五章 歩き出して - 13/16

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 ロシナンテは地面を蹴り上げて並みの人間の動体視力では追い切れぬ速度で男の後ろに回った。
 アルカニロはロシナンテの胸ほどに頭がある。
 その男の膝の裏に照準を合わせて引き金を引く。男の片足を吹き飛ばすはずの銃弾は、石畳をえぐった。
 男は初老とも思えない踊るようなステップで銃弾を避け、美しいターンを決めてロシナンテに向き直る。
 手にはいつの間にか鋭いナイフが一丁握られている。大きく踏み込んだナイフの一突き。
 ロシナンテが切っ先を半歩で避け、制服が裂ける。どろりとナイフの色が変わる。
──たっぷりとナイフの溝には麻薬の原液が染みこんでいるらしい。
 風を切りながら的確にロシナンテを殺そうと突き出される斬撃。
 ロシナンテは愛銃のグリップで幾度も弾く。
 その攻防に音はない。
 薄暗い洞窟に幾度も火花が散った。
 アルカニロは防戦一方のロシナンテに口角を上げる。
「ハーシシシ、他愛もない」
 冷たく目を尖らせたロシナンテは音の無い舌打ちをして、腰を捻った。
 鋭く息を吐いて長い足を鞭のようにしならせて蹴り上げる。
 アルカニロはそれを軽く避けて、にやりと笑った。
 しーん、と何も音はしない。
 だが、音もしないまま落石がアルカニロの無防備な脳天を襲った。人の頭ほどもある落石にアルカニロが素っ頓狂な悲鳴を上げる。
「あがッ!?」
 嵐脚──不可視のかまいたちはアルカニロの避けた先の洞窟の天井を崩していた。
 ロシナンテの影響で起こる全ての音は能力でもって失われる。アルカニロは頭上の危険に気付いていなかった。
 ロシナンテはフーッと再び息を吐いて、アルカニロの腹を思いっきり蹴り飛ばす。
 おろおろとしていた薬漬けの男たちの幾人かがが彼を受け止める。
 もう幾人かがロシナンテに銃口を向けてやたらめったらに引き金を引いた。
 慌てて武装色の覇気を纏うが、的としては大きなロシナンテの皮膚を裂いた。致命傷には至らない。
〝剃〟で石舞台の岩陰に身を隠し、岩を影にしながら彼らに無音の銃弾を浴びせかける。
 銃はあっというまに彼らの手を離れ、ロシナンテはそれを見計らってひょいと彼らを洞窟から続け様に投げ落とす。いつか子どもを投げ落とすときよりは良心は痛まない。
 一人残ったアルカニロがふらふらとなりながら身を起こそうとしている。
「きさま……っ!」
 ロシナンテは能力を解除して、最後に残ったアルカニロに銃口を向けたまま肩をつかみ、石舞台に叩き付ける。額に銃口を突きつけた。
 西日が真横から入り、二人を赤く照らした。
「貴様……! クソ、貴様さえいなければ、貴様らさえ居なければ……」
「薬師アルカニロ──、もうおしまいだ。この島の花はもう二度と花を付けることは無い」
 ロシナンテの諭すような言葉に、男はすさまじい憎しみの表情を浮かべてロシナンテを睨み付けた。
「……この花は!」
「お前を愛した娘が愛した花だろう? 知ってるよ、エルネストに聞いた。ある日、ある海賊に敗れたお前は四番島に流れ着き、ある娘に助けられた──」

 もう何十年も前の話だ。
 貧しい島で、娘に献身的な看病を受けた男は、次第にその娘に心を開いた。
 そうして海賊をやめてこの島に根を下ろそうとした。気難しい漁師の義父と優しい妻──だが、幸福な時間はあっという間に過ぎた。
 アルカニロはもうとうに海賊をやめたつもりだったが、それを知るものはいなかった。因果応報──義父と妻──彼にとって初めて得た家族──は奪い去られ、売り飛ばされ、運良く帰ってきた時には永遠の苦しみを背負っていた。
