五章 歩き出して - 4/12

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 時は少し遡る。
 まだ東の空に太陽が昇る午前中。
 パドルシップの連絡船に乗ってたどり着いた四番島の入り口には島親とその部下が待ち構えていた。
「さあ、皆さん工場へ行きますよ!」
「はしゃぐなよ」
 スモーカーが呆れたため息と共にたしぎと部下の海兵達を窘める。センゴクは好々爺の風情でおかきをかじりながらG-5の海兵達を眺めている。
「貴方は……」
「私のことは気にするな。温泉入るついでについてきただけだ」
 手をふるセンゴクに島親は一瞬困った顔をしたが、その言い分に納得するほか無く、黙りこくる。
 その様子を知ってか知らずか、たしぎが彼の前で敬礼する。
「お待たせしました、アルカニロさん。今日は工場を見学させて戴けるそうで、ありがとうございます」
「ハシシシ、いえいえ。これで〝不安〟が解消されるなら安いものです。お越しになる海兵さんはいつもご覧になって安心して帰られますよ」
 島親の言葉にスモーカーは鼻をならした。つまり、痛くもない腹を探られて迷惑してるからさっさと帰れ、という意味だろう。
「ふん、随分と人数を絞らされたが」
「この島の周りは限られた時間しか船が出せないのです。その時間でもまともな帆船では歯が立ちませんのでね。あしからず」
「そうなんですね……確かにもう波が高い」
「もう次は昼まで、その次は夕方まで船は出ません。お昼はご用意していますから、夕方の便でお見送りしますよ」
 島親は愛想良く微笑みながらたしぎに案内した。
 島親がぱんぱん、と手を叩けば、それぞれ前に出た部下がふかぶかと頭を下げる。それぞれ白衣のようなものを着た研究員だか医者だかのような男達だ。愛想良く細い目をしていたが、必ずしも非戦闘員ではない体格をしている。
「たしぎ」
「はい。昨日決めた班で回ります。一班はスモーカーさん、二班はセンゴク大目付、三班は私の引率です」
 たしぎの指示に合わせ、海兵達が慣れた様子でさっさと班に分かれていく。
 それを見ていた島親の部下の一人──聴診器を下げた男──が班の前に部下達を並ばせた。
「では一班は私〝内科医〟フィジャン、二班は彼女〝麻酔医〟アナスティ、三班は彼〝外科医〟サージェンが案内します」
「はーい!」
 元気の良い返事が海兵達から上がる。妙に厳つい海兵に囲まれた中──一人の海兵は深いため息を吐いた。
 帽子の下のその目の下には深い隈が刻まれ、海兵というにはあまりに不健康そうな顔は、険しく不機嫌に染まっていた。

──更に一日前。一番島の屋敷にて。
「──つまり、あなたを四番島へ連れて行けば、この島の闇が明らかになると言いたいんですね」
「ああ、手を組ませてやる」
 悠然と窓際の椅子に腰掛ける男はにやりと豹柄の帽子の下で口角をつり上げて取引を持ちかけた。
 その後ろには黙りこくった大柄なシロクマのミンクが大太刀の太刀持ちをしながら佇んでいる。
「そうだ。おれにはこの島の闇を暴く〝策〟がある。監視の目があって自由に動けないんでな、手伝え。海軍」
「あなたらしくもない、トラファルガー」
「お前達もそれを探しに来たんだろう? 数十年手詰まりが続いているらしいが」
「私たちにも別の手くらいあります。今更無策で来るはず無いでしょう」
「へェ? 〝智将〟センゴクが来てるのも策の内か」
「あなたこそどういう風の吹き回しです? お互いに益の無い取引では?」
 それに一歩も引かずに対するのはドアの前に立つ女将校──たしぎ大佐である。彼女は怪訝そうな顔で椅子で足を組むローを見下ろしている。
 スモーカー中将が島親との会談中、シロクマのミンク族に連れ込まれた部屋の中にいた顔色の悪い男にたしぎは心底驚いていた。もちろん一緒にミンク族に連れ込まれた部下も同じだ。
 彼らは口元に手を当て、あわあわと泡を食ってローとたしぎを見比べて困惑している。
