻いた。
ポセイドンははっとハーデスを見上げた。
自分がどのような顔をしているのかは分からないが、ハーデスの表情を間近で見たポセイドンは目を見開き、凛々しい眉を下げて今度は弱々しく首を振った。
「ち、ちがう……矢は兄上のお陰で取れた! 矢さえ当たらなければあんなこと……。けど、でも……。オレは……」
言い淀む彼の言葉を、ハーデスは待った。
長い時を経て、ポセイドンはキッと眉を吊り上げてハーデスを睨みつける。わななく唇を開き、泥土を嘔吐するように吐き出した。
「オレはあの時、兄上を組み敷きながら心の何処かで歓喜してたんだ!」
ポセイドンの血を吐くような懺悔に、ハーデスは目を丸くした。ポセイドンの腹の底から溢れ出した言葉は止まらず、次々に彼の口から吐き出される。
言葉を叩きつけられているハーデスよりも、ポセイドンの方が余程泣き出しそうだった。
「兄上が逃げぬよう押し留めて足を折り、兄上の細い首を絞めて殺して、何度もなんどもオレの欲ばかりを押し付けて──そんな最低な行為だったのに、オレ、オレは!! オレはこの世で一番心の醜い、恐ろしい、最低な神だ……っ!」
憎しみさえこもった言葉を吐き出し、うつむいた彼が泣いているように見えてハーデスは慌てた。
「泣くなよ」
彼は首を振る。確かに彼の目は海の中にあって真砂の浜のように乾いていた。
しかし、涙こそ出ていないが、その表情はハーデスのよく知る、幼い頃から変わらぬ泣き顔だった。
「泣いてない。この五百年間、一度だって泣かなかった。オレにそんな資格なんてない……。オレはいつか、またあんな風に兄上を傷付けるかもしれない。あんな事をして悦ぶようなオレは……」
頑是無い子供のように首を振るポセイドンに、ハーデスは小さく息を吐いた。溜息のように聞こえたのだろう、肩を揺らすポセイドンの肩に手を置いて、ハーデスはふっと微笑んだ。
「やってみろよ」
ポセイドンが逃げるのも構わず、その頬を両手で挟み込み、目と目を合わせて囁く。
「えっ?」
声には毒のように色めかしさが混ざりこみ、彼の耳から紫の毒を流し込んでいく。
「……お前の思う通り、お前の欲を全て俺にぶつけてみろ。どうせ不死の神なんだから、お前に何をされたって死なないよ。おれを傷付けられるものなら、やってみな」
ハーデスは指を鳴らしてポセイドンの拘束を取り払った。動けないポセイドンを寝台に押し倒し、その上に乗り上げる。
「殴りつけて、骨をへし折って、首を絞めて? 無理矢理、おれを陵辱してみろよ。それでお前が満足するならな」
首輪に繋がる金具をゆっくりと外す。左の金具を外せば、左袖がずるりと抜け落ちた。袖から肘を抜き、次に右を外せば滑らかな上半身があらわになる。艶かしい腰をくねらせ、右の手のひらをねっとりと胸に這わせる。ハーデスは扇情的にアメジストの目をうっそりと細めた。口元は赤く挑発的に弧を描く。
ハーデスは匂い立つ噎せ返る程の色気を纏わせ、右手の爪先でポセイドンの胸元の宝石から、露わになった鎖骨、出っ張った喉仏、顎の先をつっとなぞる。
「ポセイドン、やってみな。あの日のように」
色めかしい濡れた甘い声に、ポセイドンは歯を食いしばった。
「──っ!」
「ほぉら、やってみろよォ」
ポセイドンはかっと目を見開き、その目の奥に怒りにも似た深い欲を燃やした。腕が伸びてハーデスの肩をきつく掴み、ひっくり返す。
「馬鹿野郎ッ! オレは言ったんだからな!」
怒鳴りつけて、ハーデスの肩を寝台に力任せに押し付けた。そのまま片手でハーデスの腕を束ねる。
もう一方の手と胴を使ってハーデスの両足を開く。腰布がたくし上げられ、腹の上に蟠った。他の肌に比べても白く柔い太ももに、ポセイドンの右手が添えられ、ぐっと力を込められる。
ハーデスはぐっと息を詰め、腹の底から湧き上がりそうになる怯えを押し込める。
身を屈めて近付いたハーデスの耳に、彼の血の通わない低い声が神らしい恐ろしい迫力を持って忍び込む。
「オレからもう二度と逃げられないように、離さないように、へし折って──」
首を絞め、殺してずっと側に。冥府になど返さない。
そして、そこにはハーデスの心など必要ない。
ハーデスはハッと目を見開き、恐怖よりも深い深淵の悲しみが胸をついた。
──違う。それじゃだめだ。
へし折られても、殺されても、冥府に戻れずとも、ハーデスは覚悟の上だった。
