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「キャプテン、こっち!」
シャチの声がロシナンテの耳に届く。とたんに岩陰に身を投げ出して眠っていた意識が戻りロシナンテは瞬きをした。
ロシナンテが岩陰から手を覗かせて合図すると二人が駆け寄ってくる気配がした。二人ともう一人、こちらはロシナンテの知らぬ青年の気配だ。二人の肩の力が随分抜けているので、きっと彼がキャプテンなのだろう。
「わ、怪我増えてるじゃねェか!」
「いやァ……ドジったんだ。巡回に何人か来ちまってよ……。体力回復に寝てた」
ロシナンテは猿ぐつわをかけて放置してある海賊達を指さして笑う。ナギナギの能力柄暗闇でのサイレントキリングの訓練は積んである。多少の怪我はしたが、一番深い傷は先ほどの指銃のものだろう。──それもやはり、あの雪の島ほどの傷ではない。慌てている様子のペンギンとシャチに手を振って、もう一人の気配に顔を上げる。
「……あんたが、シャチたちのキャプテンか…? よかった、会えたんだな……」
ロシナンテは相変わらずまぶしく輪郭くらいしか捕らえられない視界で二人に引っ張られて現れた男を見上げた。
身長は二メートルあるくらいだろうか、良く鍛えられた体躯の男だ。男はロシナンテを見てもぴくりともせず、一定の距離をもって立ち止まっている。
両脇からペンギンとシャチがロシナンテの肩を叩いて、そのキャプテンに声をかけた。
「アンタのおかげだよ」
「キャプテン、この人、おれたちを二回も助けてくれたんだ」
ペンギンとシャチが左右から必死な声を上げてくれる。うわんと響くほどの声に、ロシナンテは苦笑した。なんだか懐かしい気がする。あの時も、不安げに揺れる子どもを宥めたものだ。
「おれは大丈夫だ……これくらい慣れたもんだから。心配するな」
脚に力を入れて、ロシナンテは背中の岩を頼りに身を起こして座る。瞬いても視力が戻らないのは、先ほどかぶった薬液の影響だろう。一時的なものであることを祈りなが息を整える。
ふと先ほどから微動だにしない男に向かってシャチが不思議そうに声を掛けた。
「キャプテン……?」
「……あ、あ」
シャチに応じた、聞き覚えの無い掠れた低い男の声がした。
ロシナンテは男の頭のある位置を見上げる。
急に現れた見知らぬ男が死にかけているのだ。狼狽しているのも無理は無い。ロシナンテには届かないが、長身のシルエットが見えた。
「この人は医者なんだ。今は薬と酒の影響で能力が使えてない。アンプルをこの人に使えば薬を取り除ける」
シャチに頷いて、戦闘中でも絶対に割れないようにしておいたアンプルを手渡す。ついでにその解毒剤の処方箋だろう紙を渡す。
「ああ。しかし、そんな魔法みたいな能力があるのか……」
「これは……魔法じゃねェよ。知識がなけりゃ薬物を選別して抜き取るどころか、スキャンしたってどこが悪いかも分かりゃしねェ。縫合する場所も、切断も、全て知識がありきの能力だ……」
低い声で淡々と話す彼らのキャプテンは、随分と謙虚な男らしかった。
能力者らしいが流石に新世界で船長を張っているともなると能力だけに頼り切ってもいないのだろう。スキャンという言葉がでたが、ギロギロの実あたりのの類いなのだろうか。ペンギンとシャチのキャプテンなことも、不思議とどこか真剣に聞こえる口調も、ロシナンテの警戒を緩めるには十分だった。
「おそらく解毒薬の処方であってるだろう。ウチにある薬品で調合できる。アンプルも、確かに効果がありそうだ」
パキンとアンプルを割る音がして飲み干したらしい気配がする。
「へェ~」