「大佐ちゃん、どうする? トラファルガーはもう七武海じゃねェよ、海賊だよォ!」
「スモやんが黙ってねェよ!」
 けれどそういう海兵達が誰も彼らへ攻撃しないのは、海兵達が確かにパンクハザードでの恩義を感じているからだ。たしぎやスモーカーから攻撃せよと言われれば銃を向けることのできる海兵たちだが、彼は間違いなくG-5の海兵たちにとっての〝恩人〟だ。
 たしぎは眼鏡の下でじっと男を見ながら思案する。
 男──ローはゆったりと椅子に腰掛けたままたしぎの出方を窺っているようだった。
 シロクマのミンク族──ハートの海賊団の〝ペット〟ベポがキャプテンに声を掛ける。
「……キャプテン」
「黙ってろ」
 そう長くもない思案を終えてたしぎは顔を上げた。
 眼鏡の奥の眼光にローの眉が不思議そうに上がる。
 この女はこんな目をする海兵だっただろうか、とばかりのローの怪訝そうな目線をはっきりと受け止めてたしぎは頷いた。
「あなた一人なら連れ出せます。ごめんなさい、ミンク族のあなたはすこし目立ちすぎる……」
「おれのことは気にしないで!」
「大佐ちゃん!」
「ただし、これでもう私たちはあなたに〝借りた〟ものはありません。この島を出ればもう敵同士」
「そもそも何も〝貸した〟覚えはねェが」
 肩をすくめながら、ローはベポに視線を向ける。ベポはほっとしたように微笑んで頷いた。言葉は無くともなにかの疎通が済んでいる。
「大佐ちゃん!」
「おれたちァ大佐ちゃんが決めたことなら……!」
「大佐ちゃん、一体どうすんだ」
 口では渋ってみせた海兵たちもたしぎに既に方法を尋ねるほど乗り気である。
 少しばかりの思案の後、たしぎはキッと顔を上げてローを指さした。
「脱いでください!」
 小声ながらきっぱりと言い切られ、聞き間違いの可能性を潰すたしぎの宣言に、珍しく──本当に滅多になく、大海賊トラファルガー・ローはぽかんと目を丸くした。
「は?」

 そろった男達の素っ頓狂な声。きょとんと首を傾げたたしぎがローと海兵たちを急かした。
「ほら早く! 海兵の服は嫌かもしれませんけど、私たちに紛れて出れば見つからないでしょう。あなたのふりをするくらいは出来ます」
「ああ、そういうこと! 海兵さん良いアイデア?」
 一番に得心したのはローの後ろでぶふっと吹き出したベポだった。たしぎがホッと眉を下げて笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、シロクマさん」
「おれベポだよ、キャプテンと仲間をよろしくね」
「わたしは海軍本部大佐、たしぎです。ベポさんも、私の大事な部下をよろしくお願いします」
 ベポはたしぎに手を伸ばして握手をする。ふわふわとした肉球の感触に、たしぎの厳しい海軍将校としての顔が思わず緩む。
「おいベポ!」
「わっ、調子乗ってすんません……」
 ローがぎろりとベポを睨みあげると、肩を落として項垂れる。怒った顔のまま、ローは海兵の服を、海兵はローの服をどうにか着込む。よく見ればサイズが合っていないと見破られるかもしれないが、互いに帽子を被っていたことが功を奏する。深く被っていればまさか30億の賞金首とは思われはしないだろう。
 たしぎはメガネをしっかりと掛け直し、矯めつ眇めつ二人を見比べて頷いた。
「帽子を深く被って、しゃべらないようにしたらきっと押し通せます。声を聞いたらスモーカーさんは絶対に気づきますから気をつけて。あなたたち、この人を囲んで隠せますか」
「任せろ!」
 残留組が胸を叩く。
「あなたはここでトラファルガーの身代わりを。ベポさん。彼を頼みます。私の大事な部下ですから」
「アイアイ!」
 ローの振りをするようにと選ばれた少し体格の似ていた海兵は、たしぎの言葉を反芻して少女のように頬を染めてくねくねと身をよじった。
ローのコートとシャツを着ているのでどうにも不気味である。
「だ、大事な部下だっておれ? 大佐ちゃんの大事な部下?」
