五章 歩き出して - 10/12

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 キャプテン! と叫ぶ声にローがはっと振り返る。そそり立つ岩壁から転がり落ちるように花畑に飛び出してきたのは何者かを抱えたシャチだった。自分を見つけたらしくこちらに駆け寄ってきている。
 隣に立つスモーカーが、ため息をつく。
「潜り込ませるのが早すぎる」
「そりゃコラさんに言え」
「誰だそりゃ」
 肩をすくめるスモーカーは十手を肩に担ぎながら幾人かの海兵の後ろにぬっと立って睨みをきかせていた。海兵たちとローのクルーたちは互いに競い合うように五番島の護衛や奴隷たちを倒していく。
 今、この場で彼らは〝協力者〟であった。

 地上の工場へ飛び出した時のあの一瞬の停電が何かしらの合図だと知ったのは工場の幹部および研究員の捕縛に号令を掛けていたことで分かった。
 十手であっさりと幹部を捕縛した白猟のスモーカーは、シャンブルズで飛び出してきたローとペンギンを見て目を丸く見開き、その口の葉巻を落とさないのが不思議なほどの顔をしていた。もう少しローに余裕があれば少しばかり揶揄ってやれただろう。しかし、そのときのローは号泣の名残を消す為に能力を使うのに手間取っており、そんな余裕は無かった。
 海兵たちが驚きすぎた一拍ほどの間を置いてぎゃああ! と声を揃えて驚愕の声を上げる。
 トラファルガー! と悲鳴を上げるもの、久しぶりだなァ! 何しに来やがった、元気か!? と混乱しているものと様々な声が廊下にうわんと響く。
「うるせェ騒ぐな!」
 驚きを瞬く間に乗り越えたスモーカーが部下を一喝する。その間にも手元だけが動いて足蹴にしている白衣の男を器用に縄で縛り上げている。そのままローに突き出された十手はペンギンが武装色の覇気を纏った手刀で弾く。
 自分に当たりそうならペンギンが止めるだろうし、スモーカーも自分たちに攻撃の意思がないことを見抜いて牽制に留まっていることをローは理解していた。
 ローは海軍本部中将の攻撃に毛の一筋も動かさずに、握った手を突き出した。スモーカーが流石に困惑した顔で口の端から煙を吐き出す。
「何の真似だ」
 拳に握りしめているのは記憶よりも小さく感じる鍵の掛かった筒。それを、ローは手のひらを開いてその生真面目な将校に突き出した。
「落ち着けよ、白猟屋。おれたちは〝協力者〟らしいぜ」
 海兵なら誰でも分かると言ったのは嘘では無かったのだろう。
 周りに居た海兵たちがぎょっと目を見開いた。
 眉間に一層深い渓谷を刻んだ男がローと文書を交互に睨み付けて、ローに説明を求める。
「預かり物だ。アンタに……〝葉巻を銜えた厳ついおっさん〟に渡せと言われてな」
 にやりと口角をつりあげてやれば、スモーカーの片目が眇められて苛立った様子で吐き捨てる。
「お前が海兵の指示に従うタマか」
「M.C01746 海軍本部ロシナンテ中佐からだと言ってもか?」
 ローの言葉に、ざわっと海兵立ちが騒ぐ。それ以上にスモーカーの顔が険しくなりペンギンがじりっと腰を落とした。
「ロシナンテ?」
「ロシやん留守番じゃねェの?」
「ロシやん雑用だろ?」
 ざわめく背後を無視して、スモーカーはフゥと再び煙を吐く。
「……死んだ人間のM.Cを、あの人が伝える訳がねェだろう。ロシナンテ中佐は死んでる。あいつは再任用の別人だ。さすがにそんなドジは踏まねェだろうし、三十億の海賊を協力者にするような人じゃねェ」
 思わず漏れたローの鋭い舌打ちにスモーカーがまた深いため息を吐く。
「何を企んでる?」
 文書を乗せたロー手のひらが再び閉じられようとして、悔しげに指先が震える。
 スモーカーは親しい者がわずかにわかるほどに困った顔で十手の切っ先を下げた。
