二章 顔を上げて  - 4/5

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 航海も折り返しを過ぎ、ロシナンテは筋肉痛に喘ぎながらも甲板を磨いていた。島の気候海域の端にさしかかっている所為で波が高い。
 困惑しきりの見張りの声は艦に響いたのは、ロシナンテが幾度目かのドジを踏んで甲板にひっくり返ったそのときであった。
「緊急! 緊急!! 後方から何かがすごい勢いで近づいてます! あれは…!? 怪物!? ばけもの!? 人!? 何? えっ、魚雷!?」
 見張り台の海兵の困惑の声が艦隊に響いた。新世界に慣れているはずの海兵の裏返った声の警告にロシナンテはひっくり返ったままメインマストを見上げる。
 彼が遠眼鏡で見つめているのは後方だ。
 一緒に甲板を掃除していた海兵と顔を見合わせる。
 なんだなんだと甲板のハッチから幾人かがモグラのように顔を覗かせた。
「泳いでる! 誰かが泳いでこっちきてる!」
 ほとんど興奮状態の見張りの声に、あたりから口々に文句が飛び交う。
「は?」
「泳ぐ?」
「新世界の海を?」
「何言ってんだ、お前疲れてるんだよ!」
「いや、違うあれは──!!」
 海兵の大声が轟く。
「ガープ中将だァ???!!」
 一瞬惚けた海兵たちが、どやどやと肩をすくめて元の作業に帰っていく。
 ロシナンテもなーんだ、と一瞬戦闘体勢に入った体を緩めた。
「なーんだ、ガープ中将か」
 と甲板を磨いていた海兵が肩の力を抜く。
「ガープ中将なら泳ぐよ、新世界くれェ」
「ガープ中将か?」
「あの人なら偉大なる航路グランドラインだって泳いで一周できるって信じてんだおれァ」
 ハッチから顔を出していた海兵も下に戻り、ロシナンテもまた腰をかがめてモップをかけ始める。
──……いや?
 ロシナンテははたと我に帰る。それは近くの海兵たちも同じだったようで、コビー艦は仲良く揺れる。
「ガープ中将ォ!?」
 その声に応じるように、水中から大柄な人影が飛び上がる。
 唖然と見上げる間にタラップも縄梯子も使わずに水を蹴り上げて後部甲板に着地した英雄は、濡れたコートを絞り、犬の帽子を脱ぐとパニックに陥っている海兵たちをギロリと睨みつけた。
「なんじゃ! 人のことを怪物だの魚雷なんぞ好き勝手言いおって! マリンフォードから泳いで追いかけてきただけじゃろうが!」
 憤然と胸を張る海軍の〝英雄〟に、ロシナンテは呆気に取られて心中を呟いた。
「すげェ、昔っから何も衰えてねェ…!」
 その声を聞き咎めたガープがギロリとロシナンテのいる方を睨む。ぎくりと肩をすくめたロシナンテをガープが認める。
 ロシナンテがロシナンテであることを認識した瞬間、ガープの顔が愕然と驚愕に染まる。
「──貴様ロシナンテか!?」
 ロシナンテが頷くよりも早く、ガープの両手がロシナンテの肩に置かれた。厚い手のひらがそのままロシナンテを押さえつけてじっと目が合う。
「貴様、生きとったのか……」
 本当に知らなかったのだろう、ガープの声には驚嘆と喜びが溢れていた。
「センゴクのやつ、わしにまで黙っとったな」
「いや、そのそれは……」
 やはりセンゴクは自分が生きていることをどこにも漏らさなかったらしい。今自分が〝生きている〟ことで薄々察してはいたが、その徹底ぶりに舌を巻く。
 ロシナンテが何もいえずにいると、艦橋から慌てたコビー大佐の声が降ってくる。
「ガープ中将!? どうしたんですか!?」
「おォ、コビー。センゴクおるじゃろ、あいつに渡さんといかん書類を渡しに来たんじゃ。渡したら帰るわい」
「伝書バット使わなかったんですか?」
 ヘルメッポもどこか弾んだ声でガープ中将に声を掛けた。
「おつるちゃんから直接手渡せと言われとる」
 ガープはカモメの模様が刻印され、ナンバー錠の付いた防水ケースを振り回す。情報文書を入れる物だが、ロシナンテの知っているよりも機能性や機密性が上がっている新型のものなのだろう。
 コビー大佐の後ろから顔をだしたセンゴクはガープを見ても驚いた様子はなく、むしろ呆れた様子でおかきを囓る。
「なんだ。騒がしいと思えば、わざわざガープを使ったのか」
「ほれ」
 ぽんっと放り投げられたケースをセンゴクが受け取る。 「投げるな、重要書類だぞ」
「お前に渡っとるんじゃからええわい。はー、面倒!」
 センゴクは苦言を呈するがそこまで気にしてはいないようだった。
「返事を書く間待っとれ」
「えー」
「黙って待て。艦を壊すなよ」
 ビシリと指を突きつけ、センゴクはさっさと船室に戻っていく。よほど急ぎの文書だったらしい。
 船室に戻るセンゴクの顔はロシナンテにもわかるほど険しいものだった。