「大佐ちゃんのことおれたちも大好き?」
「お前うらやましいぞ!」
「騒いでないで早くしてください!みんな大事な部下です!」
「大佐ちゃ?ん?」
「チッ」
 海兵制服の上着をローはひどく苛立った様子で引っ張った。今すぐ脱いで破り捨てたいくらいには嫌なのだろうということは、たしぎにも伝わった。
「おれは海軍は嫌いだ」
「私たちだって海賊は嫌いです」
 それでも、その作戦以上のものは思いつかなかったのだろう。ローは屈強な海兵たちに紛れ、無事屋敷を抜け出した。

 窓の外で大騒ぎをしながらトラファルガーを囲んで去って行く海兵たちを見送ってベポはほっと肩を落とした。そわそわとした海兵が気遣わしげにベポに声をかける。
「トラファルガー大丈夫か? あいつの能力ならこんな屋敷すぐ抜けられるだろ? 海楼石か?」
「ううん。お酒を飲んだらみんな変になった。ここでどうしてなのか調べてたんだ」
 呟くベポの声はわずかに震えを交えていた。
「でも……仲間が近くに来てたのが聞こえたんだ。仲間はみんな艦で待ってるはずなのに、何かあったんだと思う。じゃなかったらあの二人が島に忍び込んできたりしない。……大丈夫かな、ペンギン、シャチ、みんな……」
「だからあんな無茶な取引を……」
 ベポは頷いた。やわらかな肉球の手のひらで目立つからとおいていかれた鬼哭を握りしめる。
「海軍嫌いのトラファルガーが、素直に服を着るもんだと思ったぜ。そういう事情があったんだな」
「うん……」
「ま、まァあのトラファルガーなら大丈夫だろ。パンクハザードで俺たちの軍艦をさァ」
 励まそうと大手を振った海兵に、ベポははっと顔を上げた。
「パンクハザードに居たの!? ね、キャプテンがどんなふうだったか教えてよ!」
「お、おう! おれ海兵だけど良いのか?」
「キャプテンは政府嫌いだけど、キャプテンが嫌いなものをおれが嫌いにならなきゃいけないってことないから。うちはドライなんだ」
「へー、そんなもんなんだな」
「自由でしょ」
 海兵とベポはテーブルについて話し始める。その様子は、確認した見張りの目にはいつも通り仲睦まじく映ったらしい。
 今もまだ屋敷にトラファルガー・ローは居ることになっている。

26
 「こっちだ!」
 ロシナンテが逃げるその青年を二人、引き寄せてしまったのはもう、本当に反射でしかなかった。
 見知った顔の青年達が手足に手錠をぶら下げながら必死に走っているところを見てしまってはもうどうしようもない。
 あの海賊の青年──ペンギンとシャチだ。
「あ、あんた……なんでここに!」
 ロシナンテに驚きながらも足を止めようとしない青年たちの見慣れないつなぎの首根っこをひっ掴む。二人はぎょっとした顔をしたがロシナンテは睨み付けて地面に押さえつけてささやく。
「いいから、悪いようにはしねェ! 今騒ぎを起こされちゃこっちも困る!」
 追ってきた工場のものにロシナンテは合図に手を振る。島親の手のものらしいマスクをした男達はロシナンテを見て首を傾げた。
 敵か味方か判断しかねているらしい。ロシナンテはペンギンとシャチを両脇に担ぎ上げる。
「逃げたジャンキーだろ? こいつら捕まえたが、こっちで使って良いか。運ぶのに人手が欲しかったところなんだ」
「誰だてめェ!」
「ちゃんと門番に通してもらったよ。ケビー船長の後を継いで、おれが取引することになったんだ!」
 マスクの男達が顔を見合わせる。
 腕の中で身じろぎをする二人を取り落としそうになって、ロシナンテはぽんぽんと宥めるように背を叩いた。この二人に本気で暴れられたらロシナンテはひとたまりも無い。頼むからおとなしくしていてくれ、というロシナンテの願いが聞こえたのか二人の動きが止まる。
「三番倉庫から積み荷を運べって! ジャンキーども使って良いんだろ?」
「そいつらでいいのか?」
「かまわねェよ。手錠の鍵は……」
「ほら、鍵と薬。ちゃんと飲ませてから使えよォ」