「だが、他に理由があるなら……」
 スモーカーが言いかけた言葉は、差し込まれた二人の声に途切れる。
「そう言ってやるな、スモーカー」
「そうですよ! その人は色々あってこの島に偶然来ていただけです!」
 廊下の向こうからおかきをかじりながら悠然と現れた将校と彼に合流しながら慌てて駆け寄ってきた女海兵をスモーカーは睨み付ける。
「センゴク大目付」
「……センゴク」
「久しぶりだな、トラファルガー・ロー。積もる話は──出来なかったみたいだな。心配するな、後で時間をとろう」
 ローの一睨みなどどこ吹く風で、受け流すと、センゴクはゆっくりと目の前にあるものを読み上げるようにスモーカーに語りかける。
「海軍総則第三十五条その六 海軍規定の情報文書はそれを所持するものが何者であれ、およそ全ての海兵はそのものを保護し、文書を真性として扱うものとする──そうだろう?」
 まなじりは柔らかに見えるが、眼光は鋭くスモーカーに向いていた。
「……ただし、海賊による罠と考えられる場合はそのかぎりではない──でしょうが」
「スモーカーさん」
 かたくなに警戒するスモーカーに、たしぎは声を上げた。
「そもそも合図の後にはロシナンテさんが合流の予定、予定が既に変更されてます。文書を持っているならその人は協力者じゃないですか」
「……死人のM.Cを知っていてもか。あの人はそんなつまらねェドジを踏むやつじゃねェと思うが」
「その意見には同意だが……私はロシナンテの観察眼を信用している。スモーカー中将。それに、トラファルガーのことなら私より中将の方が知ってるんじゃないか?」
 センゴクの言葉に、G-5の海兵たちも頷く。
「スモやん」
「スモやん!」
「……よく知ってるよ」
 スモーカーはがつんと床に十手を降ろし、ローに向き直った。その知っている、がローのことなのかロシナンテの観察眼のことなのかはローには分からなかった。
 ローに突き出されたままの情報文書を大きな手が掴み上げ、そのままぱきりと開かれた。
「ああ。間違いない。アルカニロ摘発の証拠だ」
 スモーカーの言葉に、たしぎとG-5の海兵たちが気勢を上げた。
 情報は確かに〝正しい〟相手に渡った。厳つく、生真面目な海兵の元へと。
──今度こそ間に合った。
 その安堵と泣き出したくなるほどの感情はおそらくこの場ではペンギンにしか伝わっていないだろう。
 スモーカーはぼんやりとその筒の行方を追うローの前で額に手を当てた。
「協力感謝する」
「……白猟屋、敬礼似合わねェな」
「うるせェ」
「よかったですね、キャプテン!」
「ペンギンは黙ってろ。──ROOM」
 指をかざしてローは島一つを殆ど覆いかねないほどの空間を作り出してから、ああ、と呟く。
「……〝天竜人が絡んでるから早めに公表した方が良い〟とコラさんが言っていた」
 海兵たちの驚きの声が聞こえる前に、ローはシャンブルズでペンギンもろとも姿を消す。
 そのときに逃げ隠れしている白衣の男たちを大まかにバラし、まとめて送りつけてやったのはおそらく、ローが酷く機嫌が良かったからだ。

 幾度かROOMを張り直して三番島に停泊する母艦へ戻り、一気呵成に仲間達の毒素を抜き取る。
 成分表を確認した甲斐もあって殆ど後遺症も残らないだろう。
 そしてローはそのまま一番島から屋敷で海兵たちと大暴れしていたベポと──なぜか大変意気投合したらしいローと入れ替わった海兵──をポーラータング号に放り込んで声を上げた。
「野郎ども!」
 おお! とポーラータングが震えるほどの声を上げるクルーたちの目には怒りが燃えている。
 ここまで仲間共々コケにされてただで済むと思うなと憤るクルーたちをローは鼓舞する。
「緊急潜行! 全速力で五番島へ向かう! 海流も突風も海の下なら関係ねェ──潜水艦の意地を見せろ! この島をぶっ潰すぞ!」
