33
四番島から五番島に向かう航路は四番島への航路に輪を掛けてめまぐるしい。本当に帆船の経験が無かったらしいシャチは数度ヤードに打たれたり帆にぶつかって海に投げ出される羽目になった。
ロシナンテも最初は慌てたが、本人の申告通り大概魚人でも驚くほどの泳力で小舟に戻ってくるのでエルネスト翁もロシナンテも三度目からは彼に任せることを覚えた。
むしろ彼に海に居てもらって舵を任せることが出来る分ロシナンテの負担は軽くなったほどだ。
「シャチ、そっちからアウトリガー押さえてくれ! ひっくり返る!」
「アイアイ!」
「ここらは魚も溺れる海なんじゃがなァ!」
「極寒港育ち舐めてくれちゃ困るぜ爺さん! でも一人じゃ無理!」
ロシナンテのケツを叩いて指示を飛ばす老翁があきれかえる。唐突なベタ凪の時に海の中の彼が船を引いて進めたときは流石の老翁もケラケラと笑っていた。
シャチの尽力もあって日差しがわずかに赤らむ頃に漸く五番島にたどり着く。
「無事着いたァ! 島の気候海域で外海みたいなことあるかよ!」
シャチがべしゃりと砂利浜に身を投げる。
ロシナンテも波しぶきでぬれた髪をかき上げて島を見上げた。
他の島と同じように山脈のてっぺんが海面に突き出したような島である。
違うことと言えば他の島よりも小さく、険しいことだろうか。人の住める島ではない。
けれど神秘的な山脈の頂上を切り取ったような美しい島だ。
西日で桃色に染まる白っぽい岩肌の中に、ぽつりぽつりと絵の具を散らしたように赤や青の鮮やかな色彩が見える。岩肌に群れて咲く花々だろう。
一幅の絵画のような美しい島だった。
「再びこの島に足を踏み入れる日が来るとは……この島は祭りの島。昔は毎年、この島で花祭りをしたもんじゃ」
「へェ、もうここから見てもきれいだもんな」
つなぎを着直したシャチが感嘆する。
「──もう何十年も前の話じゃ」
背後の話しを聞きつつ、ロシナンテは大事に首に提げていた手のひら一杯に埋まる鍵のような形をしたペンダントを確かめる。これが文字通りのこの島とこの計画の〝鍵〟だ。
ロシナンテは制服の裾を整え、やれたメイクをすっかり削ぎ落とした後で、懐かしそうなまなざしで島を見上げる老翁を振り返る。
「……よし、今のところ計画は順調だ。爺さん、良いんだな?」
「わかっとる。最初からそうすべきだったものじゃ」
「〝?〟の協力に感謝する」
ロシナンテは踵を合わせて、長く待たせた協力者へ敬礼した。老翁は肩をすくめて頷いた。
「海軍に協力したつもりはないが、受け取ろう」
「シャチ、ここからはおれと爺さんで行こうと思うんだけど……」
「それは困るな。着いてくよ」
「だよなァ……」
シャチが首を振ることを、ロシナンテはなんとなく理解していた。
彼の命令は〝キャプテン〟に下されたもので、ロシナンテの指示に従えというものではない。彼がロシナンテの思うとおりの人物であればもしかすれば、自分への監視も指示に含めているのかも知れないとも思う。
これがただの海賊なら伸していくところだが、残念ながら彼はおそらく三〇億の賞金首の海賊団のクルーであり、最初に思ったとおりただの雑用であるロシナンテが腕っ節で敵う相手ではない。
ロシナンテのため息にシャチの口角が上がる。
「邪魔にはならないぜ」
「そりゃ頼もしいけどさ」
ロシナンテは肩をすくめた。
「爺さん、いいか?」
「増えても困るもんじゃないわ。わしを背負う人手が増えてよかったじゃろ」
「それもそうだな」
シャチの背中に老翁を乗せ、ロシナンテはよし!と気合いを入れる。
老翁の指示の通りに積み上がった石の山にしか見えない場所を蹴り破る。
バキンと乾いた木の板が割れる音と共にがらがらと音を立てて岩が崩れていく。
現れたのはぽっかりと口を開く古い洞窟だ。
ロシナンテが蹴り破ったのは古い木の扉だった。入り口らしい隠された石組みには花の模様の彫刻があり、古くから人の手が入っていることが分かる。かつては祭りのための通路だったのだろう。
ひんやりと冷えきった風がロシナンテの髪を揺らした。
ライターを擦って入り口のすぐ奥の壁に掛かっている松明に火を付ければ、連動して奥の奥の松明にまでいちどきに灯がともる。