ロシナンテはすっかり感心して声を上げた。
「……薬も、別にスキャンしたら薬剤がわかるって訳じゃねェんだ。薬の知識ありきであって……って、いやそんな話しをしたいわけじゃねェな……」
「よく勉強してるんだなァ……」
ロシナンテの感嘆に何を思ったのか、キャプテンは黙り込む。そのままがちゃがちゃと後ろを向いて何かを漁る様子のキャプテンに代わるようにシャチとペンギンが話しかけてきた。
「で、これからアンタどうするつもりなんだ?」
「おれたちはキャプテンに解毒剤が効いたら、まず艦にもどるつもりだけど、アンタはなにか策があるんだろ?」
「そうなんだけどな」
「できることがあれば、手伝うよ」
シャチの提案にロシナンテはふむ、と考え込んだ。ドジって時間を食ってしまったので今からスモーカーたちに合流する時間は無い。自分は別行動で五番島に向かうべきだろうか。だが、出来ればセンゴクへは言付けておきたかった。
「……なら、一つだけいいか?」
胸元から文書の筒と彼らがくる前に今書いておいた言付けを取り出す。
「おれの手当は今はいい」
「でもコラソン、目が見えてねェんだろ? 止血だって完全じゃねェ。ちょっとまっててくれよ、キャプテンが今解毒して……」
「それより、急がなきゃならねェんだ」
ロシナンテが彼らに差し出したカモメの刻印のある文書の筒を見て、シャチとペンギンは驚いた様子だった。
それもそうだろう──彼らに会う時はいつも〝コラソン〟として接していた。
身分を明かすのは賭けだが──ロシナンテは大抵いつもこういう賭けには勝ってきた。
「海軍の情報文書……コラソン、やっぱり海兵か」
「はは、黙ってて悪かった。……任務中だったもんで。海兵は嫌いか?」
ここまできて、この青年たちが自分を見捨てていくと思うほどロシナンテの目は節穴ではない。
だが、彼らが気にしているのは彼らの後ろでずっと動かない男だった。
「おれらはともかくキャプテンは──」
「──嫌いじゃねェ!」
キャプテンはシャチの言葉を遮るように声を荒げた。
ぎょっとした三人に取り繕うように声を低める。悪い、と一言おいて、それでも強く訴える。
「政府は嫌いだ。その手下の海軍も。でも……海兵は、嫌いじゃない」
何か思うところがあったのだろう。
噛みしめるような声に、ロシナンテはほっと口元を緩めた。その言葉があまりに真剣で、ロシナンテの方が驚くほどだった。
「じゃあこれを……海兵ならだれでも……、いや……」
G-5の海兵に万が一はないだろうが、思い出したのはヴェルゴのことだった。もしそういうものが忍び込んでいて、彼らが傷つけられるのは本意では無い。
「上に葉巻を銜えた厳ついおっさん将校が──」
「白猟のスモーカー」
「……知ってるのか! そいつに渡してくれないか。筒を見れば協力者だと分かるし、一応これもってりゃあ海賊だろうが協力者として見逃すようになってる」
男は二三歩、なぜかわずかに覚束ない足取りでロシナンテに近づいた。ペンギンが場所を譲り、男がロシナンテの目の前に膝を突くのが気配で分かる。ロシナンテが持ち上げた筒を見つめているが、それをまだ手に取ろうとはしなかった。
短く息を吸う音。固い声がロシナンテの耳に届いた。
「……これを海兵に渡せばいいんだな」
「ああ、お前達のだれでもいいから、頼めねェか」
「おれがする」
ロシナンテの言葉尻をとるようにキャプテンが声を上げる。身を乗り出すような声にロシナンテも驚いた。
「良いのか……?」
「ああ。正しい相手に……必ず渡すよ」
男の声は、ロシナンテが不思議になるほど真摯に聞こえた。
よほどクルーを大事に思っていたのだろう。全く人には親切にしておくものだと過去の自分に賛辞を贈る。