 もちろん、今度帰ってきたのは二〇人勢揃いの威勢の良い「アイアイ!」の声だった。
 ポーラータング号はスクリューで海を切り開いて五つ目の島に向かった。
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 ロシナンテは地面を蹴り上げて並みの人間の動体視力では追い切れぬ速度で男の後ろに回った。
 アルカニロはロシナンテの胸ほどに頭がある。
 その男の膝の裏に照準を合わせて引き金を引く。男の片足を吹き飛ばすはずの銃弾は、石畳をえぐった。
 男は初老とも思えない踊るようなステップで銃弾を避け、美しいターンを決めてロシナンテに向き直る。
 手にはいつの間にか鋭いナイフが一丁握られている。大きく踏み込んだナイフの一突き。
 ロシナンテが切っ先を半歩で避け、制服が裂ける。どろりとナイフの色が変わる。
──たっぷりとナイフの溝には麻薬の原液が染みこんでいるらしい。
 風を切りながら的確にロシナンテを殺そうと突き出される斬撃。
 ロシナンテは愛銃のグリップで幾度も弾く。
 その攻防に音はない。
 薄暗い洞窟に幾度も火花が散った。
 アルカニロは防戦一方のロシナンテに口角を上げる。
「ハーシシシ、他愛もない」
 冷たく目を尖らせたロシナンテは音の無い舌打ちをして、腰を捻った。
 鋭く息を吐いて長い足を鞭のようにしならせて蹴り上げる。
 アルカニロはそれを軽く避けて、にやりと笑った。
 しーん、と何も音はしない。
 だが、音もしないまま落石がアルカニロの無防備な脳天を襲った。人の頭ほどもある落石にアルカニロが素っ頓狂な悲鳴を上げる。
「あがッ!?」
 嵐脚──不可視のかまいたちはアルカニロの避けた先の洞窟の天井を崩していた。
 ロシナンテの影響で起こる全ての音は能力でもって失われる。アルカニロは頭上の危険に気付いていなかった。
 ロシナンテはフーッと再び息を吐いて、アルカニロの腹を思いっきり蹴り飛ばす。
 おろおろとしていた薬漬けの男たちの幾人かがが彼を受け止める。
 もう幾人かがロシナンテに銃口を向けてやたらめったらに引き金を引いた。
 慌てて武装色の覇気を纏うが、的としては大きなロシナンテの皮膚を裂いた。致命傷には至らない。
〝剃〟で石舞台の岩陰に身を隠し、岩を影にしながら彼らに無音の銃弾を浴びせかける。
 銃はあっというまに彼らの手を離れ、ロシナンテはそれを見計らってひょいと彼らを洞窟から続け様に投げ落とす。いつか子どもを投げ落とすときよりは良心は痛まない。
 一人残ったアルカニロがふらふらとなりながら身を起こそうとしている。
「きさま……っ!」
 ロシナンテは能力を解除して、最後に残ったアルカニロに銃口を向けたまま肩をつかみ、石舞台に叩き付ける。額に銃口を突きつけた。
 西日が真横から入り、二人を赤く照らした。
「貴様……! クソ、貴様さえいなければ、貴様らさえ居なければ……」
「薬師アルカニロ──、もうおしまいだ。この島の花はもう二度と花を付けることは無い」
 ロシナンテの諭すような言葉に、男はすさまじい憎しみの表情を浮かべてロシナンテを睨み付けた。
「……この花は!」
「お前を愛した娘が愛した花だろう? 知ってるよ、エルネストに聞いた。ある日、ある海賊に敗れたお前は四番島に流れ着き、ある娘に助けられた──」

 もう何十年も前の話だ。
 貧しい島で、娘に献身的な看病を受けた男は、次第にその娘に心を開いた。
 そうして海賊をやめてこの島に根を下ろそうとした。気難しい漁師の義父と優しい妻──だが、幸福な時間はあっという間に過ぎた。
 アルカニロはもうとうに海賊をやめたつもりだったが、それを知るものはいなかった。因果応報──義父と妻──彼にとって初めて得た家族──は奪い去られ、売り飛ばされ、運良く帰ってきた時には永遠の苦しみを背負っていた。