暗闇が照らされたそこには、遙かに続く階段が上に登っていた。
ロシナンテはすこしばかりげんなりとしながらその階段に足をかける。
ひたすらに登ってついに辿り着いた階段の果てに見えた光景にシャチの背に負われた老翁がひゅっと息を呑む。
外から見てもわからない山の真ん中が凹んだ形のカルデラが眼下に広がる。真ん中にはこじんまりとした湖がある。内部の聳り立つ山崖は白く、傾いた西陽を浴びて燃えているようだった。
──ああ、美しい。
ロシナンテもまた眼下に広がる光景に目を見張る。
白い山肌に囲まれたカルデラに咲き誇るのはまるで雪国に降り積もる純白の雪のような花弁。カルデラ一面に咲くその花はまるで楽園のようだ。
それは人を惑わす麻薬の原材料だということを忘れてしまいそうなほど夢のような光景であった。
「昔はここで一晩中踊り明かしたもんじゃ。たのしかったぞォ」
と美しいカルデラを見下ろしながら懐かしく目を細める老翁にロシナンテは苦笑する。楽しくなる、という言葉にシャチがサングラスの下で目を眇めて背負う老翁を振り仰ぐ。
「それってさァ」
「言うてくれるな。知らんかったし、蜜は触れんしきたりじゃった」
「花粉は軽くトランスするくらいなんだろ」
話しながらも切り立った岩肌を削って作られた崖道を慎重に降りていく。
四番島に近い方には山を越える本来の道があるらしい。こちらは不便で廃れた昔の道だという。いまやこちらは老翁しかしらない隠し通路だ。
この道があるからこそ、ロシナンテたちがここまで忍び込めたのである。
「石舞台はあっちじゃ」
老翁が指さす先をみて、ロシナンテは眉を顰めた。
崖肌の中腹あたりに人工的な石舞台とその奥の洞窟が見える。
しかしその近くには幾人かの苦役を強いられている人影と、その護衛らしい気配がある。
無残に刈り取られた花の詰まった籠を背負いながら山を越えていく奴隷と、それを使役してこの花畑を守る護衛だろう。
この美しい花畑は自然に作られたものではなく、管理されているものだという証にロシナンテはカメコでそれらの証拠を押さえてホッと息をついた。
これでほとんど必要なものは揃えられた。
無事に岩肌の隘路を降りきって、シャチはやれやれと老翁を地面に降ろす。
最後の一歩でドジってひっくり返ったロシナンテは、そのまま鼻先で揺れる花を見上げた。雪のように白い花弁、花芯は金色でむせかえるような甘い匂いが香る。すこしくらりとして慌てて土汚れを払って立ち上がる。
「聖なるメリィダの花……か」
その花の名前を呟くとエルネスト翁は首を振った。
「かつてそう呼ばれたが、今となってはどうしようもないもんじゃ」
「メリーダウィードは偉大なる航路の栽培禁止植物というか、所持禁止というか、この島くらいでしかもう生えてねェなァ。デカい島の植物園ならいざしらず」
痛んだらしい腰を伸ばしていたシャチがロシナンテと老翁の会話を聞いてがばりと身を起こす。メリーダウィードには聞き覚えがあったのだろう。
「嘘! メリーダウィードかこれ! すげェ……三百年前には絶滅したはずだろ!」
「よく知ってるなァ」
「そりゃまァ、船長がお医者さんだからね」
「でも外科医じゃねェの?」
「船医って結局究極の総合医だってさ。この間薬学の天才医師と情報交換してたからそっちにも興味伸ばしてるみてェ。昔は麻酔で使われてたって聞いたけど」
「えらいなァ」
しみじみと呟いて煙草を吸いこむ。なんだか楽しそうでロシナンテも嬉しかった。
一服終えて立ち上がる。
「さァ爺さん、仕上げだが」
見下ろしたエルネスト翁は覚悟を決めた顔で頷いた。
ロシナンテは最後の一吸いを肺に納めて、ちらりとシャチを見やる。
「ここからは流石に部外者を連れてはいけねェんだが……」
「安心してくれよ、邪魔にはならねェ」
「……言うこと聞く気そもそもねェな」
「うん」
「海賊め……」
胸を張る海賊にロシナンテは頭を?いた。船長以外の命令は聞かないし、それ以外は自分の信条に従うのが海賊だ。そういう習性だと分かっていても、ロシナンテは根っからの海兵なので深いため息がでる。
「……怪我するなよ」