 マスクの男達に鍵と小袋を投げられてロシナンテはそれをシャチを抱えている方の腕で受け取った。そのまま踵を返して工場の奥に向かおうとするロシナンテを呼び止める。たらりとロシナンテの額に汗が垂れた。
「……三番倉庫は向こうだ」
「……おう!」
ロシナンテはそのままそそくさと工場を出る。
 木箱や樽の並ぶ三番倉庫に入り、木箱の影に二人を放り出して、ロシナンテはため息と共に指を弾いた。防音壁を張る。
「サイレント」
 木箱にどっかりと腰を下ろして、ロシナンテはぎろりと二人を睨み付ける。
 二人はきょとんとして耳を叩く。
「周りの音が消えた?」
「おれの能力だ。防音壁を張った。この中では声が通らない──が!」
 ロシナンテはもらった鍵を投げ渡す。それをちゃんと受け取って顔を見合わせた。
 彼らをぎろりと睨みつけ、ロシナンテは青年たちに怒鳴りつけた。
「なんでここに居る! 島を離れろって言ったよなおれァ!」
 大抵の人間には怯まれるロシナンテに睨まれ、大喝されてもシャチとペンギンは一切怯むことなく、少しずれた帽子を被り直した。
 ペンギンが口を開く。
「上にキャプテンがいる」
「は?」
「一番島に行ったとき、仲間の耳とキャプテンの見聞色の範囲の中には潜り込めたはずだ。艦に居るはずのおれたちが一番島にいることを知ったら必ず異常に気づく。なら、一番怪しいここに来てくれる。だからここにおれたちも来た」
 ロシナンテは呆気にとられて二人を見た。二人の顔は大真面目だ。
「時間が無くてよ。中毒の振りをして潜り込んだんだ。頭から酒被って、サシャを仕込んで」
「なんて無茶を……」
「内部に潜り込むにはこうするしかなかったから。研究所探して、上でキャプテンと合流して逃げようと」
 シャチの口調に一切の迷いはなく、ロシナンテは目を白黒させた。
 そこまでキャプテンに信頼を置いている海賊団はロシナンテの知る中でもそうそうあるものではない。四方の海でなれ合っているならまだしも、新世界を渡っていける海賊団なら白ひげ海賊団やそれこそドンキホーテ海賊団あたりの大海賊団にちらほら見えるくらいだろう。もしかしたら、かなり名のある海賊団だったりするのだろうか。
 ロシナンテの驚きをどう受け取ったのか、ペンギンが無策じゃないぞとアピールする。
「……あの人なら薬の成分さえ分かれば解毒剤が調合できる。知り合いの名医に教わって薬学の知識も付けてるから」
「解毒剤!? どんな名医だよそいつは!」
「なんなら工場ぶっ壊しても研究所から情報だけ引っこ抜こうと」
 飄々と恐ろしいことを言う二人にロシナンテは本気でぞっとして身を震わせた。
「なんてこと言うんだ。勘弁してくれ。まだ早ェ!」
「なんかごめん……?」
 頭を抱えるロシナンテにシャチが首を傾げる。もし自分が庇っていなければ工場はまるごと焼け野原になっていたらしい。それくらいのことはやり通す能力はあるのだろう。
 証拠ごと壊し尽くされていたかも知れない可能性にロシナンテは身を震わせた。
 ため息を吐いてサイレントを解除する。あまり長く使うのは得策じゃない。
 ロシナンテはため息を吐いて、先ほど工場の者に渡された小袋を二人の前に投げた。
──ざらり、とこぼれるのは親指の先のほどの結晶。甘い香りをする砂糖の塊のようなそれ。
 〝JOY〟そのもの。
「これは一海賊団で収まる話じゃねェ。──お前ら酒を飲んで体調一番悪くなったっていったよな。これに覚えはないか」
 ペンギンとシャチが目を丸くしてそのざらざらとした結晶をつまみ上げて呟く。シャチが頷いた。
「ある……ガキの頃、叔父の家で」
「食ったことあるな」
「……ああ、ある。これは知ってる……よく、おやつ代わりに食ってた」
 ペンギンが言葉を継ぐ。
 初め話を聞いたときからそうだろうと思っていた。だが、彼らの顔に苦痛が過ったのを見て、ロシナンテは眉を下げた。
 表情をを隠すようにロシナンテも身を屈めてぱきぱきと指先でその結晶を砕く。
