#14
「主君、もう怖くないんですか?」
手入れ部屋の中で手入れを受ける秋田藤四郎がそう問いかけているのが、蜂須賀の耳にも届いた。
主は三秒ほどの沈黙を保ったあと、小さな声で秋田の問いを否定した。
「……怖いよ」
今でも本丸では剣戟の音が響いている。戦の音、血の音、どれも今まで主が恐れたものだ。
「私の代わりにみんなが傷つくのも怖いし、血は怖いし、私を殺そうとしてくるものも怖い」
蜂須賀は正面を向いたまま、眉を寄せた。
初めの刀である蜂須賀でも、主の半生のことは詳しくはない。
「それでも……、思い出したんだ」
「思い出した?」
「うん、私が子どもの時、よく助けてくれた兄さんが居たの。私のヒーローだった。あの人みたいに、なりたかったのを思い出した」
手伝い札で短縮された手入れから、秋田が再び飛び出す。ふと、彼は振り返って微笑む。
「主君、ぼくも主君のひーろーになりたいです」
「みんな、もうとっくに私のヒーローだよ」
秋田が、その春空色の瞳を輝かせて手入れ部屋を飛び出す。
「蜂須賀、戦況はどう」
「大丈夫。敵は一体を除いて長篠に出現する溯行軍と変わりない強さだ。刀装もみんな付けてる。一体、酷く強い太刀がいるけど、それは三日月宗近が押さえてる。貴方の言ったとおり、大包平と鶯丸が助太刀に向かってる」
報告を終えたところで、愛染国俊が飛び込んでくる。手には青い狩衣の武具。
「三日月さんが来るぜ! 中傷! 三日月さん、寝間着であの太刀とやり合ってたんだ」
「わ、分かった!」
「愛染、君に怪我は?」
「大丈夫、まだ刀装も残ってる。祭りなんだ、じっとしてらんねえよ!」
愛染はぱっと笑うと蜂須賀に武具を渡して再び戦場へ戻る。
愛染が軽々と塀を跳び越えて戦場となっている大手門前へ消えていくのと入れ違いに、報告通り寝間着姿のまま、肩から血を流す三日月が狼狽えた様子で姿を現す。
「三日月、こちらへ」
蜂須賀が手招いてようやく彼の足が動く。彼の戸惑いの理由は主の事だろう。
わざと無視をして三日月の手を引いて手入れ部屋に運び込む。
「愛染が武具を。主、手入れを直ぐに」
「うん」
ごくり、と主が息を呑む声。それでも直ぐに彼女は三日月の手入れを始める。
「……すまぬ」
「謝らないでください。私が悪いんです」
刀身の手入れと平行して三日月はほれぼれするような素早さで狩衣に似た戦装束に着替えていく。その背に、大きく息を吸った主が声を掛ける。
「私の両親は、ある晩歴史修正主義者の親戚によって殺害されました。生き残ったのは私だけです。真っ赤に染まったあの部屋を私は生涯忘れません。……だから、私は血の穢れが怖い。……幾重にも死の影が離れない貴方が怖かった。死の匂いが、あなたはお墓の匂いがする。──でも、もう怖くない」
静謐な三日月の視線が、静かに主に注がれている。俯いていた主は、ゆっくりと顔を上げて三日月を見つめる。
「私の後見となった叔父夫婦は、私を跡取りとして、厳しく修行をつけました。そんな中で一人だけ、よくしてくれた人が居た。私を置いて出て行ってしまったけど」
「それは……」
「……結局、叔父が両親を殺して術を盗み、神器を盗んだ人だった。私はその責任を負って審神者になった。その人が、伯父さんたちを告発したのだと聞いた」
三日月の表情が、初めて崩れた。苦しげに、悲しそうに口元を引き結ぶ。
「気づいてしまったのか……」
「叔父さんたちがいなかったら、私はあの社で大巫女として勤めていられたのかも。両親も、今も生きていたかも。ずっとひとりぼっちじゃなかったのかも。罪を負って戦をするのは、つらかった」
「……っ、主は……」
三日月の口が、何かを言おうとして失敗して崩れていく。これほど、小さな肩だっただろうか。勝手に恐れて、怖がっていた刀は、ただ不器用にこの本丸と自分を守ろうとしていた。
「でも責を、あの人も負っていたんだと今知った」
その守り方は、彼に似ているのだと分かる。
「三日月宗近。“青山”は、どんな人だった? 私ね、兄さんが十五才で家を出てから、すぐに叔父夫妻は捕まって、私も……、あのね、私、……もう一度会って、お礼を、言いたかった。。私、一人ぼっちじゃなかったんだって、やっと分かった」
主の言葉に、三日月は信じられぬものを見たときのように目を丸くする。
「主、司令は……」
狼狽えている三日月の手をしっかりと捕らえ、主はまっすぐに三日月を見上げた。
「兄さんががいなかったら、私は人柱になってたと思う。兄さんが審神者になってたって聞いて、なんで私が生かされたのか分かった。私の責を兄さんが半分以上持っててくれたんだね」
三日月の目に涙が浮かぶ。その月に写る自分もまた泣いていた。
「あなたは兄さんの──兄さんの本丸のお墓なのね」
彼は静かに頷く。深く静かで、死の匂いのする──優しい刀。ずっときっと守ろうとしてくれていたのだろう。
「……兄さんが、石見の英雄だというなら、私もそうなりたい。怖くても、恐ろしくても、兄さんに顔向けできないことをしてしまう方が恐ろしい」
主の瞳が、きらきらと炎を湛えて輝いていた。
「あの刀であって刀でなくなってしまっているものは兄さんの刀だよね」
「主……」
「私たちに出来ることはある?」
三日月の手が意志を持って主の手を握り返す。
「……あれは、俺の友だった。……せめて、刀として送り返してやりたい。助けてくれるか」
「ええ。あなたの主”霽月”の名にかけて」
ああ、と蜂須賀は胸元を押さえて目を伏せる。この刀と本丸はもう大丈夫だ。
それが何より、蜂須賀の胸を熱くさせた。