「アイアーイ」
「爺さん、負ぶってもらってくれ。このまま壁をぐるっと回って沿ってバレないようにあっちに向かうぞ」
ロシナンテの号令で三人で人目と花を避けながら壁沿いに向かう。
「この島の護衛はそれなりに腕が立つ。仲間を売って薬に溺れた元船長とか、十億超えの怪物も居るらしいから気をつけろ〝マナーマン〟ハリーとか〝乱暴者〟のテキーラとか……」
ロシナンテの挙げた名前にシャチはげぇと口を曲げる。昔はそこそこ名の通った海賊だ。
「四番島のやつらが居ないだけマシじゃろ」
「あっちは合図でスモーカーたちが捕縛してくれてるはずだ」
ひそひそと囁きながらも足は休めずに進む。
岩を掘って作られた階段をそっと上がれば、大きな一枚石で作られた舞台に上がる。舞台を通り抜けて奥に進む。
老翁が石畳をずらすと、そこにはちょっとぞっとするほどほとんど垂直の階段が地下に続いていた。まるでこのまま地獄にでも続いていそうなほど深い穴だ。
この下が目的地だ。
ロシナンテはごくりと息をのんだ。
「ロシナンテ、鍵を」
エルネスト翁がロシナンテを睨み付けるようにして手を出す。
ロシナンテは自分の半分にも満たない老翁を見下ろして、口をひんまげた。
「そのことなんだがな──」
ロシナンテが言いかけた言葉が不自然に止まる。
エルネスト翁が目を見開き、シャチが爺さん!と声を上げる。
洞窟の入り口から銃声が洞窟に響き、血が舞台に飛び散った。
咄嗟に岩陰に隠れたロシナンテが入り口を見ればピストルを握った男がいた。
「アル……」
老翁がシャチの腕の中で男の名を呟く。
男──島親アルカニロは荒い息を整えて銃を構え直す。整えられていた髪はぼさぼさで、もう既にかなり傷を負っていた。
「──アンタは何も分かっちゃいない、義父さん」
そう吐き捨てて撃鉄を上げる。
岩陰から出て彼を牽制するロシナンテに、アルカニロは失笑した。
「死人大集合か? なァコラソン。おれはお前は死んだとジョーカーに聞かされていたんだがね」
「あいにくだが、おれは地獄でも嫌われ者だったようでな」
「だろうな、お前達を好きな人間がいるものか」
含みのある言葉にロシナンテがぎくりと身をすくませた。
少しぶれた銃口に、アルカニロが指を鳴らす。アルカニロの背後に追いついたらしい武器を持った男達がずらりと並ぶ。目つきは異常にギラギラとしており、だらだらと汗を流して赤い鬼のような顔をしていた。ただの奴隷では無いのだろう。
「くそったれ。お前たちの所為で工場はもうダメだ。だが、この花さえあればまだやりなおせる。お前たちを始末してからだが……」
「そうはいくか。おれはまだ死ぬわけにゃいかねェ心残りがある」
洞窟の外でうわんと鬨の声がする。海兵たちがアルカニロや逃げ出したものたちを追って雪崩れ込んできたのだろう。
外では戦いが始まっている音がする。
「シャチ、爺さんをつれて外に。ここは危ねェ。スモーカーに合流してくれ。たぶんお前の〝キャプテン〟も来てるだろ? 治療してやってくれ」
「何!? おい、まて話が違うじゃろうが!」
「でもアンタはどうする!」
「作戦は順調だってスモーカーに言ってくれ。文書を渡してるから大丈夫だと思うが、引き際を見誤るなとも」
老翁がぎょっと傷口を押さえながらシャチの腕の中で暴れる。失血でぐらりと老翁の意識が遠ざかっていくのを見て、ロシナンテはにやりと笑った。伸ばされた老翁の手がだらりと下がる。
「元々、このつもりだったんだよ爺さん。おれが鍵を開く」
「あんた、何をする気だ?」
「……言っただろ? この島をぶっ壊すってよ」
ウインクをしてみせれば、シャチはサングラスの下の眉間に皺を寄せる。
「じいさん置いたらすぐ戻る」
「ありがとな」
ロシナンテは煙草に火を付けて口に挟んだ。
アルカニロの脳天をめがけて牽制に引き金を引く。
「行けっ!」
ロシナンテの合図にシャチが気を失った老人を連れて駆け抜ける。阻むように動く数人を、人を背負っているとは思えぬ勢いで蹴り倒して昏倒させた。
ち、と舌打ちをしたアルカニロはロシナンテに向き直る。
「──ここで死ね」
「断る」
ロシナンテは己に触れて〝凪〟と呟いた。