「──これはただの麻薬じゃねェ。悍ましいカラクリがある。そのカラクリのことを巷じゃあ黄金の環ゴールデンサークルと呼ぶ」
 ロシナンテは金色に染まった指先を見ながら口を開いた。
「これはな〝JOY〟っつう麻薬の原材料だ。繰り返して使用すれば依存する程度の安いドラッグ。効果も多少ハッピーになる程度だ。世界に蔓延る凶悪ドラッグに比べれば微々たるもんさ」
 だからこんなに簡単に追加の薬をもらうことが出来たし、こんなに簡単に入ることができる。価値が低いから。
 倉庫を見てため息を吐く。これほどの量の木箱、樽──全てにこの悪魔の結晶が詰まっている。流石にロシナンテもこれほど規模が拡大しているとは思わなかった。
 二人が聞いているのを確認して話を続ける。
「安価で大量に出回るがそれほど問題視はされてないドラッグだ。なんなら国によっては規制すらされてないかもな」
 その程度のものはこの大海賊時代にはありふれているし、ドフラミンゴ海賊団が仲介するまでもない。
 もっとおぞましく、体を蝕む効果があるものさえある。
「砕いて粉にしたやつがよく北の海の闇市場に砂糖として出回ってる。なんなら上等な砂糖より安いくらいだった。おれのいた組織でもガキがこっそり飴玉にしてて血の気が引いたよ」
 ペンギンとシャチが頷いた。おそらく彼らの家でももしかすれば砂糖として売りさばいて居たのかも知れない。その過程で口にしたのだろう。この青年たちが子どもだった時代にもう既にそこまで広がっていた。ロシナンテは顔を曇らせながら説明を続けた。
「貧しい人もガキも飛びつくさ。だが、そのガキが大人になっても老人になっても、この結晶の効果は腹の底に残っている。それが恐ろしいところさ」
「そんなに長く?」
「そうだ。一度口にすれば、その薬の効果は死ぬまで残り続ける。それで──ガキが酒が飲める歳になるだろ。その酒に使われるこの島の固有の花で出来た金色の酒を飲む。腹に残る〝JOY〟と黄金の蜜酒〝END〟を飲むとそれが合わさって──気が狂う。最初っから掛け合わせてるやつもあるな」
「……シナジー効果?」
 ペンギンからこぼれた言葉にロシナンテは頷いた。
 この結晶の持つ薬効。
 そして蜜の酒の持つ薬効。
 一つ一つならばわずかな効力は、掛け合わさることで恐ろしい効果を発揮する。
 人の正気を失わせ、あるいは酒浸りに、あるいは中毒に、そしてその果てに生まれるのはそれを求めていいなりになる薬物の奴隷たち。酒の濃度や薬の量を調整することもできるという。
 もうすでに、北の海に地獄への罠はばら撒かれている。
「詳しい話はしらねェが、そういう話だ。そうするとあっという間に廃人の完成だ。薬のことしか考えられなくなる。奴隷にし放題だろう」
 ふっと指に着いた金色の悪魔の粉を吹き飛ばす。びくりとシャチが身を引いた。
 だからこそ、ドフラミンゴが取引相手に選んだ。
 この黄金の輪を知っていれば誰でも、自在に人を破滅に追いやり、操れる。支配者にとってなんて素晴らしい薬だろう。
 ペンギンが青ざめた顔で結晶を見つめた。
「つまり──北の海出身者は」
「この島の酒を飲んだ途端に気が狂う可能性がある。逆もしかりだな。酒を飲んだことのある人間がこの〝JOY〟を口にする──そうすればそいつらは……」
 どうなるかなどわかりきっているだろう。ロシナンテの視線にペンギンとシャチがぞっと青ざめた。
「わかったか? これァ一歩間違えれば世界にすら関わる問題だ。ドフィがカイドウとの取引でSMILEの開発に注力し始めたからまだ北の海だけで留まっていただけなんだ。ドフィが居ない今、アルカニロの野望は外に牙をむき始めている。聖地までパイプがあるらしいからな」
「あんた、何者なんだ……?」
「言っただろう。この島をぶっ壊しに来たと。絶対にこの策はしくじれない。邪魔をするんじゃねェ」
 ロシナンテは低く言い含めて立ち上がった。ぐらっと足の力が抜けてひっくり返る。ドジッた、と呟きながら腰を押さえて身を起こしたロシナンテに、シャチが手を差し出した。