 ガープがこのまま滞在すると察したコビーやヘルメッポがガープにわらわらと駆け寄って口々に話しかけにいく。
 コビーはきらきらとした顔で、ヘルメッポは辟易とした顔を繕っているがそれでも嬉しそうな顔を隠しきれていない。
 彼らの話を聞くガープは、いつもの豪放磊落さを保ちながら、どこか穏やかな顔をしていた。部下や弟子というよりは、孫を見る目に近いような気がする。
──あんな顔をする人だっただろうか。
 よく彼を見ればロシナンテの知っている頃より皺が増え、確かまだ黒いものも残っていた記憶のある髪も真っ白になっている。
 豪放磊落な英雄のままだと思っていた自分の認識を修正した。
 二人がガープの秘蔵っ子だという噂はあながち間違いではなかったらしい。船員たちもガープとは付き合いが長い船員が多いのか口々に挨拶をしている。
 ロシナンテはそれを横目に見ながら、こっそりとハッチから下へ降りようとする。
 このままだと、余計なことまで暴露されかねない。
「ロシナンテ!」
「はい!」
 ハッチを開けた瞬間に怒鳴りつけられ、思わず足を滑らせてハッチに頭から突っ込む。甲板下の船員が目の前に現れた逆さの男にぎょっとした顔をしたが、ロシナンテだとわかるとすぐに苦笑して仕事に戻る。
そのままにゅっと芋を抜くように吊り上げられる。
「相変わらずドジじゃのう」
「ドジっ子なんです」
 片腕で吊り上げられ、ロシナンテははは、と空笑いを零した。
「おっさん、ガープ中将と知り合いなのか?」
「世話してやったなァ」
「……それはもう、|死《・》|ぬ《・》|ほ《・》|ど《・》」
 ぶるりと震えながら頷くと、減るメッポは心底同情した顔でロシナンテの背中を叩く。
 そのまま甲板はセンゴクを待ちながら賑やかに昔話が弾んでいった。

 薄暗い船室。船窓からはうねる海面が見えている。
「──そうか」
 センゴクは一人、宛てがわれている客船室にて文書を紐解いていた。
ふー、と溢れる深い息は無念とも安堵ともとれるもので、表情は陰って窺えない。
 手にあるのは一枚の紙切れ。
 並ぶ小さな文字の中に〝ドンキホーテ〟と読めた。
「……どうしてだ、ロシナンテ」
 眉間を指でほぐしながら、彼は椅子に背を預けて天井を見上げる。
「……なぜ言わなかった」
 鎮痛な面持ちのまま、その手にある紙を机にばらりと投げるように置く。散らばった文書はいくつかの書式が混ざっている。
報告書、情報文書──カルテの写し、小さな箱。
 センゴクの表情は暗いまま。
 書き留めた返事を筒に詰めた。