「その前に──〝ROOM〟」
「うわ、なんだ?」
「気を楽にしろ……手当が先だ。おれは医者だぞ」
救急箱と合わせて応急手当をする男の手際は確かにシャチたちのの自慢するように名医であるようだった。
あっというまに針の刺された傷みも無く肩と腹の銃創を縫合され、止血と固定をされた傷口にロシナンテは感嘆と笑みを浮かべた。
目元に光を当てられても抵抗する気も起きない。目元に手をかざされたかと思うと、不自然に目が乾いたかと思うとすぐに眩しさが収まる。目元にガーゼを当てられた。
「あと十分くらいは目ェ閉じてろ。硫酸とかじゃ無くて良かったな。移植の手間が省けた」
「移植までできるのか」
「そこにドナーが転がってンだろ。内臓移植手術だって眼球移植だって今この場でできる……」
「怖いこと言うなよ!今すんじゃねェぞ?」
「ああ。あとでな……」
てきぱきとした動作の一つ一つが、医者としての責任感とロシナンテという患者への配慮に満ちている。海賊だと言うから実のところどんな藪医者かと本当はわずかに身構えていたことが申し訳なくなるほどに、彼は医者だった。
──いいなァ。
ロシナンテは肩の力を抜いてこの若い医者に身を預けながらそう思った。こんな医者が、あの旅の中に居てくれたらどれだけ良かっただろう。
──ローもこんな風な医者になってくれていたらいいなァ。
感心しているうちに、あっという間に処置は終わったらしかった。
「若いのに良い医者だなァ」
「……アンタにそう言ってもらえたなら、本望だよ」
男はわずかに笑ったようだった。
「じゃあ、これ頼む」
「……あ、あ……」
片膝を突いたまま、ロシナンテの差し出した筒を握りしめた。
わずかにふれた指先が震えているような気がしたのはロシナンテの気のせいだろうか。文書を握り込む手は白くなるほど力が込められている。
その様子を解してやりたくて、ロシナンテは筒を握る男の手を重ねて包み込んだ。冷たい手だ。まるで、あの日の幼いあの子どものように冷えている。
「大丈夫、あんたみたいな良い医者にこんなことを託すのは申し訳ねェが。おれの最後の仕事なんだ。頼めるか」
「……うん」
どこか幼い仕草に、ロシナンテは思わず青年の頭があるだろうに手を置いた。
「ついでにスモーカーに伝えてくれ、〝世界貴族〟の手先が入り込んでる。もみ消される前に公表しろって」
「世界貴族!?」
ペンギンとシャチの驚きの声がそろう。それにロシナンテは咳き込まないように軽く笑った。
「心配すんな。世界貴族も表だってこういうのに手を出しているとバレたくはねェはずだ。多分人間屋──あー〝職業斡旋所〟で奴隷を買えない位の分家だろ。公表されちまえば手を引かざるを得なくなる」
「あんたは……どうする」
「五番島へ向かう。もし聞かれたらおれのマリンコードは」
「0、1、7、4、6」
「……え」
男はいつのまにか筒を手に立ち上がっているようだった。彼の視線が自分に注がれているのがわかる。
「なんでそれを……」
「……もうあんな失敗はしねェ」
ロシナンテが絶句していると、男はまるで先ほどの様子が嘘のように堂々と指示を飛ばしはじめる。
「シャチ。この人についていって手伝ってやれ。借りは返す」
「……アイアイ!」
「ペンギンはおれと来い。艦へ向かう。ベポを拾って、そのまま合流」
「…了解!」
ROOM、と先ほどから何回か聞こえる呪文のような言葉と共に自分の防音壁の中にいる時と似た外界から隔離される感覚がする。
「じゃあ今度こそ必ず、隣の島で落ち合おう」
「え……?」
その言葉を最後に〝キャプテン〟とペンギンの気配がまるで魔法のようにかき消えた。