「邪魔はしない。でも話を聞く限り、手を組めるんじゃないか」
「研究所を探すのはおれたちも一緒だ。……それに北の海はおれたちの故郷だ」
 ロシナンテは目を丸くして、それからくしゃりと破顔した。可愛らしいマスコットのような帽子の下の青年達の目は真剣で、そして強かった。どこか──懐かしい子どもを思い出すような気がするのはロシナンテの気のせいなのだろうか。
 その手を掴む。
「じゃあ頼む。手分けして研究室を探したい」
 おう、と小声の声が倉庫に小さく響いた。

 いくつかの棟を見て回ったロシナンテは、ほとんど迷いなく厳重な扉の奥に忍び込んだ。
「あたり……だ」
 潜入捜査官としてのキャリアを思い出しつつ、海賊や後ろ暗いものたちの習性を照らし合わせて忍び込んだ場所はまさしくいろいろな研究を行っていた場所だったらしい。
 スモーカーたちが大所帯で視察をしているのでメインになる研究員はほぼいないだろうと踏んでいたが、予想外にももぬけのからだったことにほくそ笑む。
 乱雑な工場とは打って変わって一応は研究室という体裁が整っていた。
 大きさは船の船室一つ分といったこじんまりとしたものだが、テーブルには大きなフラスコや試験管が並び、天井から器具が吊り下げられていた。壁には薬品棚と書類棚が据え付けてある。
 どれも整然と並んでおり、ロシナンテは思わず拳を握る。
 こういう研究室は探しものがしやすいと経験上知っている。天才肌の研究者の方が捜し物に手間取ってしまうものだ。
「よし探すか……」
 〝JOY〝と酒ではまだ足りない。偶然の薬効だと言い張られればどうしようもない。
 出来れば研究所から決定的な麻薬製造の証拠が欲しかった。
 証拠さえ集めてしまえば、拘束できる。その後から取引の証拠を屋敷から押収できるだろう。
「凪」
 ロシナンテは自身に〝カーム〟をかけてまずは書類棚に近づいた。
 几帳面な研究者らしく、神経質な文字で分類された書類棚。ロシナンテはにっこりと微笑んで重要な証拠になる書類にカメコを向けた。音もなく撮りためられていく証拠。特に必要になりそうな書類は懐に数枚忍び込ませる。
 酒との相乗効果のレポートや、被検体の観察記録もしっかりと懐に収めることができた。
 そのまま滑るように薬品棚に移る。
 薬品のラベルを手を滑らさないように細心の注意を払いながら確認していく。無論、所持厳禁のものがあればそれもカメコに納めていった。
「一応、解毒剤とかもあるといいんだが……」
一から作るのと元々あるのを量産するのでは、後者の方が効率がいい。薬物中毒者への対処はより早い方が良いはずだ。
 それに、とロシナンテは思う。
あの二人の仲間たちが今も苦しんでいるなら助けになってやりたい。海賊など大嫌いなのは昔からだが、何故か彼らのことを海賊だと打ち捨てることは出来なかった。
 きっと──目覚めて初めてみた大きくなったローが海賊なんてやっているから、少し甘くなってしまったのかもしれない。
 参考にしたのだろう様々な海で流通しているドラッグの入った広口瓶や、薬品が揺蕩う茶色い瓶。ラベルを確認していくが、なかなかそれらしきものはない。
「……おれのカンならここらへんに……」
 この研究者の気質を考慮しながら薬品棚の中央、より厳重に保護されているアンプルに目を向けた瞬間だった。
 ガラスの引き違い戸に深くポーラーハットを被った男が、気配もなく映り込んでいる。
 咄嗟に身を逸らすが、心臓を狙った鉄より固い指先は深々と腹をえぐる。
「指銃」
「──ッ!」
 ポーラーハットの下で冷たい目をした男が音もなく割れ崩れるアンプルを見つめてため息をついた。
「手を出すなと忠告したはずだ、お前の命を惜しむべきだったな」
 ロシナンテは腹の傷を押さえながら、手に取った瓶を男の顔に投げる。それを咄嗟に庇った男の隙をつこうとして立ち上がる。
──ドジッたァ! あれ、このことか! てっきり別のことかと!
