19
母艦にペンギンとシャチがたどり着いたのはそろそろ海が金色に染まる頃の時間帯だった。
ハートの海賊団の母艦は四つ──否、あのコラソンと名乗った男の情報を鵜呑みにするとすれば〝五つ〟ある島の内、中央に位置する三番目の島の港に深く沈んでいる。
ポーラータング号の下部の水密室に入って二人はようやく肩の力を抜く。水が艦外に完全に排出されハッチが閉じたのを確認して、まず口火を切ったのはシャチだった。
「……あのおっさん、〝コラソン〟って言ってたな」
ペンギンが頷く。
コラソン──〝ハート〟をあらわすその言葉は、ペンギンたちハートの海賊団を表す名の一つだ。
彼の様子をみるに自分たちがハートの海賊団であることは気づいていないようだったが、偶然にしてはできすぎだ。
「何者だ?」
「わかんねェ。けど、〝酒〟……やっぱり原因か」
「……キャプテン無事かなァ」
「ビブルカードはピンピンしてるけどな」
シャチが水密室の外で積まれているタオルで頭を拭きながら水密隔壁を閉じる。二人で意見をすりあわせながら操縦室に向かう。
思い出すのは、この島に来たその日に起こった、唐突な事件だ。
ワノ国を出てすぐ、海上で行き会ったのは漂流していた海賊船だった。船員も船長も誰も居らず、船倉にならぶ空樽からは甘い匂いがするばかり。
そんなからっぽの船の中に転がっていた永久指針の一つに、クルーは驚きの歓声を上げる。
刻まれていたのは、新世界でも名高い薬草の島の名だった。
「行ってみます? ロー船長」
「そんなに遠くなさそうだよ」
丁度麦わらの一味の船医と薬草の知識を交換していたこともあり、ハートの海賊団のクルーたちは目を輝かせる。
「──エルガニアか……」
医者ならば一度は訪れたいと囁かれるその島。
ロー率いるハートの海賊団はその島に指針を向けた。
「キャプテン、島に着きましたよ! すげえ花だらけ」
「先遣隊の様子だと海賊は三番目の島に隠れて停泊してるみたいです。ほかの島に行くと追い出されるみてェ」
「海軍の軍艦も来てねェです」
「分かった。停泊するぞ」
「アイアイ!」
浮上して航行していれば、奇妙な形の艦にみえるのがポーラータング号の良いところだ。船長の気質からも流石に億を大きく越えた賞金首であることは喧伝する趣味はない。
よって、どの島に行っても大概はハートの海賊団だと知られることはなかった。賞金首のローは少しばかり変装する必要はあるが。
──そこまでは良かったのだ。
花の咲き誇る三番目の島の港に停泊すれば海賊向けの店が港町に建ち並んでいた。歓楽街の端には酒瓶を抱いて転がっている海賊もいる。
薬草を売っている店では図鑑でしか見たことのないような薬草がつるされており、流石のローも目を丸くしていた。
生薬とワノ国で補充しきれなかった日用品を買い込めばあとは海賊らしく夜の町に繰り出すに越したことはない。ローを含めて、ハートの海賊団での大騒ぎはパンクハザード以来になる。ローもまんざらではなさそうな顔ではしゃぐクルーたちに引っ張られて港町の酒場に足を運んだ。
酒場の棚にはいくつもの黄金色でとろりとした酒が並んでいた。ほかの酒の倍以上並ぶそれが何かクルーが訊ねると、店主はうれしそうに酒瓶を持ち上げた。
「この列島の特産の蜜酒だよ。四番島で作って直接卸してるから安くしてるよ」
店主に勧められた酒瓶にローは眉を寄せる。
「どッかで見たことあるな……」
「少ないけど輸出もしてるからなあ。甘い酒だから好き嫌いあるけどね」
店主が差し出した酒瓶のエチケットにはENJOYと楽しげな筆記体が踊っている。
ハクガンのように甘い酒が苦手なクルーは別の酒を頼み、ほかのクルーは物珍しさからそれを選ぶ。
ペンギンとシャチも極寒育ちということもあり酒であればなんでも美味いという人間だ。
ワノ国を出てようやくハートの海賊団みなで一息つける喜びにキャプテンにグラスを向ける。
金色に美しく揺れる夕暮れ近い海のような色の酒を、皆でグラスを合わせて飲み込んだその瞬間だった。
ペンギンの視界がぐらりと揺れて、急激な酩酊が襲う。
隣のシャチが、がく、とテーブルに肘を突いて頭を押さえていた。