「死んだと思うとったんじゃ。茶ぐらい付き合わんか!」
「わかりました!」
 有無を言わさず食堂室に引っ立てられ、ロシナンテは身を固くさせながら茶を啜り込む。熱いよ、と供された茶が想像より熱く、思わず吹き出しながらひっくり返る。
「あっつィ!!」
「ぶわっはっはっは!! 変わらんのう!」
「うう……、ガープ中将もお変わりなく……」
 よろよろと席に戻りながら返事をしかけ、ふと先ほどのコビー大佐とヘルメッポ少佐に対するガープを思い出す。
「いや、ちょっと優しくなりましたか?」
「おーおー、言うてくれるわ。泣き虫ロシナンテが」
「泣いてませんが!?」
 ごん、と拳骨を落とされて痛みにうめく。
「初対面で『ぼくわるいこだから食べられちゃう』とか言うて勝手に泣いたんじゃろ。お陰でセンゴクに叱られたわ。わしなんもしとらんのに」
「いやァ、ははは、その節は本当にご迷惑を」
「生きとるだけでええのが子どもじゃ」
 ぼそりと溢れたガープの呟きに、やはり昔との変化を感じる。痛みの滲んだ視線がロシナンテを通り越してどこかを見ている。
「ガープさん?」
「──また貴様のドジを笑えるとはな! 長生きはしてみるもんじゃ」
 大きな手が今度は拳骨ではなく手のひらでロシナンテの頭をかき混ぜる。首の骨が折れそうになるほどの勢いに目を回しながら、ロシナンテの頬も緩む。
「ガープさんも。一目会えてよかった」
 ガープはそれには応えず、ロシナンテの背中を強く叩いた。

 夕暮れに近くなったころにガープは再び泳いで帰ることになった。
 コビー大佐たちが引き留めていたが、他に用事があるらしい。
「それじゃあわしは帰る!!」
「やったー! お疲れ様でした!」
「今日は忙しかったですけど、今度は稽古つけてくださいね!」
 嬉しそうに見送るヘルメッポと、名残を惜しむコビー。ヘルメッポに拳骨を落としてから、同じく見送りにきていたセンゴクをちらりと見る。
「センゴク」
「なにも言うな、わかってる」
「……ふん、たまにはわがままくらい言えばええと思うぞ」
 センゴクは一瞬驚いた顔をした後、肩をすくめて手を振る。
 海軍の英雄は短いため息をつき、そのまま背を向けて海に飛び込んでいった。
 最敬礼で見送ったロシナンテたちは肩の力を抜く。
「明日の朝には G-5に着くのになァ」
「ガープ中将はお忙しいなあ……」
「ちょっとくらい休ませてあげればいいのに」
 どやどやと話しながら、船員たちが仕事に戻っていく。
 ロシナンテもそれに混ざりながらもう水平線に消えようとしている、子どもの頃からよく世話になった人を水平線の向こうまで見送った。

 ここはグランドラインの海の上。
 だれにも盗聴される危険のない場所で、ぷるぷると電伝虫が鳴る。
『はい、洗濯』
「せんべい! わしじゃ!」
『ガープかい? どうしたんだい、こんな機密通信使って』
「センゴクんとこの件、聞いとったか!?」
『あぁ〝一人目〟の方かい? あたしゃ知ってたよ。というか、あんたに例の件依頼したのあたしだろう』
「え??!! なんじゃ、わしだけ除け者か!! わしこの件の功労者なのに!」
『知らない方がうまく行くだろアンタは。その言い分だと気付いたんだね』
「コビーとヘルメッポの艦にセンゴクが乗っとるっちゅうから報告書と例のブツ渡してこいっちゅーたのおつるちゃんじゃろうが!!」
『任務終わったんならさっさと戻っておいで。こっちは人手が足りないんだ』
「わし!! 中将!! それなりにえらいんじゃけど!」
『あたしも中将だよ。……あの子には会えたかい?』
「……元気そうじゃったよ。センゴクのやつが嬉しそうでなァ」
『ならよかった。嫌なモノ運ばせてすまないね。でも会わせてやりたかったんだよ』
「わかっとる。……ありがとう、おつるちゃん」
 ガープは電伝虫を懐の防水袋に仕舞い込んで、再び泳ぎ出す。
 彼にかかれば、日が昇るころには本部に着くだろう。