彼が自分をそこまで求めているのなら、それに殉じてしまっても構わない。ポセイドンに求められる歓びは、嗜虐の痛みさえも快楽に変えるだろう。
しかし、あの狂気を受け入れるということは、ハーデスの心が棄て去られるということであった。ただ、心ない人形と変わらぬ扱いを受け入れるということだった。
ハーデスは己の浅慮と浅ましさに胸に冷たい隙間風が吹き抜ける。
「待っ、まって、ポセイドン!」
制止が気に食わなかったか、太ももに入る力が強まる。みしりと骨が軋むような音がしてぞっと総毛立つ。更に力が込められ、ハーデスは声を上げた。
「やめて、お願い、ごめんって、ポセイドンっ! やめて……っ」
滲んだ涙が瞬きの拍子に押し出されて海に滲む。
「お願い……」
はたりと太ももに込められた力が抜け、ハーデスはポセイドンを見上げた。
ポセイドンは噛み締めた歯の隙間から呻いた。
「出来ない……」
ポセイドンの震える手がハーデスの目元を拭った。ハーデスの手の拘束も解かれる。
「で、出来ない……いやだ、そんなことしたくない。愛してるんだ、父上の腹の中であなたがオレを愛してくれた日から、オレはずっとずっと兄上を愛してるんだ……!」
胸を突き抜ける、溶岩のような感情に突き動かされ、酷い顔をしているポセイドンに手を伸ばした。彼の頭を抱きかかえて、長い髪を梳いて撫でる。
「優しい子、矜持の高い子。たとえ欲がお前を突き動かしたって、いつものお前はその欲に溺れておれを傷付けられるほど心の弱い神ではないよ。そんなことしても、お前の心は満たされないだろ。そんな交わりなんて、お前とおれで心を交わした交わりに比べれば……、なあ、そうだろう? おれの体だけ手に入れても、なあ?」
ぼろりと彼のサファイアの瞳から雫が溢れて海に溶けた。
ハーデスのアメジストの瞳からも、同じ雫が溢れてポセイドンの涙と混じり合って海に溶けた。
「そうだと、言ってくれやしないか。ポセイドン」
ポセイドンはぐっと唇を噛み、凛々しい眉を顰めてハーデスを縋るように見つめた。
「そうだ……。オレの心は、オレの欲はそんなものじゃなかった! あなたの体だけ奪っても何の意味もない……」
ポセイドンは喉をしゃくりあげ、ぼろぼろと涙を溢れさせながらハーデスの肩に額を擦り付けた。
「兄上、兄上、ごめんなさい、ごめんなさい兄上……っ! ずっと謝りたかった。冥府に行って、あなたに謝りたかったんだっ。酷いことをして、ごめんなさい……」
繰り返し繰り返し一つの言葉しか知らぬ鸚鵡のように謝罪を繰り返すポセイドンをハーデスは強く抱きしめた。力いっぱいに抱きしめ、彼の震える体が少しでも温まるように、怯えなくていいと伝わるようにと抱きしめた。
こみ上げる涙をそのまま流して、彼が謝るたびに許した。
すこし筋肉が落ちただろうか、すこし薄くなっているではないか。彼の背に手を回して、微動だにしない彼をきつくかき抱く。
「いいよ、いいよポセイドン。もういいよ、謝らなくていい」
「兄上、ごめんなさい……っ」
「おれが許してるんだ、お前がお前を責めるな……!」
金細工の耳飾りの側で囁けば、しゃくりあげるように喉がひくついているのが分かった。
「ポセイドン、おれを抱いてくれよ。前みたいに、昔みたいに、なあ、頼むよ……っ」
泣き噦るままに乞い願う。彼の腕が漸く上がり、彼の銀の糸で縫い合わされたサファイアの鎧越しに彼の太い腕がハーデスを抱き返した。目と目を合わせ、どちらともなく食らいつくように唇を合わせ、舌を絡める。
「ハーデス、ハーデス、兄上!」
きつくきつく彼の腕にかき抱かれ、同じようにハーデスも彼を抱きしめた。
いつのまにか背に、柔らかな絹織物のシーツの感触がする。
「ポセイドン、もう一度言って。ねえ、あれはみんな嘘だったんだろう?」
彼の後ろに、天井に開いた燦々と天窓から光が差し込んでいるのが見える。
青く透き通ったオケアノスの輝く海を背に、ポセイドンは、ハーデスの愛しい、海中に差し込む鮮やかな太陽の光に似た笑顔でハーデスに何よりも美しい笑みを向けた。
「ああ、ああ! オレがハーデス兄上を嫌いになるなんてことは絶対にない。愛してる、大好きだ。兄上、オレの兄上、オレの愛しい冥府の王!」
ハーデスは崩れそうな笑みを浮かべて彼の首にかじりつくように抱きついた。
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