 凪で声は出ないのを良いことにロシナンテは呻く。足を払われて薬品棚に叩き付けられた。音もなくガラスが割れ、薬品棚に色とりどりの薬液が洪水する。
 そのことにポーラーハットの男が驚いた顔をした。
「音がしない──能力者か」
『しかもおれのことさえ知らねェ下っ端! ……余計な真似を』
 ロシナンテは低く舌打ちをして、懐から銃を抜いた。
 一息に天井のランプを撃ち抜いて部屋に闇の帳を落とす。
『サイファーポールのなり損ない、世界貴族の使いっ走り程度が邪魔すンな』
 能力がかかったままでは、男には何も伝わっていない。
 ロシナンテも伝えるつもりは無い。この手の相手と会話など無駄だと知っている。
 突然暗くなったことに狼狽えて、ガラスを踏み割って自ら居場所を教えるエージェントを長い腕で締め付ける。
 ロシナンテの長身と体格は大概の相手なら蛇のように締め落とせた。
がくりとうなだれた男を捕縛術で縛り上げる。
 そのまま部屋を出ようとしてロシナンテは舌打ちをした。
 一番島ですれ違ったのは数人だった。
 この男一人ではなかったらしい。銃弾が肩をえぐり、ロシナンテは咄嗟に指を弾く。
「サイレント」
 これ以上この場で騒ぎを起こすつもりはなかった。
 部屋全体に防音壁を貼り、そのまま銃を構えたままポーラーハットの男を睨む。指銃は使えないらしい二人目の男の背後を剃で取ろうとするが、男の嵐脚がロシナンテの首を狙う。嵐脚を咄嗟に銃で受け、その流れで足を狙って引き金を引く。咄嗟に足を引いて避けられる。
 腹を蹴り飛ばそうとして、鉄の感触。鉄塊は使えるらしい。だが、それだけだった。鉄塊は素人裸足で使えばただの置物。ロシナンテは身を屈めて男の足を払った。ひっくり返った肩に銃弾を撃ち込む。悲鳴が上がるが、防音壁の外には漏れないだろう。そのまま男を吊り上げて締め上げる。
「……貴様ァ!」
 縛り上げたはずの男が必死の抵抗で薬品棚を倒したのと、ロシナンテが腕の中の男を気絶させたのは殆ど同時だった。ロシナンテの貼り続ける防音壁の中でけたたましい耳を塞ぎたくなるような騒音が響く。
 見上げればロシナンテを押し潰さんとばかりにロシナンテでさえ見上げるほどの薬品棚が倒れてきていた。
「ぐッ……!」
 エージェント二人を引っ掴んで薬品棚の倒れんとする範囲から弾き飛ばし、自分もまた避けようとして──目が眩む。何かが目の中に入ってくる。洪水と化した薬品の何かが目にかかったと判断するより先に体を動かして棚のある範囲から逃れようとする。
「コラソン!」
 その声がするのと、防音壁の中のけたたましいガラス棚の破壊音が止まるのは同時だった。
 ロシナンテを両脇から担いで──殆ど御神輿のようになっているが──ペンギンとシャチが人目を避けて急ぐ。
 向かう先は洞窟の地底湖の端だった。

27
 ロシナンテに倒れかかってきた薬品棚を押さえてくれたのがまさに彼らであった。転がるように薬品棚の下から抜け出して、ロシナンテは愕然とした。
 視界がおかしい。
 目の前が白く弾けていて、何もかもがまぶしくぼんやりとしていた。まるであの日死に際にみた雪景色のように白い。ぞっと背筋が凍るような恐怖を押さえつけてロシナンテは彼らに声を掛ける。
 なんとか気絶したエージェントを縛り上げてくれと指示したところで、目敏くロシナンテの異常に気が付いたらしい。
「コラソン、目が……!」
「なんか目に入っちまったみてェ……、悪い今から言う場所に運んでくれねェか」
 どちらかの手がサングラスを外してロシナンテの瞼を引っ張る。誰かがのぞき込んでいるのは分かるがそれが誰かは分からない。
「瞳孔が開ききってる……」
「散瞳薬ってだけならいいけど」
「とりあえず移動しよう」
 そうしてたどり着いたのはぐるぐると回る水車の影、地底湖のほとりであった。
 妙に手際の良い二人に目を念入りに洗い流されるが、少しばかりまぶしさが収まっただけだった。だが多少はマシになっている。
 ペンギンの声がありありと心配を滲ませてロシナンテを案じた。
「大丈夫か?」
「ドジったな……。最悪見聞色でなんとか」
「動くなよ。腹の傷も肩の傷も深いんだぞ。ガラスもたくさん刺さってる」
「これくらい痛くもねェよ」