 特に娘の苦しみはひどく、鬱々と塞ぎ込む日が増えた。その苦しみを紛らわすために男は禁断の花に手を付けてしまった。幸せの花。
 何百年もただの美しい花だったそれが、薬になると男は知っていたからだ。
 娘の笑顔に男は喜んでより効果の高い花の薬効を探し続けた。花粉から蜜、蜜からさらに蒸留して──。
 けれどその甲斐も無く彼女はまどろみの果てに命を落とした。
──花の麻薬でうとうとと幸せの中で彼女は去っていった。
 彼に残ったのは麻薬の生成方法とそれに伴う地位、そして世界への憎しみだけだった。
 それをロシナンテに語ったのはエルネスト翁その人だ。そして彼の娘だ。
「貴様らに何が分かる? なァ、
「……わかんねェよ」
 押さえつけられた片手に握ったナイフがロシナンテの脚に突き刺さる。刺さったナイフに一瞬顔をしかめたが、銃口は髪の毛一筋もぶれなかった。
「ガキのときからずっと、なーんも分からねェ。おれの呪われた血筋を知ってからも、兄貴の悪行を知ってからも……正義を背負うと決めてからも──。ああ、でもあいつを救うと決めて時からは少しマシだったかもしれねェが……」
 憎悪に顔を歪ませたアルカニロが突き立てたナイフが嫌な音を立てて捻られる。肉をえぐられる傷みにぐ、と呻きながらもロシナンテは眉を下げた。
「サンドラ姉さんとエルネスト爺さんをあのときのはおれだから。──せめてけりをつけるのはおれでありたかった」
 アルカニロの目が大きく見開かれる。
「は……」
「もう40年近く昔だ。おれがまだにいた時、他の世界貴族からおれが買い取った。父上に無理を言って。おれたちが聖地を離れる時二人を故郷に帰したのも、父上だった」
 ロシナンテの情報文書に記され、ロシナンテが記憶していた情報の半分はすでに使い物にならなかった。
 その中で、この任務を選んだのはセンゴクではなくロシナンテだった。
「おれが正しさを証明しなきゃならねェ情報は一つ──あとはおれの手を離れる。だからここを選んだ」
「忌々しい……!」
「……エルネスト爺さんと、サンドラ姉さんは本当にガキのおれに良くしてくれたよ。でっかくなったおれのこともすぐ分かってくれた……」
 直接会うことはできなかったが、二人はロシナンテを見てすぐに電伝虫での接触を試みてくれた。
 天竜人への恐怖と憎悪を抱えながら、ロシナンテには助けられたから、と。
 はじめは酒と麻薬の危険性の忠告。ロシナンテが身分を明かしてからは、彼らの取引方法や、シナジー効果や、栽培場所や、鍵の話を密かにやりとりしていた。
 いつかこの島を潰してくれと頼まれた。悪用されてしまった花を滅ぼしてくれ、そして。
「──アンタを、大事なアンタを止めてくれって。息子の故郷を麻薬の島にしないでくれって」
 ロシナンテの言葉にアルカニロの目がぎょっと見開き、ナイフがからんと石舞台に落ちた。
「サンドラ……」
 くるりとトリガーガードを回してグリップで男の頭を強打する。目を回した男をロシナンテは洞窟の外に放り出す。
「……よし」
 軽く脚を止血してロシナンテは立ち上がった。
 ぐらっと失血だけでは無いひどい目眩がしてすとんとひっくり返る。目眩は刺されたナイフに付いていた薬液だけの理由では無い。
「ドジッた……」
 洞窟の壁に手を突いて立ち上がる。思わず押さえた口元にべったりと血が付いていた。
「ッ、げほ、げほ…──はァ」
 脚を引きずり、ロシナンテは階段を地下にゆっくりと降りていく。
「あァ……クソッ……、キッツ……、くそォ……! ガープ中将の稽古よりキチィかも……ハハ」
 誰にも聞かせられない弱音をここぞとばかりに吐きながらずるずると下る。誰も聴いてないジョークが虚しく階段を転がり落ちた。