三日月ブルーの煩悶 下 - 6/8

#15

「落ち着け、鶯丸!」
 三尺に近い太刀を軽やかに振りぬく時間溯行軍の太刀は、古備前の二振りがかりであっても容易に押さえ込むことすら難しい強さで、一路主の元へ向かおうとしている。
 その上、普段飄々と戦況をよく見ている鶯丸の頭に血が昇りきってしまっていた。
 自分とて、所縁のある刀がこのように怪我されていれば彼の比でなく激高しようものだが、この強さではそれが命取りになりかねぬ。浅く頬を切られながらもその太刀筋を躱した大包平は、細く息を吐いた。
──寝間着で、あの憔悴した姿で、これとやりあったのだな。あの刀は。
 そのうえ、おそらくあれはこの刀が、彼の元いた本丸の大包平であると気付いた上で、刃を交えたのだ。
 戦い方の癖が、あまりに似ている。
 この中で三日月宗近と最も手合わせをしたのは大包平と鶯丸だ。だからこそ、分かるものがある。
 じりじりと、他の溯行軍が減りつつある。
 戦嫌いで手入れが苦手な主のため込んだ資材、手伝い札、お守り、潤沢に蔵で死んでいたそれらが今、まさに死中の活であった。
 空には玲瓏たる月が浮かんでいた。銀の鏡のようなそれは、主の加護と霊力を強めている。
──“大包平”さえなんとかすれば、救援まで持ちこたえることはできるだろう。
 地面を転がって、一刀を避ける。鶯丸が額を切られて血を流す。
 だが、この太刀一振りで本丸を壊滅させるだけの力はある。
 上段から振り下ろされた三尺の刀を、大包平は受け止める。火花が散る勢いのそれも軽々とはじき飛ばされ、鳥居近くの壁に背からぶつかった。背骨が軋み、肺腑から空気が抜ける。
「大包平ッ!」
「……ッ大事ない!」
 なんという膂力。なんという凄まじい動き。
 大包平の口元に、知らず笑みが浮かぶ。
──これが正気であれば、この本丸はとうに全員折れている。
 皮鉄は朽ち錆びて、穢れに満ちて正気もなく、あの三日月のような技巧は失われ──それでも尚これほどの強さを、大包平は持ちうるのだ。
 思わず漏れた哄笑に、ぎしりと太刀の動きが止まる。正気を喪った赤錆色の目が怪訝そうに自分を見る。
「笑っている場合か」
 鶯丸が珍しく厳しい顔で大包平を叱責する。
「これが笑わずにいられるか。鶯丸、俺は強いな!」
 大包平は心のままに声を張り上げた。
「……ああ、強いな」
 鶯丸が、風船がしぼんでいくような声を上げる。肌を刺す彼の殺気が、同じようにしぼんだ。
 怒りと憎悪に燃えていた鶯丸の瞳が鎮火し、深い悲しみを湛えて太刀を見つめる。
「何があった、大包平。お前ほどの刀が、何故これほどに穢れ、朽ちた」
 鶯丸は、刃に載せて太刀に問う。鎬を削って競り合う。
 強い太刀は、心のない太刀筋で鶯丸をはじき飛ばす。大包平の一刀を受け流し、首を断たんと振り上げられた刃を正面から受け止めたのは、冴え冴えと青い狩衣の、玲瓏たる太刀であった。
「……こやつは単身で、敵陣へ飛び込んでな。命と引き替えに、敵の転送術式を破壊したのだ。捕らえられておるとは、知らなんだ」
 三日月は手入れを受け、傷一つ無い。
 それに加えて主の加護が分け与えられているのを大包平ははっきりと感じた。本丸に満ちる橘の香りがむせかえるほどにあふれていた。
「三日月……」
 その背に、大包平は声を掛ける。
「遅くなった。この太刀は、俺の前の本丸の最後の一振りだ……。仲間として、葬りたい」
 淡々とした口調だというのに、身を裂くほどの、深い悲しみをその背中が語っていた。
「手伝おう」
 大包平は立ち上がって刃を構える。鶯丸もそれに続く。
「主の浄化の術がお前の刃に乗っている。それでぶつかれば、瘴りは晴れよう」
「俺たちを使え。指示には従う」
「もう遡行軍はいない、残るは彼だけだよ。三日月さん」
 大太刀を振りながら石切丸が合流する。敵と対峙している仲間達は皆同じ気持ちだった。
 蜂須賀が微笑みながら三日月に語りかける。
「皆あなたに鍛えられて強くなったんだ、主も──。あなたのことを手伝わせてくれ」
 口々に三日月に声を掛ける。
「皆……」
 三日月がふっと目を伏せる。
 再び目を上げたとき、その目には光風霽月の輝きが満ちていた。
「せめて俺の手で葬ろう、我らがリーダー」
 穢れ朽ちた刀と、月の太刀が交わり、高く澄んだ音が響く。
 大包平だった太刀と、三日月に支えられたこの本丸の刀の刃が交わるたびにじわじわと太刀の動きが鈍る。幾合も斬り合い、刃が合わさるうちに、黒い穢れの塊のようだった姿がはっきりと露わになっていく。
 それは確かに──大包平であった。のっぺりと表情のない顔、装束もぼろぼろで、手当てされていない傷がいくつも残る無残な姿であったが、その太刀は確かに大包平であった。
「──大包平……」
 鶯丸が愛染に及ばんとした太刀筋を退けながら低く呟いた。
「──立派だよ、おまえは」
 上段に振りかぶられた太刀を石切丸が真正面から受け止める。古備前の太刀の二降りが彼の足を切り払い、ついに大包平であった刀は膝をついた。
──三日月がその首を落とすべく刃を振り下ろす。

 大包平の朽ちた刃が振り下ろされた三日月の刃を受けてきしむ。ぴしりと、刀の身に罅が入る。
「──三日月ブルー、か」
 一瞬、錆た色をした大包平の瞳が元の澄んだ鋼色を取り戻す。初めて発した声は、がらがらとひしゃげて細く、元々の闊達な声など見る影もなかったが、それでもその刀がその一瞬、正気を取り戻したのだと誰もが分かった。
 三日月の目が見開かれる。
 口元が笑みを浮かべ、失われていた表情がその刀の──大包平の顔に浮かぶ。
 立ち上る炎のような笑みだった。三日月はその一瞬で口元を引き結び、太刀を振りきった。
「──大包平レッド……!」
 大包平の太刀が中程から折れ飛び、鶯丸の苦しげな嗚咽が小さく零れた。
「──よくやった」
 ふ、と彼らしく笑う声が聞こえる。
「当然だ」
 パキン、と鏡が割れる音は彼の胸元からひどく澄んで響いた。