 特に娘の苦しみはひどく、鬱々と塞ぎ込む日が増えた。その苦しみを紛らわすために男は禁断の花に手を付けてしまった。幸せの花。
 何百年もただの美しい花だったそれが、薬になると男は知っていたからだ。
 娘の笑顔に男は喜んでより効果の高い花の薬効を探し続けた。花粉から蜜、蜜からさらに蒸留して──。
 けれどその甲斐も無く彼女はまどろみの果てに命を落とした。
──花の麻薬でうとうとと幸せの中で彼女は去っていった。
 彼に残ったのは麻薬の生成方法とそれに伴う地位、そして世界への憎しみだけだった。
 それをロシナンテに語ったのはエルネスト翁その人だ。そして彼の娘だ。
「貴様らに何が分かる? なァ、
「……わかんねェよ」
 押さえつけられた片手に握ったナイフがロシナンテの脚に突き刺さる。刺さったナイフに一瞬顔をしかめたが、銃口は髪の毛一筋もぶれなかった。
「ガキのときからずっと、なーんも分からねェ。おれの呪われた血筋を知ってからも、兄貴の悪行を知ってからも……正義を背負うと決めてからも──。ああ、でもあいつを救うと決めて時からは少しマシだったかもしれねェが……」
 憎悪に顔を歪ませたアルカニロが突き立てたナイフが嫌な音を立てて捻られる。肉をえぐられる傷みにぐ、と呻きながらもロシナンテは眉を下げた。
「サンドラ姉さんとエルネスト爺さんをあのときのはおれだから。──せめてけりをつけるのはおれでありたかった」
 アルカニロの目が大きく見開かれる。
「は……」
「もう40年近く昔だ。おれがまだにいた時、他の世界貴族からおれが買い取った。父上に無理を言って。おれたちが聖地を離れる時二人を故郷に帰したのも、父上だった」
 ロシナンテの情報文書に記され、ロシナンテが記憶していた情報の半分はすでに使い物にならなかった。
 その中で、この任務を選んだのはセンゴクではなくロシナンテだった。
「おれが正しさを証明しなきゃならねェ情報は一つ──あとはおれの手を離れる。だからここを選んだ」
「忌々しい……!」
「……エルネスト爺さんと、サンドラ姉さんは本当にガキのおれに良くしてくれたよ。でっかくなったおれのこともすぐ分かってくれた……」
 直接会うことはできなかったが、二人はロシナンテを見てすぐに電伝虫での接触を試みてくれた。
 天竜人への恐怖と憎悪を抱えながら、ロシナンテには助けられたから、と。
 はじめは酒と麻薬の危険性の忠告。ロシナンテが身分を明かしてからは、彼らの取引方法や、シナジー効果や、栽培場所や、鍵の話を密かにやりとりしていた。
 いつかこの島を潰してくれと頼まれた。悪用されてしまった花を滅ぼしてくれ、そして。
「──アンタを、大事なアンタを止めてくれって。息子の故郷を麻薬の島にしないでくれって」
 ロシナンテの言葉にアルカニロの目がぎょっと見開き、ナイフがからんと石舞台に落ちた。
「サンドラ……」
 くるりとトリガーガードを回してグリップで男の頭を強打する。目を回した男をロシナンテは洞窟の外に放り出す。
「……よし」
 軽く脚を止血してロシナンテは立ち上がった。
 ぐらっと失血だけでは無いひどい目眩がしてすとんとひっくり返る。目眩は刺されたナイフに付いていた薬液だけの理由では無い。
「ドジッた……」
 洞窟の壁に手を突いて立ち上がる。思わず押さえた口元にべったりと血が付いていた。
「ッ、げほ、げほ…──はァ」
 脚を引きずり、ロシナンテは階段を地下にゆっくりと降りていく。
「あァ……クソッ……、キッツ……、くそォ……! ガープ中将の稽古よりキチィかも……ハハ」
 誰にも聞かせられない弱音をここぞとばかりに吐きながらずるずると下る。誰も聴いてないジョークが虚しく階段を転がり落ちた。