平衡感覚が狂ったような、足下の覚束ない感覚。目の前のキャプテンも目を見張って頭を押さえている。
「キャプテン!」
「──ROOM!」
ばら、とペンギンとシャチの体が崩れて何かを抜き取られる。店主が悲鳴を上げた。
キャプテンもまた自ら能力を行使しながらぎょっとした顔で自分たちに駆け寄った仲間達に指示を出す。
「……艦へ!」
クルーたちに担がれて店を飛び出る。
「酒場の親父に盛られた……?」
「でもおれらも一緒に飲んでたのに!?」
その酒を飲んで倒れたのはシャチとペンギン、そしてローだけだった。 同じ瓶から同じ酒を飲んだはずの仲間達には何も起こっていない。
「おれたちなんともないよ!?」
「スキャ──ッ」
ローが能力を使おうとして、頭を押さえる。シャチとペンギンに行使した能力で限界がきたらしく、艦に着いた途端に頽れる。
オペオペの実の能力は極度の集中力を必要とする──能力が使えないほどに乱されている。
シャチとペンギンは切り刻まれて大方抜けたがやはり、胸の内を渦巻くような底知れない酩酊感に動けずにいた。
「キャプテン!」
「落ち着けベポ……」
泣き出しそうなベポを抑え、ローは懸命に息を整えた。
ポーラータング号の外を睨んで呟く。
「……客だ」
大きく展開したROOMはその能力でもって、この船のの正体を露わにしたらしい。停泊していたポーラータング号に客人が訪れる。
「〝死の外科医〟トラファルガー・ローだね」
現れたのは白髪交じりの初老の男だった。タキシードスーツで紳士然とした男が停泊しているポーラータング号の前に立つ。
彼はこの島の長だと名乗った。
罠だと止めるクルーを一にらみで黙らせてローは一人甲板に上がった。甲板の手すりに手を掛けて男を見下ろす。
「体質に合わない花があったのだろう。様々な花の蜜から作っている酒なものでね」
「……随分と耳が早いな」
「私は島親としてこの島を守る義務があるんだ。酒場の親父さんが驚いて知らせたんだよ。助けてくれってね」
「……酒場の主人は無実だと?」
「そう。だから治療の申し出をしにきている」
ローの吐き捨てた言葉に島親はおっくうそうにため息を吐いた。
「時たま居るんだよ、島の花が体質に合わなくて倒れる人が。そのたびに復讐だと島を荒らされては敵わんのでね。倒れたのは何人かな?」
黙りこくったローを見上げて島親は苦笑混じりに肩を竦めた。
ペンギンとシャチ、ローが急激だっただけで、確かにクルーの中に同じような陶酔感が出ているものがいた。
「信用できないかな?」
「すると思うのか。お前を殺して薬を奪うこともおれには容易いことだ」
ローは鬼哭の鯉口を切る。わずかに覗く美しい刃文が怪しく輝いている。
しかしそれは、ローが今能力を使えぬことの証左であることをペンギンは悟る。
普段ならばそんな問答をするよりも先にシャンブルズで薬を奪取し、スキャンで解析できるはずだ。
彼自身が何かに侵されている今、能力を展開することさえ不可能に近い。
ローのはったりが通じているのか居ないのか、島親はわざとらしい困った顔をした。
「それは困るな、お互いに。私は島を守れず、この艦は仲間を失うかもしれない。……私はただこの島を守りたいだけなんだ。望むなら治療薬は渡す。ただ、停泊するなら賞金首は屋敷に来てくれ。このまま去るなら追いはしない」
黙りこくるローに、島親はまるで頑是無い子供を宥めるような口ぶりで話を続けた。
「〝死の外科医〟トラファルガー・ロー。私はかのドンキホーテ海賊団を下した名高い海賊であるお前だから譲歩しているんだ。平和な島から略奪をする男ならそもそも治療薬の話など出さずに見殺しにしている」
「……わかった。おれが屋敷にいけば、他の仲間は〝自由に〟動いていいんだな」
「もちろん。自由に〝観光〟でもしてくれ。ああ、ただほかの島は海賊厳禁だ。それを破るなら、きみたちを客の扱いとはしない。……覚悟をしてくれ」
ぞくりとするような眼光で島親は念を押す。
そしてローはベポを連れて島親の屋敷へと去っていった。
「キャプテンはおれが守るから安心して!」
「必ず戻る」