「……キャプテンが居ればな。キャプテンなら多分目も傷もなんとかしてくれるよ」
「へェ」
「外科の天才なんだ、あの人」
「そうなのか……」
 衛生兵並みに手際の良い手当をありがたく受けながらロシナンテは考えた。
 能力の使いすぎでちょっとばかり内臓が悲鳴を上げているのを感じる。まぶしさが収まるのももう少し掛かるだろう。げほ、と顔を背けて咳き込んで、ロシナンテは口元を引き結んだ。
 ドジッた。これ以上無いほどに。
 時間は刻一刻と過ぎていく。
 今はもう昼を過ぎ、夕方の刻限まで時間が無かった。
 研究室に誰かが戻れば潜入したことも知られるだろう。その前にどうにか土台を整えてしまいたい。
 だが、ロシナンテの体は動いてくれなかった。その焦燥を感じたのか、ペンギンとシャチが提案する。
「なァ、今からキャプテンを連れてきていいか。あの人ならきっと助けてくれる」
「薬を抜くぐらい簡単だ。アンタの目も治せる──そのかわり、その解毒剤をキャプテンに使って良いか」
 ロシナンテは目を丸くした。
 懐に大事に割れないように庇っていたガラスのアンプルを取り出す。騒動の中でも割れないように大事に抱えていたものだ。
「気づいてたのか」
「ああ」
「無理矢理取らなかったのか」
「そんなことしねェよ」
「……どうやって上に上がるつもりなんだ?」
 ぼやけた視界のなかで、二人が背後の地底湖を指さす。あちらにあるのは何だったかと思い出して、ロシナンテはぽかんとした。水を上に汲み上げる巨大なパイプだ。
 まさか、そんなことがあり得るのだろうか。
「泳いでいく」
「……は?」
「待っててくれ、すぐ戻る」
 とぷんと殆ど音がしない水音がする。
「嘘だろォ……?」
 小さく低められた驚嘆の声はもうどこにも届かなかった。

28
 ──キャプテン!
小さな声が確かに耳に聞こえてローは立ち止まった。見聞色の覇気を広げれば排気口のような小さなハッチから腹心のクルーの目が覗いている。思わず足を止めたローに、案内役の〝外科医〟の視線が怪訝そうに向けられる。
「どうかしたか?」
「……いや」
 無論その声は前を歩くたしぎ大佐にも聞こえたようで、彼女もまた立ち止まった。外科医に聞こえないような後ろ手のハンドサインが飛ぶ。
たしぎ大佐の指示を受け、前を歩く〝外科医〟に気づかれぬように、海兵が数人彼に話しかけに行く。
 いきなり大声で質問攻めにする海兵に外科医はぎょっとして身をのけぞらせた。そのまま質問攻めに遭いながら離れていく。
──隠せ
 その意を組んだ海兵達がわっと隊列を組んでローを隠した。ローを隠せるだけの巨漢を集めてスモーカーと別れた理由をようやく察する。
「トラファルガー、これで貸し借りなしです」
「お人よしが」
 鼻で笑い飛ばすと、たしぎ大佐は憤然と腰に手を当てて胸を張る。
「もうこれから会ったら敵同士ですから! あなたたちも、そう思うこと!」
 たしぎ大佐の小声の命令に、海兵たちはニコニコと応じた。
「当然だぜ!こいつは海賊だし、次あったらとっ捕まえて火炙りだよな!」
 そう言いながら、そそくさと懐やポケットやカバンの中に仕舞い込んでいたらしいものをぞくぞくと取り出してこそこそとローに押し付ける。
「艦で作った飯と飲み物」
「これ雑用の服。クルーに着せていいぞ。デカいから気をつけろ」
「これお前の帽子、あのシロクマから預かってた。お気に入りなんだって?」
「おれのおやつ分けてやるよ」
「これおれの救急箱」
「あなたたち! 親切にしないの!」
 飲み物、弁当、布の塊、おかき、救急箱。自分の帽子が出てきたことには驚いたが、ありがたく受け取る。自分の帽子がやはり一番落ち着くものだ。
 できれば服も欲しかったが、流石にそれは望めなかった。どこかで適当に誰かの服でも剥ぎ取ろうと画策する。
 そんな有様で一抱えほどになった荷物を呆れながら受け取り、ローはハッチに滑り込んだ。
そのハッチから彼らの気配が去ったのを見聞色の覇気で見送ったたしぎは囁き声を上げる。
「視察を続けます。予定通り〝合図〟を逃さないように」
「イエスマム!」
 海兵達は小さく拳を突き上げる。たしぎは背に負う正義を翻して廊下の先へ進んでいった。