五章 歩き出して - 8/12

32
 今、地下通路を駆けるローは鼻を啜り、海賊から奪ったラフなシャツの袖口で何回も目元を殴っている。
鼻をすする音が今は誰にも遮られずに響いている。
 地下に案内してからずっと、ローはひどく動揺していた。
 そして、コラソンの差し出した文書を手にしたとき。ローが遂に涙を落としたのをペンギンもシャチも二人とも確かに見ていた。
 二人で目を見合わせて驚いたが、口にはしなかった。
 我らのキャプテンが──〝死の外科医〟トラファルガー・ローが、そして自分たちの親分であり家族であるこの傲岸不遜で優しい気丈な男が、涙を零すところなど自分たちは数えるほどしか見たことが無い。
 ぼろぼろと泣きながら、そのくせ彼にその様子を知られたくない様子で気丈に振る舞っていた。
 シャンブルズでさっさと姿を消したのもおそらくこの顔を見せたくなかったからだろう。
 だからシャチとペンギンは何も言わず、彼のいう通りにした。きっとシャチもペンギンと同じくもう気付いているだろう。名前は知らない、けれど幾度か口に上ったことのある存在。
「キャプテン」
 地上にシャンブラズして走り出したローにペンギンは意を決して声を掛けた。
「あの人が、アンタの恩人だったんだな」
「……」
 ローは鼻を盛大にすすりながら、確かに頷いた。
 拭っても拭ってもこぼれ出す涙に、ペンギンは少し呆れる。脱水になってしまいそうだ。
 この様子でよくもまァ、彼の前では平然とした振りをしていたものだ。
「……死んだと、思ってたんだ……とっくに、あの島で死んだと、この十三年間……ッ! くそ、かっこ悪ィ」
「あんたはいつでもおれたちのかっこいいキャプテンだよ」
「当たり前だ!」
 ローはずっ、と鼻をすすり上げて乱暴に涙を拭う。
 再び顔を上げたとき傷ついた少年の面影は消え、大海賊の燃える顔が洗われた。
「もうおれは死にかけのガキじゃねェ」
 バチンと廊下の明かりが落ちたのはその瞬間だった。二人で立ち止まる。窓の無い工場の廊下は真っ暗に染まる。思わず臨戦態勢を取るペンギンに対してローは小さく舌打ちするだけで済ませる。
「……地下の発電所を破壊されたな」
「だ、誰に?」
「コラさんだろう。あの人コートの下に爆弾を隠し持ってた」
「マジで!?」
「スキャンしたときに見えた」
 流石に爆弾までは気が付かなかった。ペンギンが驚いていると、ぱちぱちと音が聞こえたかと思うと非常灯がわずかに灯りを取り戻す。
「かかれェ!!」
 低く轟くさびのある声。その声にローはニヤリと口角を上げた。
「居た……!」
 タトゥーの入ったローの手のひらが天を向く。次の瞬間にはぎょっとした顔の海軍中将が白衣の男を捕らえているその目の前に現れた。