治療薬は確かに〝内科医〟と名乗った島親の配下の医師によって手配され、服用したクルーの容体は一時回復した。
その日より三日。
クルーたちはキャプテンと全く連絡が取れずにいる。
濡れた髪を乾かし、シャチは防水布を拭いて中身を取り出す。その匂いに、ペンギンは口元を曲げた。
「……いい人だったな」
「このサシェも自分用に買っただろうにな」
防水布から取り出したサシェの匂いは島に充満する花々の匂いそのものだった。
憲兵に見つかったのが匂いのためと言うならば、確かにこれは言い隠れ蓑になるだろう。だが、この匂いを二人は知っている。足音を聞きつけたか、艦の居住区からハクガンが仮面を覗かせた。
仮面越しでもすこし窶れているのが分かるのは同じ艦の仲間だからだ。
居住区のハッチの向こうから、手元のサシェとよく似た匂いがする。
二人は声を潜めて帰艦を告げる。
「ハクガン、ただいまァ」
「おかえり、シャチ、ペンギン。ロー船長には……会えなかったみたいだな」
「ああ。……みんなの様子はどうだ?」
ハクガンはこっそりと居住区を振り返り、肩を落とした。居住区に眠っているのは仲間の約半数以上。
三人が声を潜めているのも彼らを刺激しないためだ。
「今は睡眠薬で寝かせてる。お前らは?」
「おれたちは大丈夫。初めにキャプテンに抜いてもらったのがよかったみてェ」
「酒の成分の解析できそうか?」
「それが、どう調べても普通の酒なんだよ。この土地の花の蜜をブレンドして作ってるだけの地酒だ」
「治療薬ってやつも?」
「うん……、検査したけど変なものは入ってない……でも……」
ペンギンの低い声がポーラータングの廊下に頼りなく落ちた。ハクガンとシャチも顔を見合わせて頷く。
「どっちも飲まンなってキャプテンが言ってたもんな。あの人が屋敷に行ったのだって自分で調べるつもりだったからだろ……こっちがこんなに悪化してンのはしらねェはずだ」
「酒か薬に何かあるはずだと思ったんだけどな……、せめてキャプテンにこっちの様子を伝えられたら……」
「あの人ならきっとすぐに察してくれるさ」
ハクガンはやるせなく呟く。ペンギンがなだめるように肩をたたく。
それでも失敗は失敗だ。深海の水圧よりも重たい沈黙が落ちる。
それを破ったのは、居住区から聞こえてきた呻き声だった。
ああ、お酒が飲みたいよォ……!
その声に三人ともがぞっとした。普段の溌剌とした仲間とは違う、譫言のように虚ろな声にハクガンは身を翻して居住区に戻ろうとする。
その背にシャチは慌てて声を掛けた。
「ハクガン! もう酒は飲ませるな!」
「飲ませてない! でもあれはただの酒のはずだろ……」
「それでもだ。……一番島で会った男に『飲むな』と忠告された。やっぱり何かある」
ハクガンの肩が揺れる。仮面越しに不安そうな気配を漏らす彼の肩をペンギンは叩いてなだめた。
キャプテンが屋敷に去った数日の内に、半数ほどのクルーに異常が出始めた。あの酒を異常に飲むようになったのだ。普段下戸のクルーさえ、浴びるように酒を飲む。
咄嗟にクルーをポーラーに閉じ込めて岸を離れるも、潜水艦という密室で隔離したが様子のおかしいクルーは酒を求める。
その上治療薬は島親の使いからしか受け取れない。
──治療薬をもらいに浮上するたびにどこかから酒をくすねては飲んだくれている。明らかに異常だった。
「アイアイ、ペンギン」
力ない返事をしてまた居住区に戻るハクガンの項垂れた背を見送って、シャチとペンギンは唇を噛み締めた。
もうあまり猶予がない。
だが、無策で騒ぎを起こせばおそらくまだ能力の使えないローに危険が及ぶ。
そもそも半数以上が昏睡している潜水艦がまともに動くはずもなく、逃げることも危うい。
今、この艦を島の全兵力で攻められればペンギンとシャチだけでは仲間全員を守りきれないかもしれぬ。
秘密裏にローにこの現状を伝えることもままならず、二人はほぞを噛んだ。
だが、手をこまねいているわけにはいかない。
コラソンと名乗る男から貰ったサシャから馥郁と香る甘い匂いはぞっとするほど酒の匂いに似ていた。
「明日は……四番島に行こう」
「ああ」
ペンギンの提案にシャチが拳を合わせた。