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「まだ動くんじゃねェよ! 涙液溜まるまで我慢!」
思いのほか力強くシャチに肩を押さえられて、ロシナンテは自分が身を起こしていたことに気が付く。
──隣町で落ち合おう。
そう約束したのは、ロシナンテの生涯で一度だけだ。それを知っているのも一人だけ。
心臓が嫌な風に跳ねてロシナンテが手に掛けかけてた目元のガーゼをシャチが慌てて押さえる。
「まだ取るなって! 失明したいのか!?」
「ッ……!」
あの言い回しが偶然似ることなどあるだろうか?
今度こそ、必ずなんて、初対面の海賊に言われることがあるか? 自分のあのマリンコードももう知っているのはロシナンテとセンゴクくらいのもので再任用のロシナンテの今のマリンコードはあの時とは違う。
あの名乗りを知るのはあの時あの島にいたドンキホーテ海賊団。
そしてあの時背中に居たあの子どもだけだ。
海兵としての馬鹿げた矜持の現れ。最後はどうしても、海兵として死にたかったロシナンテのわがまま。
「まさか……」
ファミリーがわざわざ始末した幹部のM.Cなど覚えているわけもない。 もし覚えているとしたら。
もしかしたら。
まさか。
「落ち着け……もうキャプテンたち行っちまったから」
「……っ」
シャチの心底案じる声に、ロシナンテは自分がまた性懲りも無く動こうとしていたことに気が付く。
あの「シャンブルズ」なんていう呪文のような言葉と共に彼らの気配がまるで瞬間移動でもしたかのように消えてしまったことはロシナンテも分かっていた。それなのに狼狽しきってしまったのはドジだ。
「はァ……、おれのドジっ子……」
ガーゼの当てられた目元を押さえて深く深く息を吐く。自分を落ち着かせるための深呼吸だった。
「…大丈夫か? もうちょっとだからよ」
「……おう、ありがとう」
「キャプテンが色々残してってるぜ……服着替えるか? これ海兵の服だ。あ、コラソンののしたやつからあの人服かっぱらってるよ……」
「……おう」
「あ、飯だ。これ食って良いのかな。半分食うだろ?」
「……あ、ああ」
「食うぜ」
シャチの声かけも尽きて、沈黙が降りる。
もぐもぐと近くで飯をかき込むシャチの声が聞こえる。慣れた海軍のカレーの匂い。どうやら艦の弁当らしかった。一体どこから拝借してきたのだろう。
ぐるぐると頭が疑問で埋まる。
「──なァ」
それでもどうしても黙っていられずにロシナンテはシャチの居るだろう場所へ顔を向ける。 「…何?」
「さっきの医者が……さ。お前達の〝キャプテン〟、なんだよな……」
「……そうだよ」
「せ、背が高く見えたけど、二メートルくらいか?」
「いや、190くらいかなァ。結構鍛えてるからムキムキだぜ」
「そ、そうか、そんなに! え、えっと、良いお医者様、なんだよな」
「……ああ。おれらの知るこの世界で一番の名医だよ」
「ちゃんと、飯、食ってるか?」
「嫌いなもんはあるけどね」
「か、風邪引いたりしてねェ? 熱を出したりとか……」
「…最近はくしゃみしてるのも見たことねェなァ」
「……そう、か。そうかァ……」
「それだけ?」
シャチが促す。
ロシナンテは唇を噛んだ。
「……楽しく、やってるか? 辛いことはねェか?」
シ ャチは応えず、もう十分湿ってべしゃべちゃになったロシナンテの目元のガーゼを外した。
目の前のシャチはぐずっ、と鼻をすすり上げながら、それでも笑う。
「それはさァ、直接聞きなよ。おれはもちろん!って応えるだけだよ」
「うん……うん……、そうだなァ、そうだよなァ!」
せき止めるものが無くなった目元からぼろぼろとこぼれるものを両手で受け止めて、ロシナンテはシャツで鼻を噛む。
ぐず、っと鼻をすすり上げながらロシナンテはライターを擦り上げる。しばらく吸えなかった煙草を吹かし、コートに忍ばせていた手榴弾のピンを抜く。
深く息を吸って、顔を上げた。
涙はまだ頬を濡らしていたが、ロシナンテの目はもう全てが見えていた。
「よし。荷物もって目を閉じろ。五秒後におれに着いてきてくれ」
「〝凪〟」
パチンと指を鳴らす。
「……えっ、おう!」
「〝おれの影響で出る音は全て消えるの術〟……だ」
工場の電力をまかなっている水車の発電所は音も無く爆発する。
電源を絶たれた地下は真っ暗闇に閉ざされる。
ごうごうと炎の燃え盛る音もせず燃える水車を背に、シャチの背を叩いて促し、自分もまた駆け出した。
ロシナンテの行動全てに音はない。
なんだ、どうした! 火事か!? 何の音もしなかったぞ!とざわめき出す人の群れをすり抜けて出口に向かう。工員、奴隷、荷運びの海賊。
彼らの視線は発電所の火事に向かい逆方向に走るロシナンテとシャチは視界から外れる。
一つだけの難関は一つしかない出口だった。
立ち止まり、シャチを手招いて岩陰に隠す。
ロシナンテはそのまま岩陰から彼らの背後に滑り込んだ。
ロシナンテの長身の影が、滝ごしに入ってくるわずかに赤みを増した西日によってぬっとかかる。
「どうした? 下が騒がしいな……ぐッ!」
「きさ──ぎゃァ!」
「〝防音壁〟!」
下をのぞき込む片方の首を腕で締め上げて一息に気絶させる。もう一人の方の膝を撃ち抜いた上で防音壁を張って声を閉ざす。そのまま同じように気絶させ、港にまま転がっているヤードでぐるぐるに締め上げる。
下からここまでに10分かかったかどうかだろうか。昔ならもう少し早かったかもしれない。
〝サイレント〟を解除してロシナンテはフッと息を吐いた。すこし無理をした所為で咳き込む。口元を拭って振り返る。
「よし、気付かれる前に島を出るぜ」
「おう……! は、派手にしねェんじゃねェの?」
「証拠全部取ったからよ、もともとぶっ壊すっつったろ」
滝の裏を抜けて久しぶりの陽光に目を細める。そのまま老人のまつ湾に急ぐ。そのついでにドジってすっころんだが、構ってはいられない。
「ま、本命は次だけどな」
入り江で待つ老人に手を振る。得るネスト翁が眉をつり上げてロシナンテを迎えた。既に帆は広げられ、あとはロシナンテを待つばかりになっている。
「遅い! 先に行くところじゃ!」
「間に合った!?」
「ギリギリじゃ。すぐ出すぞ」
「シャチ、お前帆船の航行経験は!?」
「ない! でも落ちても泳いで着いてくから」
シャチの言葉にロシナンテは頷き、血やら薬液やらにまみれて焦げたファーコートを脱ぎ捨てる。
何でかシャチの持っている海兵の服に袖を通す。雑用と大きく書かれているのがまったく格好が付かない。
けれど、これがロシナンテだ。
海軍本部雑用ロシナンテだ。
「よォし、出航だ!」
ロシナンテの言葉に合わせて、帆が追い風をはらんで湾を離れた。